女にさえ生まれなければ
仕事は単調過ぎるぐらい単調。でも、これぐらいのほうが今の私には丁度いい。今は食べていくのが精いっぱいだけど、いつかは自分ならではの仕事を見つけて、もっと充実したいと思う。
とはいえ、自分ならではの仕事なんてそう簡単には見つからない。
好きを仕事にできる人は良い。私のような後手後手の人生では、思うような選択さえできない。
時々、辛くなる。報われない日々に慣れて、このままド底辺で人生が終わって行くことに何の抵抗も感じなくなっていく気がしてくる。そうなると、ブルーに酔いしれて明日なんか永遠に来なくて良いのに、こんな誰にでもできる仕事なんかやめてやるのに、とか本気で思ってしまう日が月に一度やって来る。
お腹が痛いし、自分の唾から血のような匂いを感じたら、もうそれは始まっている。
生理だ。
仕事を終えて家に帰るだけなのに、軽いめまいが何度も襲ってくる。途中のコンビニでディスカウントシールが貼られたお弁当と、鉄分が入ったヨーグルトドリンクを買った。
本当は雑誌でも買いたいところだけど、そんな贅沢は許されない。お財布の中はいつだってシビア。夏服を買ったばかりで、来月まで娯楽品はお預け。立ち読みしたいけど今日はもう体力の限界だ。早くお風呂に入ってしまいたい。
バスに乗りしばらく揺られながら、暮れなずむ街並みを眺めた。
明りの灯った家に帰れる人達のことが、羨ましいなと考えていた。
お風呂から上がると、薄暗い部屋のテーブルの上で充電しておいたスマホの通知音が鳴った。髪を拭きながらしゃがんで、メッセージチェックをする。ユキヤからだ。
【今夜そっちで寝たいんだけど】
手狭ながら部屋が二つあるアパートだ。ユキヤの部屋はフローリングで、布団セットと大きくて古いカセットラジカセがある。細く開いた引き戸の奥は真っ暗で、なにも見えない。
【いいんじゃない?】
なにも考えなければ、なにも心配いらない。自分にそう言い聞かせながら、送信した。なぜか、心臓の音が大きくなる。
【いまから行く】
既読になったと同時に、返信が入った。
いつものことなのに、嬉しくなる。
私はユキヤが今やっている仕事を知らない。聞けば教えてくれると思うけれど、あれこれ詮索するようなことはされるのもするのも苦手で、だから会話が弾むわけがない。
なんでこんな退屈な女になってしまったんだろう。
なんでこんな私をユキヤは相手してくれるんだろう。
危なっかしいとはよく言われる。放っておけないんだって。でも、それってなんか嬉しくはないよね。だって、私がまるでひとりで生きていけないぐらい小さくて弱い者と言われているのと、同じだから。
だから、好きだと言われても困る。それは勘違いだよって言いたくなる。
私なんか全くダメだよ。
自分でも、こんな女は願い下げだよ。
昨日、ユキヤの腕にしがみついてた女の子の方がまだマシだと思う。
周りを明るくするような笑顔を振りまけるだけで、尊敬する。
私は笑えない。
あんな風には、笑えない。
人には言えない悪いことをしてしまった私には、心から笑える日なんて永遠に来ない。
一瞬でもそのことを思い出すと、針で刺されるように身体中が痛んだ。
痛み止めをあらかじめ飲んだのに、痛みが増していく身体を布団の中で丸めた。階段を上って来る足音。鍵が開けられる音。部屋に流れ込むユキヤの気配。ユキヤのカーコロンの匂い。
まっしぐらに私のところに来たユキヤは、私の顔を覗き込んだ。
「顔色、真っ青だな。どうした?」
「…うん。生理痛」
「薬は?」
「もう飲んだ」
「飯は?」
「食べた」
「そっか…。湯たんぽだっけ。作ろうか?」
私は頷いた。
台所でお湯を沸かす音。人の気配がなによりホッとする。それがユキヤだから、猶更嬉しい。どうして帰って来なくなったのだろう。気になる。
ユキヤが作ってくれたホットミルクをふーふーしながら、座椅子に凭れてくつろいでいるユキヤに視線を送る。すぐに気付いた彼は、表情筋だけで「ん?」と聞いてくる。
その瞬間も、嬉しい。
「ありがとう」
「…べつに」と、得意げな笑顔。「なんか知らないけど、ミユが調子悪いときがわかるっていうかさ。気になったんだ」
それは無垢な笑顔だった。
平穏で退屈な日々の中に、危なっかしい光を放つ花火みたいな、そんな衝撃がまた。
ズシンと体の奥の痛みが、くっきりとした輪郭を描いた。私が女であるように、ユキヤは男。性別を超えた大親友であり続けたいと願いながら、どうしようもく身体中が熱くなる。
顔が熱くなる。
「え? どうした?」
優しい声と、冷たい指先。前髪を掻き分けて私の瞳を探す、ユキヤの瞳。
覗かれたくない。気付かれたくない。
咄嗟に両手で、ユキヤの善意を払い落とした。
驚いた顔。悲しみ。
無理やりつくろった笑顔で、ユキヤが申し訳なさそうにそっとつぶやいた。
「…ミユはさ。なんでそうやって、強がってるの? いつまで俺のこと、遠ざけるの?」
笑っているようで泣いているようにも聞こえる、震えたような上擦った声。
立ち上がって、隣の部屋に引き籠ってしまった。
―――嗚呼、またやらかしてしまった!
激しい自己嫌悪。
ベッドを抜けてユキヤの部屋のドアまで、なんとか歩いた。
ドロドロした熱い血潮が溢れ出す。
気分が悪くなって、しゃがみこんだ。どことは言えないお腹の奥に鈍い痛みが走り、下半身すべてを巻き込むような辛い痛みが襲い掛かる。
「……うぅ」
呻きながら床に倒れた。これだから、女なんて損ばっかりだと思う。私が男だったら、ユキヤとはもっと良いトモダチになれたかもしれないのに。女にさえ生まれなければ、あんな最悪な事件を引き起こさなかった筈だし、ユキヤに特別な感情を持っていることをこれほど深刻に悩むこともなかった。
女なんて、やめられるものならやめてしまいたい。
這うようにトイレに行って、赤い血潮を水に流した。まっさらなシートに変えてもすぐに血で汚れてしまう。吐き気もしてきて、フラフラになりながらベッドに向かった。短い距離のはずが、今日は途方もなく遠くて泣けてくる。
うまく歩けず、カーペットに躓いて転んだ先の折り畳みテーブルが、壊れた。
「ミユ!?」
背後からユキヤの悲鳴に近い声が響くけれど、私の意識は暗く暗い世界に吸い込まれるように落ちたのだった。