5.魏壬を見送る
「先日、わたしは楽弘を討ちました。頂いたご恩はお返しできたと思っています」
「ふむ」
楽弘ほど名の知れた豪傑を一撃で討てるほどの男をこのまま手放してしまうのは、やはり惜しい気がして峨鍈は沈黙する。
あらゆる手を尽くして懐柔しようとしたが、どうにも靡かなかったこの男をもう一度、下すことができないものかと試してみるべきだろうか。
すると、魏壬が察して口を開いた。
「ならば、もうひとり討ち取りましょう。それで主君と我々が雅州を通って越州に辿りつけるよう許可を頂きたい」
「もうひとりか………。しかし、なぜ越州なのだ?」
「それは主君のお考えなので、わたしには分かりかねます」
それもそうかと思いつつ、峨鍈は考えを巡らせる。
峨鍈や瓊俱の力が及ばない地となると、予州、黄州、越州、そして、楢州と冷州だ。このうちならば、蒼彰の妹である蒼麗を頼って予州に身を寄せることが一番妥当であるように思えた。
そして、黄州はない。予州の範匡と黄州の蒼善が敵対関係にあるからだ。
蒼邦まで黄州に入り――蒼善の敵となるのか、味方になるのか知らぬが――争いに加われば、やがて蒼邦は範匡を敵に回すことになるだろう。
蒼邦はけして何者かの下につく男ではなく、蒼彰も己の夫が妹の義弟の下になることを許さないはずだからだ。
(妹を頼りたくない。だが、敵にもなりたくない。だから越州なのか)
楢州と冷州を勢力下におく華泰とは縁もゆかりもないが、越州の蒼勲とは同姓である。
蒼邦とは遠いが、蒼勲は蒼彰の父である蒼昏の異母弟であるから、蒼勲と蒼彰は叔父と姪の関係であった。
(おそらく面識はないはずだが、血を頼るか)
青王朝の皇室は血を何よりも尊ぶので、県王である蒼勲は郡主の蒼彰を受け入れるはずだ。
ふと峨鍈は魏壬の視線に気付き、我に返る。蒼彰や蒼邦の思惑を探ろうと考えを巡らせているうちに、魏壬を惜しむ気持ちが和らいだので、峨鍈は思いを断ち切るように膝を打って、承知した、と応えた。
離れて行きたいと言う者をずるずると引き留めていても仕方がない。そこに峨鍈が欲した忠誠心など欠片もないのだから。
「許可状を書いてやろう。しかし、差し当たって討って貰いたい敵がおらん。このまま発っても構わんぞ」
「いえ、そういうわけには参りません。――貂亥は如何ですか? 楽弘と並ぶ瓊俱配下の猛将です」
「……まあ、いいだろう」
筆を取ると、その場でさらりと許可状を書いて魏壬に渡してやった。
それを懐に仕舞い込むと、魏壬がすくりと立ち上がった。天井の梁に届きそうなくらいに高いその姿を見上げて峨鍈は驚く。
「もう行くのか?」
「はい。さっそく一騎打ちを申し込みに行って参ります。終えましたら、そのまま発たせて頂きます」
「それは構わんが、もしもお前が怪我を負ったのなら、城に連れ戻して手当てを受けさせるぞ」
「承知致しました」
魏壬は礼を取って退室して行った。
まさかその足で城を出て行き、瓊俱の陣営に乗り込むわけではあるまいなと思い、峨鍈も追うように執務室を出た。
すると、魏壬は峨鍈の執務室からまっすぐ厩に向かい、峨鍈が与えた馬に騎乗すると、城門の方へと駆けて行く。
峨鍈は大急ぎで城壁に上り、城門から出て平地をまっすぐ馬で駆けて行く魏壬の姿を目で追った。
(まったく信じられん)
危惧した通りとなり、峨鍈は呆れる。
魏壬は瓊俱の陣営の近くまでやって来ると、大声を上げて貂亥を名指ししたのだ。
その頃には異変を感じた峨鍈軍の兵士たちが続々と城壁に集まってきていた。夏銚も夏葦も峨鍈の隣に並んで城壁の上から魏壬の動向を見守る。
しばらくあって、ひとりの男が魏壬の前に姿を現した。遠目であるため確認が難しいが、貂亥に違いない。騎乗し、大槍を抱えている。
瓊俱軍の兵士たちが2人を取り囲み、囃し立てて大騒ぎしている様子が見て取れた。
「おいおい、大丈夫か?」
「魏壬ならやってくれるだろう。貂亥を討ったとなれば、瓊俱は楽弘に続き、瓊俱軍を支え続けた猛将を2人とも失うことになる。謂わば、車輪を失った車に等しい」
「それは、ただの箱だな。木箱だ」
「そうだ。木箱に収まった瓊俱だ」
夏兄弟がやんや言いながら眺めているのと同様に、峨鍈軍の兵士たちもお祭り騒ぎになって魏壬と貂亥を見守る。
この一騎打ちの勝敗がどうなろうと、峨鍈軍に損害はないので、このように楽観的でいられるのだ。
瓊俱軍の陣営の方から銅鑼が鳴り響いた。その音と共に魏壬と貂亥が馬の脇腹を蹴って駆け出す。
貂亥が大槍を前へと突き出し、それを魏壬が偃月刀で払い、2人と馬は擦れ違う。
一度の切り合いで勝敗がつかなかったので、彼らは再び馬を駆けさせた。
そうして切り結ぶこと数回。ついに勝負が決する。激しくぶつかり合い、地に伏したのは貂亥で、猩瑯城は歓喜に湧いた。
一方、瓊俱軍は静まり返り、火が消えたようになる。その隙に魏壬は馬首を返すと、馬を駆けさせてその場を去った。
しばらくあって、正気を取り戻した瓊俱軍の兵士たちが魏壬に向かって矢を放ち始めたが、その時にはすでに魏壬は矢の届かない距離まで去っており、その姿は西へ西へと小さくなっていった。
「おいおい。魏壬はどこに行くんだ?」
周囲の兵士たちは未だ魏壬の勝利の余韻に浸り、興奮冷めやらぬ状態にあったが、その中でいち早く夏葦が魏壬の行く先に疑問を抱いて眉を顰める。
隠すようなことではないので、峨鍈は端的に答えた。
「魏壬は去った」
「去った!?」
「お前はそれを許したのか!?」
峨鍈の言葉に夏兄弟は驚愕する。
「あいつの忠誠心は儂に向いていない。留めていても仕方がないからな」
「貂亥は置き土産というわけだったのか」
夏銚は、なるほどと納得した風であったが、夏葦は、もったいない、もったいない、と繰り返した。
それを聞かされているうちに峨鍈も魏壬を惜しむ気持ちが蘇ってくる。
「蒼邦よりも先に会えていたらなぁ」
「殿、それは分かりませんぞ」
ぼやいた峨鍈の声を拾って藩立が顎髭を扱く。
いつの間に潘立も城壁の上に登ってきていたのだ。ゆっくりとした足取りで峨鍈の方に歩み寄って来て言った。
「蒼邦のもとには大した部将がおりませんが、殿の周りには夏将軍たちを初めに優れた将軍が大勢おります。その上、魏壬がどんなに忠誠心を捧げても殿が夏将軍たちに寄せる信頼には及びませんし、その代わりになることさえ敵わないでしょう。魏壬は蒼邦のもとにいるからこそ己の価値を示せるのだと分かっているのです」
うむ、と峨鍈は低く唸る。
夏銚も夏葦も身内である。幼い頃から互いのことを知っており、彼らはけして峨鍈を裏切ることがない。
身内贔屓をしているつもりはないが、これはどうすることもできない心情だった。
これは軍師においても同様なことが言える。やはり長く付き合いがある者ほど信頼を置いていた。
中でも柢恵は幼い頃に見出し、育ててきた。もはや息子のひとりである。
「つまり、魏壬はどうあっても儂を選ぶことはないということなのだな」
「殿は魏壬ひとりを得るために夏将軍たちを遠ざけることができますか? そこまでの価値が魏壬にあるとは到底思えません。確かに魏壬は強いです。しかし、その強さは唔貘には及びません。仮に唔貘に勝るとしても、魏壬ひとりのために殿が他を手放す必要はありません。迷うことなく夏将軍たちを選ぶべきです」
峨鍈は潘立に振り返って、ニヤリと笑みを浮かべた。
「お前にそう言われて、魏壬を惜しむ気持ちがなくなった。感謝する。儂は今、自分のもとにいるお前たちを信頼して戦えば良いのだな」
「さすれば、我らは殿の信頼に応えるため力を尽くします」
藩立の言葉に合わせて、夏銚と夏葦、熊匀、卞豹、それに唔貘の配下だった鍾信、そして、周囲にいたすべての兵士たちが膝を折って拱手する。
峨鍈は彼らを見渡して、腰の剣を鞘から引き抜き、高く高く掲げた。
「この戦、必ず勝つぞ! 勝って、国を護り、家族を守り、そして、新たな明日を生きるのだ! 腹いっぱいに飯を食い、温かい寝床で寝る。傍らには愛おしい者がいて、微笑み掛けてくる。そんな日々を守るために勝つのだ!」
おおーっ、と喊声で兵士たちが峨鍈に応える。
彼らも峨鍈に倣って剣を抜き、高く掲げて腹の底から声を出す。
「絶対に勝つぞー!」
「勝って、故郷に帰るぞーっ!」
「勝って、母さんの飯を食うぞ!」
「俺は嫁に会いたい! 必ず勝って帰るぞー!」
口々に叫ぶ兵士たちの声を聞きながら峨鍈は城壁を後にする。
峨鍈が去っても兵士たちの声は長く長く続き、峨鍈軍の士気は最高潮に達していた。
――であれば、後は下がるのみである。
△▼
「苦しいな」
夏も終わりに近付いてきていた。
卓岱の言う通り、どうにか兵糧は次の収穫まで持ちそうであった。
そして、今年の収穫量は例年通りの見込みであり、予期せぬ天災でも起きない限り問題はないはずだ。
故に峨鍈が苦しんでいる原因は兵糧ではない。戦況が長らく膠着しているからだ。
峨鍈が籠城を始めてから、ふた月が過ぎようとしていた。
籠城戦での勝利は2通りある。
敵が退却するまで待つ。
援軍が到着するまで待つ。
此度の戦の場合、援軍などあろうはずがないので、後者での勝利はあり得なかった。
瓊俱軍の退却を待つより他にないのだが、軍が退却を決意する時、その理由となり得る要因はいくつかある。
例えば、本拠地で異変が起こり、急ぎ帰還して収拾しなければならない場合などだ。
瓊俱の本拠地は、渕州の豪である。瓊俱は豪を葵陽にも匹敵する大都市に発展させた。
この豪の警備がなかなか厳しく、そんな中で騒動を起こすことなど、とてもできそうになかった。




