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けして、お前とは友にはならない


 額に痛みが走った。

 痛みは次第に熱を帯び、つうー、と血を伝わせる。

 小石が石畳の上を弾みながら去っていく。少年は血走った眼で、石を自分の額に投げつけた相手を睨み付けた


「なんだよ、その眼は!」

「気に入らねぇ。生意気な奴だ!」

「宦官の孫のくせに!」


 ――腐った血が流れている穢れた野郎め。


 少年は下唇を噛み締めた。ドクドクと額が脈打ち、燃えるように熱い。

 あまりの怒りに目眩を感じて瞳を閉ざせば、血が額を焼きながら左目へと伝い、更に頬を、顎を伝って胸元に、ぽたぽたと滴ってくるのを感じた。


 薄く眼を開く。麹塵色の袍にじわりと赤が滲んでいくのが見えて、少年は再び瞼を閉ざし、歯を噛み締めた。

 どんなに悔しかろうと、そうして耐えるしかない。

 少年は、彼よりもずっと年上の少年たちに取り囲まれていて、逃げることも、立ち向かうこともできずにいた。


 こういう時、いつもなら従兄が駆け付けてくるはずだった。体格に恵まれた従兄が大きく見開いた眼で睨めば、大人でさえ竦むほど迫力がある。

 ところが、運が悪いことに、従兄は今、少年の父親の用で出掛けていた。


(いっそ、やり返してやろうか)


 ――いいんや、駄目だ。できるものなら、とっくにやり返している。それができない理由は、自分を囲んでいる少年達がいずれも名門の子息たちだからだ。

 下手に手を出せば、後々、親を巻き込んだ大事になる。


 彼らは気に喰わないのだ。宦官の孫という存在が。

 そして、その穢れた存在が我が物顔で街を出歩いているということが――。    


 世は、血を尊ぶ時代である。 

 皇族である蒼家の血をもっとも尊いとし、それに連なった名家の血も敬われた。


 石畳の上に這いつくばった少年の名を、峨鍈がえいといった。

 彼の祖父は、宦官である。これは峨鍈にとって、どうすることもできないことだった。


 学があれば、そこそこの地方官になることができるだろう。

 コネがあれば、そこそこの国官になることができるだろう。

 財があれば、そこそこの地位を得ることくらい、できるかもしれない。

 だが、『そこそこ』から脱するためには、血統、つまり家柄が重視されていた。


 そういった世で、宦官など、下の下。

 財ばかりあっても、その血は卑しいとされ、疎まれていた。


 ――腐った血。


 ポツリと呟かれたその言葉を初めて聞いたのはいつだっただろうか?  もはや、彼は覚えてはいない。

 だが、そうと言われる度に、負けてなるものかという野心が燃え上がったこと、それだけは大人になってからもずっと忘れられなかった。


 ボスッと鈍い音が響いた。峨鍈は腹を抱えてうずくまる。腹を蹴られたと気付いてからも、そうされたことが信じられなかった。

 相手を睨み付ける。すると、再び生意気だと罵られ、顔を殴られた。唇が切れる。

 背を蹴られ、地に這いつくばる。脇腹を蹴られ、転がされた。

 仰向けにされた時、ふと瞼を開いた。


 蒼。

 ――立ち並ぶ家屋の遙か上に蒼があった。


 空か、と峨鍈は吐く。

 憎らしいほど澄んだ蒼い空。腐っていると言われる自分を見下しているかのような空だった。  


「何をしている?」  


 不意に声が響いた。

 太く、低い。少年のものであったが、驚くほど威厳に満ちていた。

 峨鍈を取り囲んでいた少年たちは、その一言だけで、慌てふためき、我先にと逃げていく。取り残された峨鍈は身動き取れず、じっと彼が歩み寄ってくるのを待った。

 彼は石畳の上に転がる峨鍈の元に来ると、その脇にしゃがみ込んで尋ねる。


「大丈夫か?」


 彼が腕を引くので、峨鍈は上体を起こした。

 年上だろうか。従兄よりは年下だろう。すると、自分より二つか三つ上というところだろう。身形が良く、一目で名家の子息だと分かった。

 彼は峨鍈を立たせると、腕を組み、自分より背の低い峨鍈に合わせるように少し上体を屈めた。


「ひどい怪我だ。わたしの家がこの近くにある。来てくれれば、手当くらいしてやるぞ」

「いらない。俺の家もすぐ近くだ」

「ほう。お前、どこの者だ?」

「名を訊く時は、自分から名乗るものだろう?」

「名をいた覚えはない。家名を訊いたのだ」

「同じことではないか」


 腹が立った。

 人とは、その人自身より、その人物の背景にあるものの方が大事なのだ。そう言われた気がした。

 背景。

 ――すなわち、血筋だ。

 峨鍈は眼を細めた。氷のように冷ややかな鋭い視線を相手に向ける。


「姓は峨だ」

「峨旦の縁者か?」

「孫だ」


 祖父の名を口にされて、峨鍈は苛立つ。

 だが、彼は気にする様子もなく、ふーん、と鼻を鳴らした。


「わたしは瓊倶けいぐ奔帷ほんいと呼んでいいぞ」

「瓊家の……」


 瓊家と言えば、四代に渡って三公を輩出した青王朝きっての名家で知られる。

 なるほど、だからこそのこの振る舞いなのか。自信に溢れ、まるで己が王であるかのような態度である。

 峨鍈は奥歯を噛み締めた。

 そんな峨鍈の様子にも気付かず、瓊倶は続けた。


「ここでわたしと知り合えたのは、お前にとって幸運だったな。これからは、先程のような目に遭ったら、わたしの名を出せば良い。大抵の者ならば、わたしの家来けらいには手を出さんからな」

「家来だと?」

「そう思わせておけ。その方がいろいろと得をするぞ」


 唾を吐いてやりたかったが、耐える。

 瓊倶は己が何を言っているのか分かっているのだろうか。分かっていないのかもしれない。

 峨鍈はわなわなと拳を震わせた。やはり、瓊倶は気付こうともせずに続ける。


「助けてやると言っているのだ。お前の眼の輝きは生意気だが、なかなか見どころがある。そのうち、わたしの右腕になれるかもしれんぞ。確かに、お前の生まれは良いとは言えんが、わたしの側にいれば、それしきのこと、いくらでもわたしがどうとでもしてやろう」

「……」

「どうだ? 友人になってやろうと言っているのだぞ」


 瓊倶は背筋を伸ばし、峨鍈に向かって手を差し伸べた。 峨鍈はその手と彼の顔を交互に見やり、押し黙る。

 悩んでいたわけではない。ただ、ただ、瓊倶の言葉が信じられなかったのだ。

 それは、信頼できないという意味ではない。心底、耳を疑っていた。

 震える己の拳を、もう片方の手で押さ付けた。


「わたしはああいうことが嫌いなのだ。ああいう、弱い者虐めというものは」

「弱い者」


 ぞっと肌が粟立った。


(何を言われた? )


 再び、耳を疑う。


(弱い者? 誰が? 俺が?)


 カッ、と頭に血が上り、見る見るうちに顔が赤く染まる。

 瓊倶の手を打ち払って、血走った眼を彼に向けた。


「俺は絶対にお前の下には付かん!」


 瓊倶は嗤った。年下の餓鬼の言う事など、戯れ言としか思っていない様子である。

 峨鍈はひどく腹が立ち、怒鳴り散らしてやりたかった。

 だが、今の峨鍈が何を言っても、おそらく瓊倶は嗤うだけだろう。格下の言うことだ、と相手にさえしない。

 やり場のない怒りは、どす黒く胸に溜まっていく。


 吐き気がする。

 目眩がする。

 頭が痛い。

 息苦しい。


 峨鍈はすべてを拒絶するかのように瞼を閉ざした。


 瓊倶。

 ――瓊家に生まれてきた、ただそれだけの男だと峨鍈は思っている。

 偶々、瓊家に生まれ落ちただけの男。 なぜ、それしきの男の下に付かねばならんのか。

 腑に落ちないことばかりが、この世では多くまかり通っている。そんな気がしてならない。


 10歳の時、13歳の瓊倶と出会い、それ以来、彼は何かと付けて峨鍈に話しかけてくるようになった。

 いらぬ、と言っても、彼は峨鍈が遠慮しているのだと思っているようで、取り囲まれていると知ると駆け付けてくる。

 弱い者を助けることで、優越感に浸りたいのだ。

 自分は良い事をしている、弱い奴を庇っているのだと、自己満足したいのだろう。


 反吐が出る。

 彼が優越感に浸るほど、劣等感が峨鍈の胸を苛んでいく。

 悔しい。だが、この悔しささえ瓊倶には通じない。

 行き場のない憎しみが、黒く黒く変色して峨鍈の胸を犯していった。












【注意書き】


この物語は、後漢時代をモデルに書いておりますが、調べてもよく分からなかったり、私の妄想上どうしても必要な変更があったりで、後漢時代から外れた設定もあります。ご承知おきください。

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