なにもわかってない
朝。灰色の重い雲から今にも雨が落ちてきそうな、そんな空模様に私の心も重くなる。
目が覚めたら、ユキヤがいなくなっていた。
部屋も空っぽで、書き置きさえもない。
這うようにトイレに行って、それからシャワーを浴びた。じっとりと汗ばんだ肌から、自分じゃない誰かの汗の匂いがしているのが気持ち悪くて。
汗は時間が経てば不快な臭いを放つ。それがまるで男女の関係にも言えるような気がして、ますます気分が滅入る。
熱めのシャワーの下で顔面や瞼に叩きつける水の感触が、遠い過去を思い出せた。
浮気癖が治らない父に、毎回裏切られ続けていた母が離婚を決断した日の光景は今も脳裏に焼き付いている。特に説明もなく私は母に引き取られ、父はそれっきり。せめてさよならぐらい言ってくれたら、こんなに引き摺らないで済んだかもしれなかった。
無言で消える。
たとえ後で帰ってくるとしても、私にはとてつもないストレスになる。
感じないように、考えないように、気にしないように。他に意識を持っていこうとしては、失敗。時計を見ると、まだ一分も経っていない。
ユキヤが戻るまで、私は他のことがなにも手につかなくなって、下着のままベッドに身体を投げ出して泣いていた。
だから、イヤなのだ。
男女の関係になれば、こんな惨めな時間がさけられなくなる。
私はどんどん、ユキヤに依存するだろう。
そして、いつかユキヤに飽きられるのだ。
ママのように。
ユキヤが重たい女を捨てたパパのような男だったら、と思うと気が狂いそうなほど、苦しくなる。
苦しくて、苦しくて、枕に顔を埋めて泣いた。
世の中には、出会ってから死ぬまで同じ人と添い遂げる人もいると言うのに。私にはそれが、神話ぐらいに信ぴょう性の薄い話にしか思えない。
疑えば途方もない。
裏切られるのが怖いなら、信じなければ良い。
でも、それはそれで苦しい。
どっちを向いても、苦しみしかない。
手の届かない体の奥が、きゅうと締め付けられた。
こんな日々が続くのかと思うと、忽ち気力が萎えていく。
昨日は、違う自分がいた。
過去も未来もどうでも良くなった。
その瞬間だけは、無敵になれた。
ユキヤとのキスを、思い出す。
乾いた指先で、自分の下唇をなぞったけれど、感動するほど柔らかくもなくて、あれは全部脳内で都合良く処理された幻のようなひと時だったんじゃないかと、そう思ったら。
とめどなく涙が溢れた。
一時の感情に押し流されたような、そんなひと時に過度の期待などするもんじゃない。
ユキヤが、おしゃれで綺麗な女の子とデートしていたのを見たとき、私はがっかりした。そしてすぐに、腹が立った。
ユキヤの一番になれないなら、一番になんかならない。
自分から求めたりしない。
これ以上、傷付きたくない。
恋人なんて、いつか終わる。
トモダチのほうが長く一緒に居られる、気がする。
窓の向こうで赤いランプがぱっと消えた。バンっというドアを閉める音がして、階段をかけあがってくる足音が近付いてくる。
玄関のドアに鍵が差し込まれ、シリンダーのロックが解除された小気味いい音が響いて、私は焦った。
涙を拭いてもふいても、止められない。
小さな器しかないと叱られている気分だ。
ドアが開いて、ユキヤのシルエットが見える。誕生日に贈った安価のブルゾンがするりと肩から抜け落ちて、ドアに設置されたコート掛けのフックに掛かるのを見守った。
「おはよう。朝ご飯、貰ってきたよ……あれ? 泣いてんの?」
ユキヤは金縛りにあったように立ち止まって、私を見降ろした。でもすぐしゃがんで、その大きな手で髪をくしゃくしゃと撫でまわしながら「よしよし、腹が減ってたら後ろ向きなことしか思いつかないもんな。お前は」と、優しい声で囁いた。
雨の匂いをさせたユキヤに、抱きしめられる。
トモダチなら、こんなことはしない。
私は両手で彼の身体を突っぱねた。それを、不思議そうな顔で首をかしげるユキヤが、ジッと私を覗き込んでくる。
「なに? 怒ってんの?」
私は頭を振る。そんなんじゃない。
「じゃ、なんで? 俺のことがまだ信じられない?」
その台詞に、頭がカッと熱くなる。
昨夜の「好きだよ」が蘇る。
私は雨を払い落とすように、頭を振った。
「……ミユ! いつまでも、お前は……」
ため息と、引き攣った顔。
呆れているのか、腹を立てているのか、苦々しいといった苦悶の表情に、私の罪悪感はさらに刺激を受けた。
「…私じゃ、ユキヤが苦労する。ユキヤにはもっと、明るくて可愛い女の子がお似合いだよ」
ショッピングモールでデートする二人の絵はなかなか様になっていた。私が隣にいては、ユキヤの優しさも笑顔も台無しになる。
バン!!
突然の大きな音に、思わず飛び上がった。
ユキヤが両手で座卓を叩きつけた音だ。素早く立ち上がり、部屋の出口付近で立ち止まって背中を向けたまま、低い声で唸るように言った。
「…っく…っそう。お前って、本当に頑固で、馬鹿で、救いようがないぐらい根暗だよな」
まったくその通りだと思ったけれど、ユキヤに言われるとズシンと錘が追加されたような感じがした。
「そんな、根暗だけどさ…。お前はまだ、自分の価値をわかってない。俺が、わからせてやろうって思ってんのに、せっかくやっと前に進めたと思ったら、これだ。
朝が悪いのか? 雨か? それとも、俺の気持ちを知って、試してるのか?」
今まで見た事がないほど、鬼気迫る色を帯びた、早口の台詞から。どうしようもない苛立ちを感じた。
ユキヤから笑顔を奪い、こんなに苦しめてしまっていることに、今改めてショックを覚え…。
「……お前はなにもわかってない。わかろうともしてない!!」
そう、怒鳴ってから。
まるで逃げるように、部屋を出て行った。
わからずやな私はオロオロしながら、走り去るユキヤの赤い軽自動車を見送った。黙って朝ご飯を調達に行かれたよりも最悪な気分に、身震いしながら両手で肩を抱いて、崩れ落ちる。
雨音が強くなる。
「……試すなんて、そんなつもりは……」
自分の、思い込みで、ユキヤを傷付けたことにようやく思い至る。
自分のことしか考えず、あんなに優しい人を怒らせてしまった。それが、その喪失感が今度は別の涙を誘い、頭を抱えた。
ユキヤのことが好きだ。でも、今の私じゃ釣り合わない。
それにやっぱり、恋愛関係が壊れたとき、トモダチになれないことは両親が証明している。
むしろ憎み合っている。
私は絶対に、そんな風にはなりたくない。
なりたくないから、恋人にはなれない。
一番にはならない。
失うとわかっているモノを所有しない。
壊れると知っているモノは欲しがらない。
辛く悲しい思いをするぐらいなら、なにも要らない。
なにも欲しくない。
だけどそんな思いとは裏腹に、昨夜のことを思い出すと、離れがたい程愛しい気持ちがこの空っぽだったはずの心にあったという事実に、揺らいでしまう。
誰も好きにならない。好きになってはいけない。
キズもの、腫れモノの私は一生孤独に生きていくべきなのだ。
だってもう耐えられない。あんな思いをするのは、二度とごめんなんだから。
悲しくて悲しくて悲しくて、光も届かない湖の底に沈んでしまいたくなる。
ガタン
大きな物音に驚いて振り向くと、ユキヤのママが玄関にいた。
私を見て聖母マリア様のように微笑みながら、家に上がってきて、私の髪を撫でた。
「…ユキヤから電話があったの。今日は休みだし、ね。気分転換に買い出しに付き合ってくれない?」
私は涙を腕で拭いて、コクンと頷いた。