7.峨鍈が瓊俱に勝る理由
「天連様は、父上が留守で寂しいですか? ――父上が恋しい?」
蒼潤は反射的に眉を顰める。
どう答えるべきかと思い悩んでいると、ガツンと木刀が強く弾かれる音が響いた。
そして、すぐさま峨驕が荒々しく歩み寄って来て、握り締めた己の木刀で峨軒の左肩を強く打った。
「痛いっ!」
「くだらないことを聞くな!」
峨驕が再び木刀を振り上げたので、蒼潤は慌てて立ち上がり、2人の間に割って入る。
「やめろ、驕!」
「でも、天連様。そいつが天連様に無礼を働いたのです」
「俺は無礼だとは思っていない」
「でも、不快に感じられたでしょう?」
峨驕が蒼潤の表情からその心の動きを敏感に感じ取っていたことを知り、蒼潤は居心地が悪くなる。
こんなところまで父親にそっくりだ。峨鍈もよく蒼潤の表情から蒼潤の想いや考えを察してくる。
わざわざ考えを口にする必要がなくてラクだと感じる時もあるが、蒼潤の想いとズレている時には訂正するのが実に面倒だった。
蒼潤は頭を左右に振って峨驕に向かって答える。
「少し言葉に詰まっただけだ」
事実、蒼潤は峨鍈の息子たちの前で、彼の不在が寂しいと口にするのを躊躇って、答えに詰まってしまったのだ。
だって、殊更、寂しさを感じるのは夜だからだ。ひとりで使う臥牀が広く感じて、彼が恋しくなる。――なんてことを彼の息子に向かって言えるはずがない!
だが、不快だとまでは感じていなかった。
「軒、お前たちの父親がいないおかげで、俺は俺の時間をのびのびと過ごせている。それを少し寂しいと思うが、普段できないことができて、それなりに充実している」
不快に感じていなかった証に蒼潤は峨軒の問いにしっかりと答えてから、峨驕に振り向いた。
峨驕の背後では、木刀を弾かれた峨桓がそれを拾い上げ、不安げな表情でこちらを見つめている。
峨桓は争いを好まない穏やかな性格をしていて、峨驕に従順であるため、梨蓉が我が子と同等の教育を与えていた。
峨驕も峨桓に対しては良い兄として振る舞っていたが、同母弟の峨軒に対してはひどく邪険であった。
時折、何がそんなに気に障るのか、峨軒を疎ましく思う気持ちを暴力で示そうとする。
誰かが止めに入らなければ止められないほど、峨軒の体を打ち据えたり、何度も何度も蹴りつけたりする。
その様子は、同じ腹から生まれた兄弟なのに……と梨蓉を悲嘆させ、悩ませていた。
「驕、軒はお前の弟なのだぞ」
「ならば尚更です。天連様を傷付ける者を、俺は絶対に許しません」
「俺は傷付いてなどいない。お前はもっと弟に優しくなるべきだ」
「だったら、まず天連様がもっと俺のことを気に掛けてください。もっと俺を見てください!」
何を言っているんだと戸惑いながら、蒼潤は声を荒げた峨驕につられるように大きな声を出す。
「見てたよ!」
「いいえ、俺ではなく軒を見ていました!」
「そんなの一瞬だ。ずっとお前を見てた!」
――お前と桓を。
峨桓の名は出すべきではないと直感して蒼潤はその言葉は呑み込み、苦々しく思う。
この面倒臭さも父親にそっくりだ。
「父上がいない時は、俺のことを見てください」
言って、峨驕はしょんぼりと肩を落とした。急に威勢を失い、沈み込んだ峨驕に蒼潤は眉根を寄せる。
なぜ峨驕はこんなにも不安定なのだろう。
父親が戦地に行ってしまい、不安なのだろうか。
此度の戦では、峨驕も蒼潤同様、戦場に連れて行って貰えず、父の代わりに家族を守れと命じられたのだという。
そのことを、きっと14歳の少年は荷が重いと感じたに違いない。
当然だ。峨鍈の代わりが峨驕に務まるわけがない。峨驕はまだ子供なのだから。
蒼潤は己自身が14歳だった頃を思い出して頷く。
「驕、心配するな。お前のことは俺が守ってやる。もちろん、みんなのこともだ。俺たちは家族なのだから」
峨鍈の子供たちは、蒼潤にとっても大切な子供たちだ。
彼の側室たちだって蒼潤の守るべき家族である。それを峨驕ひとりに背負わせるつもりはなかった。
蒼潤は峨驕を安心させたくてそう言ったのだが、峨驕の表情はみるみると強張り、青ざめていく。
「天連様は何ひとつ分かっていない」
「分かっていない? 何を?」
蒼潤が眉を大きく上げて聞き返せば、峨驕はすっと視線を逸らして沈黙した。心を閉ざされてしまったように感じて蒼潤は悲しくなる。
機嫌を取ってやるべきなのだが、どうすれば良いのか分からず、お手上げだった。
「天連殿、こちらにいらしたのですね」
そこに梨蓉と他の側室たちが連れ立ってやって来た。子供たちの母親の登場に蒼潤はホッとして、彼女たちに振り向く。
嫈霞と明雲は果物を盛った器を抱えており、雪怜は7歳になった娘の寧と手を繋いでいる。
寧は年の暮れの生まれなので、7歳と言っても、同じ年齢の子供たちと比べると体が小さく、何をしていても幼く見えた。
「天連さまーっ」
寧が蒼潤の姿を見て雪怜の手を放し、両腕を広げて回廊を駆けて来る。
蒼潤は、はっとして回廊に体を寄せると、飛びついて来た寧の体を受け止めて、そのまま抱えた。
「寧、いけません。危ないと何度も言っているでしょう」
「いや、大丈夫だ。雪怜、気にするな」
娘を咎めた雪怜に蒼潤は苦笑を漏らす。
以前、蒼潤は飛びついてきた寧の重みに耐えきれず、後ろにひっくり返ったことがあった。だが、それは寧が悪いのではなく、峨鍈のせいだ。
その日、蒼潤は目覚めたとたんに峨鍈に組み敷かれ、激しくされた。
重怠い体を何とか起こして過ごしていると、寧が蒼潤を訪ねて西跨院にやってきて、蒼潤の姿を見るや否や、駆け寄って来て飛びついたのだ。
蒼潤は天地がひっくり返るのを感じて必死に寧を抱え込み、そして、背中から倒れた。
峨鍈は寧を叱りつけたが、蒼潤は峨鍈に激怒した。
――お前が朝から盛るからだ!
すると、気不味くなったのか、寧を西跨院から追い出して蒼潤に向き直って言った。
「お前こそ物欲しそうな顔をしていたではないか」
「はぁ!? ふざけんなっ。そんな顔していない! だいたい、じじいのくせに、なんでそんなに朝から元気なんだ!?」
「お前の髪が朝陽に透けて蒼く輝いて見えたのだ」
「で? だから何だって言うんだ。俺が悪いって言うのか? 俺の髪のせいか? だったら、この髪、切ってやるよ」
言って蒼潤が自分の髪を無造作に掴んで短剣を握れば、峨鍈はサッと顔色を変えて狼狽えた。
「やめろ。やめてくれ。儂が悪かった!」
一転して謝ってくる峨鍈に蒼潤は冷ややかな眼差しを向ける。
つ、と剣先が蒼潤の髪を数本切り落とし、パラパラと髪の毛が床に散った。
「天連っ!」
この髪がそんなに大事かと呆れたが、蒼潤はこの辺りで勘弁してやることにする。
寧にもきつく言い過ぎたことを謝るようにと告げて、蒼潤は剣から手を放した。――これは、峨鍈が戦場に行く少しばかり前の出来事だ。
こんなことがあってから蒼潤は寧の姿を見ると、その動きに警戒をするようになって、いつ飛び掛かってきても大丈夫なように身構えている。
寧は口が利けるようになってからずっとおしゃべりで、お転婆だ。
赤子の時は峨鍈に似ていると思ったが、年々と雪怜に似てきて、このまま育てばさぞかし美しい娘になるだろう。
だからと言うわけではないが、寧に傷ひとつ付けるわけにはいかなかった。
「天連さま。天連さま。あのね、あのね」
「うん。なんだ、寧?」
「猩瑯から、とどいたのよ」
「猩瑯から届いた? 何が?」
「文ですよ。仲草殿が届けてくださいました」
寧の言葉を待っていては、なかなか要領を得られないと判断して梨蓉が口を出し、すっと蒼潤に文を差し出した。
蒼潤は寧を回廊に下すと、それを受け取り、その場ですぐに文を開く。
猩瑯からと聞いて、てっきり峨鍈からの文かと思いきや、書かれている文字は柢恵の手によるものだった。
「猩瑯に来て欲しいとある」
「ええ、仲草殿からもそのようにお聞きしております」
「仲草は他になんて?」
「殿が随分と弱気になられているようだと。猩瑯城から退いて、葵陽で迎え撃った方が良いのではとおっしゃって来られたので、仲草殿が文で一喝されたそうです」
――ここで撤退すれば、殿の負けです。葵陽は瓊俱軍に蹂躙され、殿がこれまで築き上げてきたものはすべて崩れ去るでしょう。ですが、ここで踏み止まり耐え抜けば、必ず勝てます。
「瓊俱は一見すると寛大のようですが、内面では常に人を疑います。公豊の一件でそれが明らかとなりました。瓊俱は人望を失いつつあります。他人を信じられぬ者は、他人からも信用されぬからです」
梨蓉は孔芍が文に記して峨鍈に送ったという内容を孔芍本人から聞き出して、それを己自身の言葉を加えながら語った。
その様子は蒼潤に話しているというよりも、父親を案じているだろう子供たちに聞かせているようだった。
「対して、殿は人を信じ、頼ることを知っています。生まれや育ちで人を見ず、その者の能力を見抜き、適した役目を与える。真心と誠意で人々と接した結果、忠義心を抱いた者たちが殿の周りに集まるのです。また、瓊俱には決断力がなく、策が多ければ多いほど優柔不断になります。それは瓊俱の3人の息子たちを見れば明らかです」
聞くところによると、瓊俱は後継を決められずにいるのだという。
通常であれば、長男が後継に選ばれるものだが、長男の生母よりも三男の生母を寵愛し、三男を溺愛しているためである。
長男と三男が争えば争うほど、周囲の者たちの目には、これまた生母の異なる次男がまともに見えてくる。
こうして3人の息子たちはそれぞれ派閥を作り、跡目争いを繰り広げていた。
戦場における瓊俱の周囲は常にこうだ。
長男を指示する軍師が、三男を指示する軍師と相反する策を瓊俱に提言し、そこに次男を指示する軍師がまったく異なる策を提言する。
軍師たちは激しく言い争い、己の策こそ最上だと言って、瓊俱に判断を委ねる。
すると、瓊俱はどの策も見事だと大きく笑い、軍師たちを称賛し、そして、何一つ決めないのである。




