6.終わりの見えない籠城
次に、陣中で病が流行り、戦どころではなくなる場合。
或いは、著しく天候が悪化し、やはり戦どころではなくなる場合。
天候をどうこうすることはできないが、病に似た症状を起こす毒を敵の飲水や食事に混ぜることはできる。
だが、此度の戦で瓊俱が率いてきた兵士の数を考えると、現実的な策とは言い難かった。
他の要因として、戦死者が増えた場合がある。
寝食を共にしていた仲間が死ねば、兵士たちの士気は低下する。
あいつが死んだ。あいつも死んだ。あいつも、あいつも、となれば、次は自分に違いないと思うからだ。
さらに将軍が戦死すれば、軍全体の士気は著しく低下する。
脱走者が増え、日に日に戦力が落ちていき、退却を決断せざる得なくなる。
そして、最後に挙げる例として、兵糧を含めた物資の不足がある。
「瓊倶軍の輜重隊を襲うか」
「良い手だと思います」
ぼやくように言ったのだが、返事はすぐにある。柢恵だ。
峨鍈の執務室に文机を運び入れて、共に葵陽から届いた書簡に目を通していた。
潘立も柢恵の向かいに文机を置いて葵陽から届いた書簡に筆を走らせていたが、柢恵の言葉に同意を示す。
「兵糧に不足はないとは言え、籠城戦においては、攻める側よりも守る側の方が精神的負荷が大きいものです。時には攻めに転じることも必要でしょう」
まさに峨鍈が抱える苦しさもそこにある。
いつまで続くか分からない状況と、攻め立てられている苦しさに追い詰められていた。
瓊倶軍は当初35万。
利斗での戦いで、30万以下まで減らせたが、まだまだ大軍である。
大勢の兵士たちの腹を満たすためには大量の兵糧を必要とする。これが不足すれば、たちまち軍は崩壊するが、どうやら瓊倶軍の兵站は上手くいっているようだった。
兵糧は瓊倶の勢力下にある各地から豪に集められ、漣登から清河を渡り、利斗から瓊倶の陣営に輸送されている。
「清河を渡る時に襲い、兵糧を流してしまうか」
「良いですね。やってみましょう」
「芝水あたりにやらせてみるか」
芝水は夏葦の字である。
「鍾殿が良いでしょう。殿のもとに来てまだ日が浅いので、一刻も早く功を立てたいと思っているはずです。その機会を与えてやるべきです」
一理あると思い、峨鍈は瓊倶軍の輜重隊が清河を渡る際に鍾信に輜重隊を襲わせた。
すると、翌日から瓊倶は清河の警戒を強めた。
清河の河畔は見通しが良いため、警戒が厳重になれば、そこで襲うことは不可能だ。
故に2度目は、瓊倶軍の輜重隊が清河を渡り切り、気が緩んだところを狙って襲った。
それ以降、瓊倶は輸送の度に道を変えるようになる。
利斗から猩瑯までの道はいくつかあり、そのうちのどの道を使用するかは、予測が付かない状況になった。
戦局が膠着して、直に4ヶ月が過ぎる。
夏銚が具足を響かせながら峨鍈の執務室にやって来た。文机を挟んで向かい合うように座ると、兜を取って傍らに置いた。
「偶には外に出て兵士たちに顔を見せてやってください」
その通りだと柢恵も潘立も頷く。
ここ半月ばかり峨鍈は現場の指揮を夏銚や夏葦に任せ、執務室に籠もり続けていた。
2人の報告によると、動きがあったと言えるのは、瓊倶が築いた土塁ばかりだ。
瓊倶は猩瑯城に対するように陣を敷き、土塁を築き、櫓を建てている。もはやそれは陣というより砦であり、街のようでもあった。
櫓からは絶えず矢が放たれてくる。
矢は雨のようで、矢を射ている間に土塁の前に更に土塁を築く。そうして、徐々に猩瑯城に向かって前進してきていた。
すでに土塁は三重にもなっている。
瓊倶が猩瑯に迫り来れば来るほど、峨鍈軍の受ける威圧感は増し、戦わずして負けに近付いているようであった。
時間が経てば経つだけ弱っていく。その光景や兵士たちから感じる疲労感を目にしたくなくて、峨鍈は執務室に籠もって葵陽から届く政務に没頭していた。
「籠もってばかりいるから、気が滅入るのです」
「滅入っているように見えるか?」
「不幸を呼び寄せそうな顔をしておいでです」
峨鍈はわずかに笑った。
二人きりの時、夏銚は峨鍈に対して従兄らしい口調で話すが、今は柢恵と潘立が峨鍈の側にいるため丁寧な言葉を用いて話してくる。
そのことを寂しく思う時もあり、誇らしく思う時もあった。そして、今は後者だ。
彼ほどの者を麾下に置いている。そう思うと、胸が暖かくなる。
「お前と話して気が楽になった。――だが、相変わらず勝機が見えん。苦しいな」
瓊倶軍の兵士はかなり減ったが、峨鍈軍も無傷なはずがない。
6倍近い兵力差は変わらず、その差でもって瓊倶が押し寄せてきていた。
じわり、じわり、と峨鍈は己が殺されていくのを感じていた。
――楽になれるのだろうに。屈してしまえば。
ふと、暗く重い心の澱のようなものが囁く。
奴の足下に平伏して許しを請えば、どんなにか楽になれるだろう。
雨のように矢が射られる度、土塁が前進する度に、そんなことを考えてしまう。
「やはり」
柢恵が重く淀んだ空気を切り裂くように言い放った。
「天連を呼びましょう」
「それがいい」
夏銚も大きく手を打って頷く。
峨鍈はすぐさま眉を顰め、片手を大きく振った。
「必要ない。呼ぶな」
「しかし、殿は弱気になっておられる」
「あいつは儂が弱気になっているからと言って、慰めてはくれんぞ」
「それは殿が天連の前では弱音を吐かれないからです」
峨鍈は低く唸る。一理あると思った。
峨鍈は可能な限り蒼潤の前では強くありたいと願っていた。蒼潤に相応しい男でありたいからだ。
蒼潤がすべてを自分に委ねてくれるように、蒼潤にとって頼りになる男でありたかった。
それ故に、蒼潤は峨鍈の弱さを知らないはずである。
「あれは儂が負けるかもしれんなど微塵も考えておらん」
「俺もですよ」
「馬鹿な。儂にも負ける時があるということをお前は知っているだろう」
「ええ。ですけど、天連もちゃんと知っていると思いますよ。殿は女に迷って命を危うくしたことがありますから」
吟氏のことを言っているのだと峨鍈はすぐに気付く。
あれから3年の月日が過ぎていたが、あの時、峨鍈は多くを失ったため思い出すと苦い感情が蘇ってくる。
そんな峨鍈の様子を見て、柢恵はニヤニヤしながら言葉を続けた。
「それでも天連は殿のことを信じています。殿が瓊倶などに負けるはずがないと。まさか、そこまで信じられている天連の前で殿は弱気でいられますか?」
「いられるわけがないな! すぐに呼ぶべきだ!」
夏銚が膝を大きな手のひらで打ち鳴らす。
「殿も元気になられ、兵達の士気も上がるというものです」
勝手に決めて柢恵は筆を取った。
葵陽に残してきた孔芍と蒼潤に宛てた文を書くつもりなのだろう。峨鍈は観念して文机に頬杖を付いた。
瞼を閉ざすと、蒼潤の声が聞こえたような気がした。
(会いたい)
蒼潤を想えば、とたんに蒼潤に会いたくなる。
会いたくて、会いたくて、堪らない。
風に靡く長い髪に、高く響く明るい声。抱き締めると、すっぽりと両腕に収まる小さくて細い体。すぐ怒り、すぐ笑う、ころころ変わる表情。それらすべてが愛おしい。
峨鍈が愛を告げれば蒼潤は大きな瞳で見上げてきて、少し怒ったような気恥ずかしげな顔をして言ってくる。
――伯旋。俺、お前のことが嫌いじゃない。
素直に『好き』と言えば良いものを、なかなかそうはできなくて、それが蒼潤の精いっぱいだった。
だが、ごく稀に不意打ちのように『好き』と告げてくる。
――好き。本当に好き。好き。お前だけが好き。
その時の心の震えを思い出して、峨鍈は胸を締め付けられる。
(会いたい)
蒼潤だけは守りたいと思って遠ざけたが、そんなものは己の思い上がりに過ぎなかった。
箍が外れてしまった感情が一気に溢れ返り、蒼潤だけを求めて荒れ狂う。
もはや、己ではどうすることもできないそれを鎮めることができるのは、蒼潤ただひとりだけだった。
△▼
峨驕は14歳になっていた。
昨年から随分と背が高くなり、呼ばれて振り返ると、すぐ近くに峨驕の顔があって驚く時がある。
その顔が峨鍈によく似ているので、蒼潤は峨驕の成長が楽しみだった。
「天連様」
階に腰を下ろして峨驕と峨桓の打ち合いを眺めていると、峨軒が回廊を歩いて来て蒼潤の隣に座った。
蒼潤はちらりと峨軒を一瞥してから、再び中庭で木刀を振るう峨驕と峨桓に視線を戻した。
峨桓は11歳。母親の明雲によく似た優しげな面差しをしているが、頭の形が峨鍈にそっくりだ。
だから、後ろ姿は峨鍈そのもので、体つきもどんどんと似てきている。
そして、峨軒は9歳。すっきりとした切れ長の目が梨蓉に似ていて、3人の中で一番美男子だ。
しかも甘え上手で、どうすれば相手の瞳に自分の姿が好ましく映るのか心得ていた。
なので、今も蒼潤の左腕に己の右肩が触れるか触れないかの距離で、はにかみながら話しかけてくる。
その声が、峨驕と峨桓が打ち合う木刀の音で聞こえづらかったので、蒼潤は峨軒の方に体を寄せて耳を傾ける。
峨軒は嬉しそうに笑みを浮かべて、口元に片手を添えて言った。
「父上が留守ですと、天連様がたくさん遊んでくださるので嬉しいです。――あっ、今のは父上には内緒です」
まるで悪戯が見付かった時のような表情を浮かべて身を竦める仕草をした峨軒に、蒼潤は苦笑を漏らす。
蒼潤は、たとえそれが打算的であっても、年下に甘えられたり頼られたりすることが好きなので、峨軒のことを可愛いと思って、その頭をくしゃりと撫でる。
すると、峨軒は気が大きくなったようで、でも、と言って一歩踏み込んだ問い掛けをしてきた。




