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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
2.葵暦191年の春 渕州冱斡国 出会い
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9.天に連なる者

 

 ふと思い付いたように、白紙の上で筆が滑らかに流れた。

 艶やかな墨が文字を描く。なんて美しい筆遣いなのだろう。真っ直ぐで、堂々と描かれた文字に目を奪われて、じっと魅入ってしまう。


 文字は人柄を表すと言うが、もしそれが本当であるのなら、悪くはないと蒼潤そうじゅんは思った。

 どうだ、と筆を文机つくえに置いて峨鍈がえいが満足そうに振り向く。蒼潤は紙の上の文字を見つめたまま、うん、と頷いた。


天連てんれん。天に連なる者――お前のあざなだ」


 天連、と呟いて蒼潤が視線を上げると、すぐに峨鍈の柔らかな眼差しと目が合って、彼が自分の反応を伺っていたことに気付く。

 頷くだけではなく、ちゃんと言葉で返事をした方が良いだろうか。峨鍈の隣に座って、彼の手元を覗き込んでいた蒼潤は、急に居心地が悪くなって身じろいだ。


 峨鍈に嫁ぐと決めたのは昨日のことで、今日、慌ただしく笄礼けいれいを行った。

 髪を結い上げて簪を挿すというこの儀式は、少女から婚姻可能な女性になったことを意味する。

 一刻も早く蒼潤を娶り、自領に戻りたいとの峨鍈の希望で、蒼潤は15歳よりも前に笄礼を行うことになったのだ。


 ――あざなは如何致しましょうか。


 成人したのならば、当然、幼名は使わなくなる。代わりに、あざなを貰うのだが、これは通常、親につけて貰うものだ。

 ところが、蒼昏そうこんは峨鍈に向かって、こう言った。


 ――今後は殿が誰よりもたくさん、あの子を呼ぶことになるでしょう。貴方がつけてやって下さい。


 そうして、峨鍈が白紙に筆を滑らせて描いた二文字が『天』と『連』だった。

 蒼潤はもう一度、白紙の上の文字に視線を伏せて口を開く。


「気に入った。すごくいい」

「そうか」


 それは良かったと、ホッとしたように峨鍈が微笑んで蒼潤の頬に触れて、耳の形をなぞるように指先で触れてきた。

 こいつは……と、蒼潤は顔を顰める。癖なのか何なのか知らないが、隙あらば触れてくる。

 煩わしいと、蒼潤はその手を払い除け、文机の上に肘を乗せて頬杖をついた。


「昨日の話の続きが聞きたい」

「どこまで話した?」

「騎都尉になったところまでだ」


 生まれた土地から出たことのない蒼潤にとって、峨鍈が話してくれる話は、まるで冒険談のようだった。


 二十代の頃、葵陽北部尉になった彼が違反者を厳しく取り締まったという話では、皇帝の寵愛を笠に着た傲慢な宦官の身内を容赦なく罰したところが爽快だ。

 その者は夜間通行の禁令を犯したので、峨鍈はその者を捕らえて即座に打ち殺したのだという。

 賄賂を受け取らず、忖度など一切しない峨鍈のやりようが、聞いていて小気味が良い。


 もちろん、そんな融通の利かない仕事ぶりでは、選民意識の強い者たちに疎まれてしまうのも当然だった。

 峨鍈は排除されそうになるが、清廉潔白な仕事ぶりだったため付け入る隙がなく、渕州搾邦の県令に栄転というかたちで、帝都――葵陽きようから遠ざけた。


 ところで、峨鍈は、官職を得てから渕州搾邦県令になるまでの間に、梨蓉りようという美しい女と出会っている。

 梨蓉は父親の出世のために瓊倶けいぐという男のめかけになることが決まっていたのだが、彼女のことが諦められなかった峨鍈は、花嫁の馬車を襲い、瓊倶から梨蓉を奪い取ったのだという。

 その話を聞いた時、蒼潤はびっくりして瞳を大きくする。


「そんなに良い女だったのか?」

「あれから十数年経つが、今も良い女だ。いずれ会うことになるだろうが、惚れるなよ」


 一瞬、言われた言葉の意味を捉え損ねて、蒼潤は目をぱちくりさせた。そして、はっ、と軽く笑い飛ばして、誰が、と毒づく。

 峨鍈には既に妻がいて、子も何人かいる。彼の年齢を考えれば、それは当然のことで、そのことに関して蒼潤は特に思うことはなかった。

 だが、峨鍈がそこまで褒める梨蓉という女には興味が湧いた。どういう女なのだろうか。早く会ってみたい。


 それから話は、峨鍈が騎都尉として賊と戦った時のことに移った。

 戦場の話は蒼潤の気持ちを高ぶらせ、どのように戦ったのか、どういう戦術で、誰がどのように動いて、どういう結果になったのか、詳しく聞かせて欲しいとせがみ続け、夕餉が運ばれて来た後もずっと峨鍈の側を離れなかった。


 そして、気付けば、朝を告げる鳥が室の外でさえずっている。

 蒼潤は臥牀しんだいの上で、がばりと身を起こし、血の気の引く思いで辺りを見渡した。明らかに自分の臥室しんしつではない。


「起きたのか」

「うわぁっ、寝てたーっ!」

「ああ、そうだな」


 蒼潤の隣で横たわっていた峨鍈が欠伸を噛み殺しながら起き上がる。

 その姿を見て、蒼潤はますます、やってしまったという気持ちを強くした。

 

「俺、いつ寝たんだろう? 眠った記憶がない。お前が臥牀に運んだのか? なんで運んだんだ。起こしてくれたら自分のへやに帰ったのに!」

「起こそうとしたが、起きなかったのだ」

「だからって、同じ臥牀で寝るな。――ああ、それより早く私室に戻らないと。お前の室でひと晩を過ごしたと知られたら、めちゃくちゃ怒られるぞ」

「構わないだろう。明日には婚礼を挙げる」

「いや、そういうところはうるさいんだ。以前、燕と遠くまで遊びに行って、ひと晩、帰らなかったことがある。殺されるかと思うくらいに怒られて、五日間、祠堂に閉じ込められた!」

「それは心配されたのだ。お前はとんでもないやつだな」


 呆れたように言われて、蒼潤は唇を尖らせる。

 それから臥牀から足を下ろして立ち上がり、昨日の衣を着たまま眠っていたことを確認した。

 じゃあな、と軽く言って、蒼潤は峨鍈の室から飛び出す。幸い、朝陽は昇ったばかりで、行き交う人の姿は少ない。

 誰にも見つからずに私室に戻れるかもしれないと、時折、建物の陰に身を潜めながら私室に急いだ。


 ところが、蒼潤が私室に戻ると、乳母がその入口で待ち構えていた。

 両手を腰に当てて仁王立ちしている姿は、なんとも恐ろしい。


阿葵あき様!」

「待って。お腹が減った。食べながら聞くよ」


 乳母の脇を通り抜けて私室に入ると、既に朝餉の支度が侍女たちによって整えられていた。

 彼女たちは室に入って来た蒼潤の姿を見ると、ホッとしたような、ちょっぴり怒っているような表情を浮かべる。

 言いたい小言がたくさんありそうだ。そう思いながら、蒼潤は膳の前に腰を下ろした。


 蒼潤の身の回りには4人の女がいる。そのうちの1人が乳母の徐彩じょさいだ。

 彼女には娘がいて、その娘も侍女として蒼潤に仕えている。芳華ほうかという名前で、蒼潤の乳姉弟でもあった。

 ちなみに、『芳』は芳華の父親の方の姓で、芳華の父親は蒼昏の侍従だ。


 他の2人は、呂姥りょぼ玖姥くぼと呼ばれる侍女だ。2人とも侍女にしては年齢が高く、既婚暦があった。


 2人の姓につく『姥』という文字は、彼女たちの名ではなく、『年配の女性』要するに『おばあちゃん』という意味を持つ。

 2人とも30前後の年齢であるのに『おばあちゃん』は酷いと思うが、彼女たち自身が望んで蒼潤に呼ばせている呼び名であった。

 もう二度と誰にも嫁がず、残りの人生を主に捧げるという決意の表れが『姥』という文字にはある。

 そして、その想いに倣い、いつしか徐彩も蒼潤に『徐姥』と呼ばせるようになっていた。


「――それでは、峨様の臥室でお休みになられたのですか?」


 呆れたように徐姥が言うと、彼女の隣で芳華が口元を両手で押さえ、まあ、と言って頬を赤く染める。


「婚礼前に阿葵様ったら、ふしだらですわ」

「ごふっ‼」


 まさに飲もうとしていたあつものの汁を噴き出して、蒼潤は芳華に視線を向ける。


「なんだよ、ふしだらって! 眠くなったから寝ちゃっただけじゃないか」

「でも、婚礼前です。殿方とふたりっきりで夜を過ごすだなんて、良くないと思います」

「べつに話していただけだ。それに俺は女じゃない」


 口元を手の甲で拭いながら言い返し、蒼潤は羹を飲み干す。

 それから、ああ、と思い出して、徐姥と侍女たちの顔を順に見渡した。


伯旋はくせんあざなをくれたんだ。天連という。天下の天に、連なるっていう文字で、天連だ」

「素敵な字ですね」


 玖姥が空中に指先で文字を描きながら、にっこりとする。


「今後は、天連様とお呼び致します」

「うん」


 食事を終えて、蒼潤は呂姥の手を借りて新しい衣に着替える。

 髪も呂姥が結い直してくれて、竜胆リンドウの花を模した簪を挿し直してくれた。

 そうして、芳華と他愛もないおしゃべりをしながら、ゆっくりと私室で寛いでいると、姉の蒼彰そうしょうの訪れを受ける。

 避けていたわけではないが、蒼潤が峨鍈との婚姻を決意してから蒼彰と顔を合わせるのは、これが初めてだ。


 嫌な予感が胸を過ぎり、蒼潤は体を緊張させながら蒼彰を室の中に迎えた。

 室に入って来た蒼彰は、耳上の髪を掬うように結い上げて、竜胆の花を模した簪を挿した蒼潤の姿を見て、異様なほど、にこにこと笑みを浮かべる。

 これは、相当、怒り狂っているな、と蒼潤は肝を冷やした。


「潤、そこに座りなさい」


 そこ、と蒼彰は自分が腰を下ろした正面を指差して、有無を言わさず、蒼潤を座らせる。

 二人が向かい合うと、お互いの侍女たちも室の中で対峙するように座って、まるで睨み合っているかのようだった。









【メモ】

あざな

 他人に名を呼ばれることは忌むべきことだったため、名の代わりに使用した呼び名。

 男子は20歳で成人なので、冠をつけて字を得る。女子は15歳で簪を挿して字を得る。

 字を自分自身でつける場合もあるし、変える場合もある。身分が低すぎると、字がない。

 字は同輩から目下の者に対して使う。名を呼んではいけないからといって、親しくもない目上の人を字で呼ぶのは失礼になる。その際は、姓に役職名で呼ぶ。

 親は名を呼ぶ。主君も臣下に対して名を呼ぶが、親しい間柄になると字で呼んだりもする。

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