4.利斗の戦い
幼い頃もこんな風に戦場に連れて行けと駄々を捏ねていたことがあったな、と思い出す。
だが、その頃との違いは、蒼潤が己の武を戦場で試したいがためにそのように言ってくるのではなく、峨鍈と離れたくない一心で言ってきているというところだ。
蒼潤の縋り付いてくる手を握って峨鍈は胸が苦しくなる。離れたくないのは自分も同じだ。だが、万が一の時には、蒼潤だけでも逃がしてやりたかった。
「天連、お前にしか任せられないことなのだ」
「でも、俺、嫌だ。――だって、また俺の知らないところでお前に何かあったら、俺、耐えられないよ」
「天連………」
「言ったじゃんか。俺、お前に何かあったら生きていけないって」
「お前は儂が負けるとでも思っているのか?」
「違うっ‼」
大声を上げて即座に蒼潤が否定する。
峨鍈は蒼潤の頬に触れて、指先で耳の縁をなぞり、その手を蒼潤の頭の後ろに移動させた。すると、蒼潤が顔を上げて瞼を閉ざしたので、引き寄せられるように口づける。
「だったら、儂を信じて葵陽で待っていろ」
渋々といった風に蒼潤が頷いたのを見て、峨鍈はその体をゆっくりと押し倒した。
△▼
瓊倶軍が南下を開始したのは、4月に入ってすぐのことだった。
迎え撃つために峨鍈は斉郡城から出て利斗に陣を敷く。すると、瓊倶は清河を挟んで対岸の漣登に陣を敷いた。
睨み合いを始めてから10日目。
瓊俱配下の公豊が1万の兵を率いて清河を渡り始めた。
これに対して峨鍈は夏葦に5千の弓兵を任せて、矢を放たせる。柢恵の投石機も大いに活躍し、力尽きた瓊俱軍の兵士たちが清河を流されていった。
10日後、公豊は3万の兵を率いて再び清河を渡ろうと試みた。
先日同様、峨鍈軍は弓矢と投石機で応戦したが、数に負けて清河を渡り切った兵士が現れる。
すると、すかさず夏銚が1万の歩兵を率いて河岸に立ち塞がり、上陸を許さなかった。
次は少しばかり間が空いて、20日後だった。公豊は5万の兵を率いて現れる。
騎兵を板に乗せて、流されないようにその板を歩兵が支えて清河を渡って来る。
そうして清河を渡って来る騎兵の中に楽弘の姿を見つけて、峨鍈軍はざわめく。
楽弘が瓊俱配下の部将で、その勇猛さは広く知られていた。
「殿、些か厄介な相手が出て参りました」
「石塢がどうにかするだろう」
峨鍈の側で戦況を眺めていた潘立が眉間に皺を寄せる。
「しかし、万が一にでも夏将軍の身に何かあれば、今後の戦術に影響が出ます。とは言え、並みの者では歯が立ちません」
「ならば、どうする?」
「魏壬がいます」
「なるほど。魏壬か」
魏壬を賓客として遇するようになってから1年が過ぎたが、峨鍈が思っていた以上に魏壬の蒼邦に対する忠誠心は厚く、もはや峨鍈は魏壬を取り込むことを諦めていた。
そうとなれば、それなりに働いて貰わなければ困る。
「魏壬を出す。楽弘が渡り切ったら、必ず討ち取れと命じろ」
「はっ」
峨鍈の命令を魏壬に伝えるべく側仕えが陣営を走って行く。
その背を一瞥してから視線を潘立に戻すと、潘立は自身の従者から文を受け取っていた。
「どうした?」
「葵陽の孔殿からです」
「仲草はなんと言ってきた?」
「公豊を生け捕って欲しいそうです」
「何?」
「きっと仲草様には策があるのですよ」
声が聞こえて振り向くと、投石機を指揮していたはずの柢恵が峨鍈のもとに戻って来ていた。
柢恵の投石機には車輪が付いており、戦場を移動させることができた。
「敵が上陸し始めたので投石機を下げました。苦労して造った物を壊されたら嫌なので」
「構わん。どのみち乱戦になったら使えん。――それで、仲草の策とは?」
「仲草様は何度も公豊に文を送っていました。公豊は瓊俱の古参の部将です。瓊俱への忠誠心はかなりのものですから、もちろん返事はありませんでした。しかし、仲草様は構わず公豊に文を送り続け、そのことは瓊俱の耳にまで届いたのです」
「ほう。それで?」
「瓊俱は公豊を呼び付け、お前が余を裏切るはずがないと、その場では言ったそうです。ですが、ご覧の通り、此度の戦で公豊は初戦から前線で戦っています。河を渡ろうとすれば、かならず標的になり、多くの部下を失う。大切に想われていたら、そのような役目を命じられるはずがありません」
「つまり、瓊俱は公豊に疑心を抱いている」
はい、と柢恵は頷く。
「おそらく、今はまだ僅かにといったところでしょう。なので、我々は公豊を捕らえ、すぐに無傷で解放します。さすれば、瓊俱はますます公豊を疑うでしょう。その疑いは瓊俱の兵士たちを動揺させます。あれほどの忠誠心を抱いていた公豊が瓊俱を裏切るのかと」
「面白い。良いだろう。公豊を生け捕りにしよう」
さすがに孔芍が柢恵を幼い頃から面倒を見てきただけのことがある。2人は直接言葉を交わしていなくともお互いの考えが理解できるようだった。
孔芍からの文には『公豊を生け捕りにして、後に解放せよ』としか記されていなかったが、柢恵はその文さえ見ることなく孔芍の意図を察したのだ。
清河の水から続々と敵兵たちが上がって来る。それらを夏銚が迎え撃つが、上陸に成功した敵兵たちの士気は高かった。
数で押し寄せて来た敵にだんだんと峨鍈軍は劣勢になり、もはや退くべきかと思われた時、大きな馬に騎乗した魏壬が悠々と現れる。
通常の馬よりもひと回り大きく見えるその馬は、かつては唔貘の愛馬だった。
陽に透けると赤く見える鬣が美しく、その馬を蒼潤が欲しがったが、気性が荒すぎるので、峨鍈は蒼潤ではなく魏壬に与えた。
その頃はまだ、もしかしたら……と魏壬に期待を寄せていたからだ。
魏壬がどうあっても自分のものにはならないと分かっていたら、馬は蒼潤に与えてやるべきだった。今となっては悔やむところである。
「さて、魏壬。どうする?」
騎兵を乗せた板が続々と接岸する。楽弘も騎乗したまま板から降りると、すぐさま馬を駆けさせ、戟を振った。
峨鍈軍の兵士たちが次々に討たれていく様を遠目に見やり、峨鍈は焦りと苛立ちが込み上げて来る。
そこに偃月刀を掲げた魏壬が駆けて来て、楽弘が周囲に向かって戟を振るうのに夢中になっている隙に近付き、楽弘の右肩から左下に向かって偃月刀を振り下ろした。
どおおおっと楽弘の馬が横倒れになる。
あっという間の出来事であり、誰もがすぐには事態を呑み込めず、戦場が沈黙した。
そして、楽弘の体が2つに分かれている光景と、その傍らで佇む大男の姿を見て、瓊俱軍の兵士たちは悲鳴を上げる。
ある者はその場で腰を抜かし、ある者は武器を投げ出して清河の方へと逃げた。
収拾のつかない状態に陥った瓊俱軍を見て、峨鍈は夏銚に向かって大声を放つ。
「公豊を捕らえろ! 殺すな!」
戦場である。その上、峨鍈の本軍から前線の夏銚までかなりの距離があった。
声など届くわけがなかったが、夏銚が振り向いて峨鍈を見た。そして、夏銚は己の配下たちに声を荒げて公豊に向かっていく。
かくして、公豊は夏銚によって生け捕りにされ、指揮官を失った敵兵たちは清河に向かって逃げ、或いは、投降してその日の戦闘が終わった。
「そろそろ猩瑯城まで退くべきか」
天幕に夏銚たちを呼んで食事を共にしながら峨鍈は言った。
これに同意を示したのは柢恵だ。
「先ほど清河の様子を見て来ましたが、騎馬を運んでいた板と死んだ兵士たちの体を使って橋を造っていました。明日は今日よりも大勢の敵兵が清河を渡って来るでしょう」
「その橋、どうにかならんのか?」
橋と言っても、板と板を固定しただけの極めて簡易的な物だ。簡単に破壊できるはずであった。
「利斗側は壊せましたが、漣登の方は不可能です。清河に近付けば対岸から矢が飛んできますし」
矢が届かない範囲は破壊できたのだと柢恵は言って羹を啜る。
「公豊はどうしている?」
「食事と寝床を与えましたよ。傷も手当してやりました。見張りを置かなかったので、気付けばすぐに逃げてくれるでしょう」
「無傷でというわけにはいかなかったな」
「存分に暴れてくれましたから」
ニヤリとして夏銚が言った。
その向かいの席で藩立が肉を呑み込んでから口を開く。
「拷問の痕跡がないのなら十分ですよ。ところで、利斗の陣営を放棄すると言うのでしたが、夜のうちに動いた方が良いでしょう」
「楽弘を討てたのは大きいです」
卞豹の言葉にその場の皆が同意し、利斗を退いても構わないという雰囲気に包まれる。
利斗での戦で峨鍈軍は十分な戦果を出していた。ここでこれ以上戦っていても、その戦果を無にするような損害を出すだけであることは見えていた。
「ならば、公豊が逃げ出した後に移動する」
「はっ」
一同はその瞬間だけ食事の手を止めて一斉に峨鍈に向かって拱手した。
その夜。焚火や篝火の火は消さずに、峨鍈軍は利斗から猩瑯へと移動する。
猩瑯城に入った峨鍈は、そこで長い長い籠城を開始した。
▽▲
魏壬が暇を請いにやって来たのは、籠城を始めて20日後のことだった。
峨鍈の執務室に現れた魏壬は深々と頭を下げて言った。
「主君の使いが参りました。主君は瓊俱のもとを離れ、清河を渡り、雅州を抜けて越州に向かおうとしています」
「何? 随分と大胆だな」
いくら峨鍈が瓊俱との戦に兵を割かなければならず、他の警備が疎かになっているとは言え、雅州にはそれなりに兵を配置しており、峨旬もいる。
「蒼邦はよく瓊俱から離れられたな」
「瓊俱は公豊を処刑しました。その動揺が陣営に広がっています」
結局、瓊俱は公豊を信じることができず、あの日の夜に公豊が瓊俱のもとに戻って来ると、その無事な姿を見て瓊俱は公豊の裏切りを確信した。
峨鍈の捕虜になったはずなのに拷問を受けるどころか、傷の手当てまでされて帰されるなど、あり得ないと言うのだ。
そして、公豊や周囲が何を言っても聞かずに公豊を責め立ててすぐさま処刑を命じたのだった。
その影響で瓊俱のもとからは離反者が出始めていると聞く。




