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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
11.葵暦200年 猩瑯の戦い

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2.決戦前


 朝議後、峨鍈は司空府の執務室に向かう。

 先に来ていた柢恵と卓岱たくたいが執務を行っていたので、しばし手を止めさせ、官奴を呼んで孔芍と潘立を呼びに行かせる。

 皆が揃ったのを見計らって、柢恵が床に地図を広げた。

 それを囲むように床に座ると、柢恵が地図上の和州、渕州、敖州、壬州に黄色く塗った石を置き、雅州、併州、琲州、随州には青く塗った石を置く。


 州の数だけの勝負ならば、峨鍈と瓊俱は互角だった。

 しかし、瓊俱には敵がいない。瓊俱は和州の糜丹びたんを討ち滅ぼし、北の異民族と和睦を結んだため、北の憂いがなく、南へと全兵力を差し向けることができた。


 一方、峨鍈は、予州の範匡への懸念は拭えたが、黄州には蒼善がいて、越州には蒼勲がいる。

 黄州の蔀郡酪県には帷緒と侯覇がいて、奇しくも彼らが蒼善の北上を防ぐ壁となっているので、蒼善が帷緒や侯覇と手を組もうと考えない限り、蒼善の北上の心配はない。

 しかし、峨鍈は、帷緒と侯覇を警戒して峨旬を雅州南東の果那郡に留めておかなければならなかった。


「おそらく、蒼勲は動かないでしょう」


 柢恵が越州を指し示しながら言った。

 これに孔芍と潘立も同意を示す。


「越州は山々に囲まれています。攻め入るのも大変ですが、そこから攻め出でるのも、ひと苦労でしょう」

「蒼勲は越州のみの独立した国を興すつもりなのかもしれません」

「すると、あとは冷州か」


 冷州には華泰かたいがいた。

 ゆう州から異民族を追い払い、楢州と冷州を勢力下に置いている。

 冷州は雅州の西で接しており、楢州は冷州の北に位置する。冷州の華泰が雅州に攻め入ってくるのを防ぐために雅州の西に兵を配置しておく必要があった。


甘靖かんせいを西に送る。おう郡だ」

「ひとまず3千の兵でよろしいかと。果那郡の峨将軍のもとには5千の兵がいますから、華泰への備えはそれでどうにか」

「随州はどうだ?」


 随州には熊匀と阮能を置いている。

 壬州に瓊俱の長男がいたので、これに備えていたのだが、瓊俱は長男を含めて息子たちを渕州の己のもとに集めた。


「瓊俱軍が随州に攻め入ってくることはないかと」

「ならば、熊匀を呼び戻すか」

「そうですね。ですが、随州の珂原城は復興途中であり、人手が必要です。阮殿のもとに3千は置いておきたいものです」

「2千だな」

「では、2千ですね」


 柢恵が小石に墨で2千と書いて地図上の随州の辺りに置いた。

 姶郡には3千。果那郡には5千と書いた小石が置かれている。


「卞殿は、いつ頃お戻りだろうか」


 潘立が『峨旬』や『甘靖』、『熊匀』と書かれた小石を地図の上に置きながら尋ねてきた。

 卞豹べんひょうは蒼麗を予州に送り届けるために2千の兵を率いて琲州と予州の州境に向かっている。


「もうしばらくは掛かるのではないでしょうか」

「卞豹はそのまま併州に向かわせる。おそらく戦場は併州になるだろう」

「殿、斉郡です」


 柢恵がじいっと地図を見つめながら峨鍈の顔を見ることなく言った。その不躾な態度に孔芍と潘立が同時に片眉を跳ねさせる。

 しかし、峨鍈はさして気にすることなく柢恵に視線を向けて答えた。


「ならば、卞豹は斉郡の夏葦のもとに向かわせよう」

「赴郡の夏将軍も斉郡に向かわせてください」

「分かった」


 それから柢恵は手の中で小石をじゃらりと鳴らして、その中から小石をひとつ選ぶと、筆を走らせて『展璋』と書く。


「葵陽の警備は展大尉にお任せするとして、2千くらいでしょうか。最低限の兵力で良いと思います。いざとなれば、果那郡に峨将軍がいますし。――すると、瓊倶に割ける兵の数は6万というところでしょうか」


 ようやく柢恵が顔を上げて峨鍈を見たので、峨鍈は、それで、と潘立に視線を向ける。


「瓊倶の兵力は?」

「おおよそ35万です」

「35万? 何かの誤りではないのか?」

「いえ、渕州に集結しつつある部将と、その部将が率いている兵の数を計算しました」


 峨鍈は低く唸り、地図を食い入るように見つめた。

 思っていた以上の兵力差である。今朝方に見た夢を思い出して峨鍈の胸に不快さが蘇った。

 夢の中の自分は幼子のような姿をしていて、瓊俱は巨人のように大きかった。そして、瓊俱は圧倒的とさえ思えるような強い力で峨鍈を押し潰そうとしてきたのだ。


(勝てない! 勝てるわけがない!)


 そんな弱気な思いが現実の峨鍈の胸にも、ふと過る。


(35万と6万か……)


 だが、勝てそうにないからと戦わないわけにもいかないし、戦う前から負けるわけにはいかなかった。

 兵法の基本は兵数で勝ることであるが、必ずしも大軍が小軍に勝つというわけではない。その逆も歴史的にあるのだ。

 故に、此度も勝ち筋が必ずあるはずである。


「まず戦場になるのは斉郡のどこだ?」

漣登れんとから清河を渡って利斗りとを攻めて来ると思われます」

「では、まず利斗に陣を敷く」


 峨鍈は地図上の利斗を指し示しながら言う。


「ここで瓊俱の渡河を防げるようならそれが最も良いが、おそらくそうはならんだろう。次に備えるために猩瑯しょうろう城の守りを強化する」

 

 利斗より南西の位置に猩瑯がある。葵陽は猩瑯のさらに南西だ。

 利斗と葵陽はおよそ400里の距離がある。これは寝ずに歩き続ければ2日の距離だが、寝ずに、そして一瞬たりとも休まずに歩き続けることなど不可能だ。それに歩兵を率いて進軍するとなると、一日に30里ほどしか進めないので、半月ほどの距離ということになる。


 半月を長いと捉えるか、短いと捉えるかは、状況によるが、概ね戦時において攻め込まれる側は『短い』と感じるものだ。

 つまり、猩瑯を奪われたら葵陽まですぐであるから、何としてでも猩瑯で踏み止まらなければならなかった。


「兵糧はどうだ? 集まりそうか?」


 峨鍈は、じっと静かに座っている卓岱に振り向く。

 卓岱は頷き、皆の視線が己に集中したのを感じて、少しばかり緊張した面持ちで言った。


「珂原や瑞俊にも物資を送らねばなりませんが、今のところ問題はありません。しかし、今後このような場所が増えれば、難しくなってきます」


 珂原の田畑は水没しており、昨年に続き今年も収穫が見込めなかった。

 そして、瓊堵が荒らした瑞俊には餓えた民がおり、彼らは種として取っておくべき穀物も食べ尽くしてしまっていた。 

 戦場となれば、その地の農民は逃げ出し、田畑は荒らされるものだ。なので、今後このような場所がと卓岱は言ったが、それはなかなか難しい話だった。


「ひとまず、夏は越せそうなのだな」

「はい。しかし、それ以後は今年の収穫頼みになります」


 峨鍈が行った屯田制には民屯と軍屯がある。

 流民に土地を与え、農具や耕牛などを貸与して耕作させ、その生産物の5割を税として徴収する。これを民屯と言った。

 対して、軍屯とは兵士に耕作させることをいう。


 多くの兵士を抱え続けていると、常に莫大な費用がかかった。

 ならば、戦時の時にだけ兵士を募れば良いと考えるかもしれない。しかし、寄せ集めの兵は弱い。新兵しかいない軍隊に等しいからだ。

 強い兵に育て上げるためには平時でも訓練が必要である。となれば、兵士たちを長期に渡って抱え込み、食わせていかなければならなかった。


 これの解決策として導入された軍屯は、兵士たちを入植させ耕作させることで、平時には自給自足させるというものである。

 これにより、平時において兵士たちを養うために税収を増やす必要がなくなった。

 

 屯田制の導入から数年。どちらも成果を見せ始め、通常、戦が起こる度に戦場となった土地の人口は減っていくものだが、峨鍈の勢力下にある土地では人口の減少を留めたどころか増加傾向にある。

 人口が増加すれば、それに伴って税収も増え、農民から不当に搾取することなく兵糧の確保ができるようになっていた。


「兵糧に関しては、とりあえず良いだろう。――仲草、例の方はどうだ?」


 峨鍈は敢えて言葉を濁して言い、視線を卓岱から孔芍に移す。

 すると、孔芍はすぐに察して答えた。


「何人かは。後日、名簿を作成してお渡し致します」

「いや、書き残さない方が良いだろう」


 孔芍には、瓊俱の陣営にいながら峨鍈の味方になりそうな者を探して貰っている。

 実際に峨鍈の味方にならなかったとしても、孔芍が文を送ったり、人を送ったりして接触すれば、その者に対して瓊俱が疑心を抱くようになるだろう。それだけでも策は成功したようなものだ。


「ついでにお伝え致しますと、わたしのもとに瓊俱配下の牛訓ぎゅうくんからの文が届きましたので、のちほど殿にお渡しいたしますね」

「いらん」

「俺にも届きましたよ。殿、いりますか?」

「不要だ」

「わたしには届いておりませんぞ。殿、ご安心を」

「えっ。潘殿、届いていないんですか!?」

「陽慧、何が言いたいのだ!」

「おかしいな。潘殿ほど口うるさい方の名が北原に届いていないなんて。――あっ、口うるさいからか」

「口うるさいとは何だ!」

「あのう、わたしも届いていません」


 そっと片手を上げて卓岱が言ったので、今にも柢恵に掴みかからんばかりだった潘立が、はたと動きを止めて卓岱に振り向いた。

 それから潘立は、ごほんと咳払いをすると浮かせていた腰を下ろす。


「孔殿と陽慧に接触してきたということは、これから多くの者が同様に牛訓から文が届くようになるかもしれません」

「その通りです。ですから、殿はくれぐれも猜疑心を持たれませんように」


 ふむ、と峨鍈は孔芍の言葉に深く頷いた。

 分かっている。分かっているが、それでも、疑いが脳裏に過ぎる時が来るかもしれない。

 だが、峨鍈よりも瓊俱の方が猜疑心の強い男であった。自分が不安に思う以上に瓊俱の方が不安に思っているはずだと思えば、耐えることができるだろうが………。あまり自信はなかった。



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