5話 枚瀬さんと魔の5分
枚瀬さんを見守るのだ。
たとえそれが何でもない授業中だったとしても。
「‐‐であるからして、YはXの三倍となるわけだ」
朗らかな陽光が窓から降り注ぐ教室。
おっちゃん教師の単調な解説が、学生たちを春眠に誘う。
僕の席は最後列なので、前を向くだけでクラスメイトの様子を一望できるのだけど、みな睡魔と戦っている。太ももをつねって覚醒しようとする者、限界を迎えカクンカクンと頭を上下に揺らす者、すべてをあきらめて机に突っ伏す者。まあ健全な授業風景ということだ。
そう。いつも通り。何の変哲のないひと時の時間。
だが、そんな教室に若干二名ほど、まったく別次元の戦いを繰り広げている人物がいた。
一人はこの僕、高森だ。
いや、僕は何かと戦っているというよりも、その戦の行方をハラハラとした気持ちで見守っている立場。
当事者は僕の一つ左隣の席、窓側の最後列に暮らす小動物、枚瀬さんである。
では、枚瀬さんは何と戦っているのか? 答えは、そう、誰しもが一度は襲われるあの感覚。
(がんばれ枚瀬さん! あと5分。5分だけ耐えれば、トイレにはすぐそこだ!)
はい、便意です。
「はぁ……はぁ……」
顔を真っ赤にして目に涙を浮かべ、枚瀬さんはずっと両手で股間を抑えている。種目は小便。
(授業前に水を一気飲みしていた時点で嫌な予感はしていたけど、やはりこうなってしまったか……)
最近、枚瀬さんはよく水を飲む。おそらくデトックス効果にのめり込んで、加減も知らずにガバガバ水分補給しているのだろう。川岸の小石よりも流されやすい枚瀬さん。テレビで取り上げられるとすぐに乗っかってしまうのだ。
枚瀬さんは体をくねらせ、ももを擦らせながら、必死に尿意を誤魔化している。この様子を見るに、限界は近いかもしれない。
最悪の事態が脳裏をよぎる。
(もし漏らしたら、弱メンタルの枚瀬さんのことだ。即日退学&見知らぬ大地への片道旅行に踏み切るだろう。それはなんとしてでも避けなければ!)
最善手は今すぐ授業を抜け出してトイレにいくこと。
しかし、小心者の枚瀬さん。ひりついた空気の中で手を上げ「先生! トイレ行ってもいいですか?」なんて言えるはずもない。
結局、耐えるしかないのだ。
だが、神様は残酷である。
淡々と問題の解説をしていた教師がおもむろに教室を見渡し、
「ここの答えを……枚瀬。わかるか?」
まさかのご指名である。
枚瀬さんは「ひゃい!」と慌てて教科書を開いて立ち上がる。
もちろん授業どころじゃなかったわけで、何を訊かれているのかも分かっていない様子。
「スミマセン、ワカリマセン」
そう答えるしかなかった。もっとも尿意の有無に関わらず、枚瀬さんは同じ回答をしただろうが。
枚瀬さんの成績を知る教師は「もっと勉強しなさい」とチクリと刺して、解答権を一つ前の席に移した。
ここが山だ! 僕の勘が警告音を鳴らす。
(突然の指名。答えられない、聞いてなかった、怒られたらどうしよう。そんな不安が全身に極端な緊張を生む。だからこそ、プレッシャーから解放されたこの瞬間、反動で気が緩む。気の緩みは全身の脱力を促す。立ち座りの上下運動も加わり、尿を留める力が弱まってしまうというのは容易に想像できる)
予測は当たった。
「ふう」と一息ついて座った枚瀬さんが次に発した「あっ」という感嘆詞。
答え合わせには十分だった。
さて、枚瀬さんが次にどういう反応を示すか。「どうしよう?」と挙動不審? 「拭かなきゃ!」とタオルを取り出す? 「これはこれで……快感」と新しい世界に目覚める?
どれも違った。
「えっ?」
枚瀬さんは驚いた顔で座面を見た。
そこには、いつの間にか一面に敷かれていた超吸水性シート、さらにその下に珪藻土マット。尿を止める二重の砦が形成されていたのだ。まるでトイレの神様が「あなたはまだここで死んではいけません」と救いの手を差し出したかのように。
枚瀬さんの雫が椅子から滴り落ちることはなかった。
「誰がこんなことを……」
周囲を見渡す枚瀬さん。
僕は机に突っ伏してほくそ笑んだ。
そう。
犯人は僕だ。
枚瀬さんが立っている隙に差し込んだのだ。セーフティネットを。
(こんなことがあろうと、机の中に吸水シートと吸水マットを常備していたのさ。デトックスにはまった時点でこうなることは予想できたからね。まあ期待を裏切らない辺りがさすが枚瀬さんといったところだけど)
大きな仕事をやってのけ、僕は充実感に浸る。
ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴った。
枚瀬さんはシートとマットを抱えて大急ぎでトイレに向かった。
普通の人はヒロインのピンチを救ってヒーロー気分。自信に酔いしれてしまうところだろう。
だが、僕はその一歩先を行く。
(さて、ノーパンで帰ってくる枚瀬さんをどうやって守るか、そこが問題だ)
枚瀬さんを相手にしたら、心休まる暇なんてないのである。