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思いがけないカミングアウト

 ユキヤママの車の助手席は、めいっぱい後ろまで下げられていて、前は無かった甘いコロンの残り香が漂っていた。



「あ、ごめんね。自分で調整してくれる? さっきまで、あげは姉さんと一緒に買い物してたのよ」



 彼女は穏やかに微笑んで、シートベルトを締める。エンジンをかける仕草は、さすが親子。ユキヤにとても似ていた。


 シートの位置を直してリクライニングも調整する。すると、ユキヤママが自分のベルトを外して、私の前に身を乗り出してきた。身体が覆いかぶさってくるのが怖いはずなのに、彼女は私のすぐ近くから相変わらずの微笑みを浮かべて、落ち着いている。リクライニングレバーを引くためで、私の背もたれを押し倒すとすぐに自分のシートベルトを締めた。


 一部始終をただ茫然と見守っていた私は、目尻から涙が滑り落ちるのを感じている。


 「リラックスして欲しいの。そのまま、寝ちゃっても良いから」と、彼女は努めて明るく言った。



「…ごめんね。ミユちゃん。私、あなたのママから何があったのか大体のことは聞いていたんだ…。本当に怖い思いをしたでしょうね…。だから、あなたに大事な話をしようと思うの」



 両手でハンドルを握る手に力が籠るのが、見える。


 深呼吸のたびに肩が上がるのを、背後から眺めていると、ママの背中を思い出した。


 どんな話が始まるのだろうか。心臓が苦しくなる。


「ユキヤの父親は、あげは姉さんなのよ」


 え?


 思いがけないカミングアウトに、私はどんな顔をしたらいいのかわからない。


 咄嗟に両手で口元を隠した。



「…っていうのも、本当で嘘なの。実際は、どこのどいつかも知らないの」



 そう言って振り向いた彼女の目は、澄んでいた。



「この話は、ユキヤも知らない。


 あげは姉さんと私だけの秘密よ。今日は特別に、あなたにも言いたくなっちゃって…。


 びっくりしてるわよね? 驚かせて、ごめんなさいね」



 綺麗に引いてあったアイライナーが僅かに滲んでいく。


 いつも陽気で誰よりも明るいユキヤママが、すごく小さく見える。


 彼女は唇の端っこをがんばって持ち上げながら、上唇を前歯で引き込んだ。


 瞳が、潤んでいく。



「あのね……。私もあなたと同じような目に遭ったのよ。それで、出来ちゃったのがユキヤよ。


 女って不思議なものね。男の事は憎いのに、お腹に宿ったあの子は世界一愛しくなっちゃって…。でも、私も若かったから、一人で生んで育てる勇気がなくて。お腹の子と一緒に死のうかと思い詰めた…」



 私の手は震えていた。彼女の涙につられて、目頭が熱くなり、すぐに溢れ出した。



「…その時よ。幼馴染で親友だったあげは姉さんが、自分が父親になるって申し出てくれたの。一緒に育ててあげるって、言ってくれたのよ……。


 本当にありがたかった。男の子が生まれて、勝手がわからなかったし。


 私の親は反対して、わけのわからないことを私がやっているって、ユキヤを里親に預けてしまえばいいって。酷いのよ。私が寝ている間に黙って連れて行こうとしたの。でもね、あげは姉さん……哲治てつじが助けてくれたの。この子から母親を奪わないでやってくれって。自分が父親になるからって、説得してくれたわ。


 それからずっとそばにいてくれる。あんな格好してるけど、すごく男らしい人なのよ。戸籍上は彼が父親で、ユキヤはそのことを知っているわ。運動会の日も、遠足のお弁当も、彼が作ったの。私よりずっと料理が上手いし、家事も掃除も仕事も…。私よりよっぽど母親なのよ」



 大粒の涙が落ちていく。ぽたり、と音がするほどに。



「…私がどうしてこんなことを、あなたに話したと思う?」



 ユキヤとは違う小さな手で涙をぬぐいながら、彼女はまた唇のはじっこを持ち上げた。


 私は首を振った。わからないわけじゃない。でも、何も思いつかない。


 衝撃的な真実を前にして思考が停止してしまっているようだ。



「…ユキヤにも、あなたにも、幸せになって欲しいからよ」



 そう言うと、彼女はバッグから大き目のタオルハンカチを取り出して私の顔にかけてくれた。


 それからしばらくは無言で、車を発進させてドライブをする。


 濃いピンク色の薔薇と黒い模様を描いたタオルハンカチから、あげは姉さんのコロンの香りがした。お店でおしぼりから感じた香りと似ている。薔薇の凜とした清々しさに、心が洗われる気がしてくる。


 名前もどこの誰かもわからない男に乱暴されて、ユキヤが生まれた。


 まさかそんな。


 そんなことが。


 苦しくて、息が。


 涙が止まらない。


 ユキヤ。


 まさか、そんなことがあったなんて。


 それからしばらくは、ただ泣くしかできない私がいた。


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