4話 枚瀬さんと地球儀
枚瀬さんを見守るのだ。
たとえそこが無人の地理教室でも。
ある日の放課後、僕は地理教室の教卓の陰に隠れていた。
頭だけを出して、例の彼女を横から絶賛見守り中である。
そう都道府県全部言えない高校2年生、枚瀬さんである。
枚瀬さんは教室の隅にある彼女の頭ほどの大きさの地球儀をじっと見つめていた。
無人の教室で、彼女は何を考えているのだろうか。
「国名の予習しないと」
ポツリと呟いた。
そうか。明日の地理の授業で国名を答える小テストがあるんだ。
赤点だと追試。学生の貴重な放課後を束縛されてしまう。
部活もなく友達もいない枚瀬さんにとって放課後の自由時間にどれ程の価値があるのかは分からないが、それはともかくとして、追試を免れるべく予習に励んでいるということだ。
「よし、やるぞ」
枚瀬さんはそう言うと、地球儀を軽く回転させた。そしてグルグル回る青い星を人差し指で止める。指はちょうどオーストラリア大陸の上に乗っている。
すると、枚瀬さんはおもむろに、
「これは……オーストラリア」
なるほど。理解した。
枚瀬さんはテストに備えて「地球儀を回して適当に指した国の名前を言い当てるゲーム」をしているのだ。これなら勉強嫌いな枚瀬さんでも楽しく学ぶことができる。
素晴らしいアイデア!
さあ、また地球儀を回したぞ。
次も正解できるかな?
お、今度は東南アジアの島々を指している。
これは東南アジアの雄、インドネシアだ。
少々難しい気がするが、果たして答えられるかな?
ちなみに地球儀には国名が書いてあるけど、それはあえて目に入れないようにしているのだろう。
「ここは、えーっと……」
がんばれ枚瀬さん! これが分かれば明日のテストは勝ったも同然だ。
やがて枚瀬さんは「あっ! わかった!」と嬉しそうな声を出し、続けて、
「インドメシア!」
救世主!
僕は握りかけた拳を太ももに叩きつけた。
(惜しいけど! 語感もほぼ一緒だけど! 1文字違う!)
場所と名前は一致してるからこそ、その1文字がもどかしい。
そんな傍観者の気持ちを知りもしない枚瀬さん。腰に手を当てどや顔である。
「私って天才? さあ、どんどん行こ!」
グルグル。
お次は……アメリカ。
(これは大丈夫。いくらアホの子枚瀬さんでもさすがに間違えない……はず。きっと、たぶん。希望的観測)
僕の不安とは対照的に、枚瀬さんは自信満々の表情で、
「ふん。バカにしないでほしい。アメリカだね」
おお! 正解だ!
僕は今度こそ拳を握ってガッツポーズ。
「ちなみに、またの名を米国、UAEという」
アラブ!
僕は握った拳で自分の頬をなぐりつけた。
(USAだよ! UAEはアラブ首長国連邦だよ! 余計な知識を披露してボロが出ちゃった)
まあでも、一応正解は言えてたし、ギリセーフ?
やれやれ。これから先が思いやられる。
「次」
グルグル。
お次は……アフリカ大陸の東に浮かぶ島国。
(マダガスカル。ちょっと難易度が高すぎるか?)
馴染みなのない国だし、一般常識とは言い難い。
これなら答えられなくても仕方がない。
諦めの良い枚瀬さんのことだ。あっさりと降参して次のお題に向かうだろう。
だが予想に反して、枚瀬さんは額に手を当て熟考。
「うーん。知ってる気がする……」
え。枚瀬さん、マダガスカル知っているのか。
もし正解できたらウルトラCだぞ。
枚瀬さんが生み出す奇跡をみたい! がんばれ、枚瀬さん!
すると、枚瀬さんは「あっ!」と手をポンと叩いた。これは来たか!?
そして期待に応えるように堂々とした声で、
「わかった! ゴージャス!」
そぉーれここマダガスカル!
僕は頭を床に叩きつけた。
(違う! それは宇宙海賊!)
お笑い番組はよく見ているんだね……。
このガッカリ感。まさにファンタスティック。
その後もがっかり回答が続いた。
南アフリカを「アフリカの南端」南極を「アイスランド」ハワイを「ハワイ」。
気付けば僕の全身はズタボロ。このままじゃあ珍回答に殺されてしまう。
ありがたいことに、枚瀬さんも飽きてきたらしい。
「さて、仕上がってきたし、次で最後にしよう」
充実感を滲ませて、いよいよファイナルクエスチョン。
現状なにひとつ仕上がっていないが、せめて最後くらい気持ちよく締めてほしいものだ。
さあ、運命の回転が始まる。
グルグル。
ラストは……イタリア。
これは絶妙なライン。有名国だが、ヨーロッパの細々した国境は覚えづらい。
サッカー好きならピンと来るんだろうけど、ネット広告の『WC生中継!』の文字を見て「プライバシーは守らんとね」と呟いたことがある枚瀬さん。ワールドカップより先に厠がでるのだから、難しいかもしれない。
(いや待てよ)
考えを改める。
イタリアの形について、有名な覚え方があることを思い出した。
(イタリアはブーツの形。世間一般的に知られている覚え方だ)
この情報さえ知っていれば大丈夫。アホの子枚瀬さんでも確実に答えられる。
さあ、どうだ枚瀬さん!
「この形はもしかして……ブーツ? たしかブーツの形をした国があったはず……」
来た! いいぞ! その調子だ!
「ブーツ……ブーツ……ブーツといったら長靴。長靴といったら雨」
(枚瀬さん!?)
「雨といったらキャンディ。キャンディといったら美味しい」
な、なるほど。連想ゲームか。
好意的に解釈するなら、ブーツから言葉を連想していき、最終的にイタリアにたどり着くという覚え方をしているのだろう。そうであることを祈る。唐突に連想ゲームで遊び始めたのならもう何も言わない。
「美味しいといったら麺類。麺類といったらパスタ」
お!
「パスタといったらナポリタン。ナポリタンといったら……はっ! わかった!」
これは来た! さすがに確定演出!
パスタで止まらずに、日本発祥のナポリタンまで連想するあたりが枚瀬さんらしいが、これで正解にたどり着いたはずだ。
僕の脳内で勝利のBGMが流れる。もちろん背景はミラノのスカラ座だ。
圧倒的勝利を前にして、枚瀬さんは一呼吸おいて答えた。
「ナポリタンといったら……サイゼリヤ! 答えはサイゼリヤだね!」
イタリアンファミリーレストラン!
僕はその場に倒れ込んだ。
(……さすが枚瀬さん。想像の斜め上をいく)
満足げに教室をあとにする枚瀬さん。彼女が赤点をとったのは言うまでもない。