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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
11.葵暦200年 猩瑯の戦い

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3.食べ物で遊んではいけない


 峨鍈の顔にちらりと視線を向けて柢恵が手の中の小石をじゃらりと鳴らす。


「殿、もし不安に駆られましたら天連の顔を眺めると良いですよ。あいつは絶対に殿を裏切りませんし、隠し事だってできませんから。そういう奴が傍にいてくれると、心が強くなります」

「いや、此度は天連は置いていく」


 峨鍈が反射的に言うと、柢恵が瞳を見開いて峨鍈の方に振り向いた。

 

「えっ、葵陽に置いていくんですか? あいつ、怒りますよ?」

「此度の戦は、どうなるか分からん。もしも儂が破れたら、あいつは予州に逃す」


 姉の蒼彰のもとにやれたら良いのだが、蒼彰は彼女の夫と共に瓊俱のもとにいる。

 瓊俱に負けた上に蒼潤さえ瓊俱に奪われるなど許せるわけがなく、であるなら、妹の蒼麗を頼って予州に向かわせるべきだ。


「仲草、その時が来たら頼んだ」


 孔芍は皇帝の近くで政務を行わなければならないため葵陽に残る。

 柢恵も潘立も夏銚や夏葦、峨旬もそれぞれ戦場に行くため、蒼潤のことを頼めるほど信用に値する者は孔芍をおいて他にいなかった。

 だが、孔芍が応える前に柢恵が首を横に振って言う。


「負けた後のことを考えているとは、殿とのらしくないです。それに、自分だけを逃されても天連は喜びませんよ。天連に剣を持たせてやってください。あいつはおとこなんですから」

「だが、あいつはあいつ自身が思っているほど強くはない。弓も剣も、幼い頃はあの年齢の割に上手いと思ったが、腕力も体力もなく、それ以上の成長はなかった」

「それでも俺よりは上手いです」

「兵を率いる能力もさほどない」

「あいつの側には安琦がいます。それに、あいつは配下の兵たちに好かれている。――でも、殿。そういうことではないのです。部将として天連を戦場に連れて行けと言っているのではありません。殿の傍にあいつが必要だってことを言っているのです。今までのように此度も天連と共に戦えばいいのに、なぜ此度だけたがえるのですか?」

「陽慧」


 峨鍈は、もうやめろ、と片手を払う仕草をして柢恵の口を閉ざさせた。

 ぐっと喉を鳴らせて柢恵は峨鍈を見つめる。峨鍈はその視線に責められている思いがして柢恵から目を背けた。

 膝に力を込めて立ち上がる。

 

「今日はここまでだ。残りの話は明日以降にしよう」

「はっ」


 孔芍と潘立、卓岱が揃って頭を下げたのを横目に峨鍈は執務室から出た。

 柢恵の物言いたげな眼差しが峨鍈の背を追ってきたが、知らぬ顔をして階を降りる。

 瑞光門を出て、そこに待たせていた迎えの馬車に乗り込んだ。私邸に戻ると、朝服を脱いで蒼潤のもとに向かう。

 西跨院の門をくぐると、私室の前の階に腰を下ろして自分の帰りを待っている蒼潤の姿がすぐに目に飛び込んで来た。


「遅い!」


 深衣の裾を蹴るようにして立ち上がり、蒼潤は、むっと頬を膨らませる。


「早く帰って来いって言ったのに!」

「すまん。ずっとここで待っていたのか?」

「そうだよ。待つって約束したからな。俺はちゃんと約束を守ったのに、お前ときたら、なかなか帰って来ないし! すっかり陽が暮れてしまったじゃないか」


 一日を無駄にしたと言って、ぷんぷんとしながら蒼潤は峨鍈に歩み寄ってくる。峨鍈の方からも蒼潤に歩み寄り、その細い体を抱き締めた。

 蒼潤は朝着替えさせたままの装いをしている。今日は一日その格好のまま、西跨院の中だけで過ごしていたようだ。

 そうして蒼潤が自分の庇護の下にいてくれるだけで、峨鍈は胸が締め付けられるくらいに嬉しくて、蒼潤に対する愛おしさが増してくる。


「天連、好きだ。お前が愛おしい」


 蒼潤の額や頬、こめかみ、瞼の上に口付けて、何度も何度も唇に軽い音を響かせれば、蒼潤は迷惑そうな表情になって、峨鍈の胸板に両手を着いて体を押しやってくる。


「ふざけんな。俺は怒っているんだ。こんなことで誤魔化されると思うな。まずは謝れ」

「最初に『すまん』と言っただろう。天連、口を開けて舌を出せ」

「え、舌?」


 きょとんとして蒼潤は言われるままに口を開けて、べーっと舌を出した。峨鍈はその舌ごと己の口で蒼潤の口を塞いで、舌に舌を絡める。

 怒っていると言っても本気ではないことは分かっていた。けして誤魔化すつもりではないが、こうして深い口づけを与えれば、蒼潤はすぐにそれ以外のことを考えられなくなる。

 峨鍈の衣をぎゅっと握って必死に縋ってきたので、峨鍈は蒼潤の腰に腕を回して支えた。


「すぐに抱きたいところだが、お前、夕餉は済んでいるのか?」

「お前が帰って来たら、一緒に取ろうと思って」

「ならば、夕餉が先だな」


 すっかり足が萎えてしまった蒼潤を横向きに抱き上げると、峨鍈は中庭から階を使って回廊に上がる。

 蒼潤の室に入ると、乳母と侍女が夕餉の支度を整えていた。


「お帰りなさいませ」

「すぐに夕餉を取る」

「承知致しました」


 乳母が室の奥の牀を指し示したので、まずその上に蒼潤を下ろしてから自分も隣に腰を下ろした。

 すぐに酒と料理が目の前に並ぶ。


「俺、今日は大人しくしていたから、明日は出掛けるんだ」

「何? どこに行くつもりだ?」

「陽慧と城壁の外に。良い物を見せてくれるんだって」

「良い物?」


 昼間、柢恵と顔を合わせたが、そのような話を柢恵の口から聞いていない。2人だけで決めたのかと思うと、不快さが込み上げてきて、自然と声音が低くなってしまった。

 しかし、蒼潤は峨鍈の様子の変化に気が付いていないようだ。楽しげに匙を手に取って話を続けた。


「近頃、陽慧は変な手遊びばかりをしているらしい。これは春蘭から聞いたんだけど、匙をこうしてな――」


 言いながら、蒼潤は峨鍈の前に置かれた盃を奪うと、ひっくり返して自分の膳の上に置く。そして、さらに盃の上に匙を置いた。

 すると、当然、匙はつぼの方が重いので、そちらを下にして傾き、柄が上がる。


「それで、匙にこれを乗せる」


 蒼潤は箸を手にすると、器の中から肉の欠片を摘まむと、匙のつぼの部分に乗せた。

 さて、ここからだ、と言って蒼潤は匙の柄を拳で力いっぱいに叩き落とした。


「天連様!」


 柄が下がった反動で匙のつぼに乗せられた肉片が空を舞い、室の入口に立て掛けられた衝立の手前まで飛んで床に落ちた。

 すかさず、乳母が眉を吊り上げて蒼潤を叱った。


「食べ物で遊んではなりません!」

「あはははは!」


 しかし、蒼潤に悪びれた様子がまったくなく、愉快そうに笑って峨鍈に振り返る。


「見た? すごく飛んだだろ? 陽慧はこうやって毎日遊んでいるらしい」

「それは投石器だ」

「投石器?」


 石を武器として用いるようになったのは、遥か昔のことだ。

 その時代は素手で石を投げていた。しかし、人類はかなり早い段階で素手より遠くに飛ばせる道具として投石紐を用いるようになった。

 近年では、主に籠城戦において城壁の上から城壁を登ってくる敵兵に対して落とすといった使い方をしている。

 だが、峨鍈はもっと何かできないものかと柢恵に兵器の開発を命じていた。


「もっと大きな石を、より遠くまで飛ばしたいと思っていても人力では限界がある。――故に、てこを取り入れた兵器だ」

「てこ?」

「お前には難しい話になるが、要するに、少しの力で重たい物を動かしたり、小さな運動を大きな運動に変換する装置のことだ。その匙の場合、匙が乗った盃が支点。匙のつぼの部分が作用点。お前が拳をぶつけた匙の柄の部分が力点だ。力点に力が加わり、押し下げられることで、作用点が大きな力で押し上げられるという仕組みだ」

「んー?」


 理解しがたいとばかりに蒼潤は首を傾げた。

 つまり、と言って峨鍈は、肉片を拾い上げて汚れた床を掃除している乳母を指し示す。


「それが結果だ。肉が飛んだだろ?」

「あー。つまり、陽慧は肉じゃなくて石を飛ばそうとしているんだな?」

「そうだ」

「すごい! 面白そう!」


 仕方がない、と峨鍈は苦笑を浮かべて蒼潤の頭をくしゃりと撫でた。

 できる限り蒼潤を邸から出したくはないが、蒼潤が投石機に興味を抱いたのは明らかだった。


「明日、陽慧に見せて貰うといい。どれほどの石がどのくらいの距離を飛んだのか報告しろ」

「うん、分かった」


 食事を終えて乳母と侍女を下がらせると、2人で臥室に移動する。

 そうしたら後はやることはひとつなので、蒼潤も心得ているとばかりに自ら深衣を脱ごうとした。


「待て。儂がやりたい」

「うん」


 峨鍈が蒼潤の腰の帯に手を伸ばすと、されるままになって蒼潤は牀榻の中で身を横たえる。

 簪を一本一本髪から抜き取ると、その髪が臥牀の上に広がって、長く大きく波打つ。


「伯旋」


 吐息交りに峨鍈を呼んで蒼潤が両手を伸ばしてくる。その手を取って、指に指を絡めて握れば、それだけで互いの体温を感じて心地良さが溢れてきた。

 なあ、と蒼潤が峨鍈の体の下で漏らすように声を放つ。


「いつ頃、葵陽を発つことになりそうだ?」

「あと半月後くらいだな」

「戦場はどこになりそうなんだ?」

利斗りとだ」

「利斗というと、斉郡だな。爸爸ちちうえに会えるだろうか?」


 思わず、うっと峨鍈は言葉を詰まらせた。すると、蒼潤が訝しげに峨鍈を見上げてくる。

 これは遅かれ早かれ蒼潤に伝えなければならないことだと観念して、峨鍈は蒼潤の体を抱き締めた。


「すまん。此度は、お前は葵陽に置いていく」

「はぁ?」


 一瞬前まで蕩けそうな表情を浮かべていたというのに、蒼潤は一気に冷めた顔になり、峨鍈の肩を両手で押しやって体を起こした。


「どういうことだよ?」

「お前には葵陽で任せたいことがあるのだ」


 そんなものはないのだが、咄嗟に口をついていた。

  

「任せたいことって?」

「その時が来たら伝える」

「それって、俺でないとダメなのか? 俺って、どうしても葵陽に残らなければいけないのか? 嫌だ。一緒に行きたい」



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