トモダチ以上にはなれない
顔に熱いタオルが乗せられた。驚いて飛び上がると、あげは姉さんの声が降ってくる。
「横になってなさい。アルコール受け付けない人って本当にいるのよね。ごめんね、気付いてあげられなくって」
「……」
嘔吐して、脱力している私は声も出せずに耳を傾ける。
気付いてあげられなくて謝られるなんて、返って申し訳なく思う。
「少しずつ、水分を摂らないとね。温いんだけど、白湯を用意してるの」
私はわずかに残った力で、うんと頷いた。
「ふふっ…。ちっちゃな子みたいね、ミユちゃんは」
あげは姉さんの声が、遠くなった。蒸しタオルのはじっこを持ち上げると、薄暗いけれど生活の匂いがする部屋に自分がいることを確認した。ここはお店の奥らしい。
壁の向こう側に何人かの人の声が聞こえる。深呼吸を何度かしてみてから、ゆっくりと起き上がった。吐き気はないけど頭痛がする。たった三口でこうも拒絶反応が出るのだから、私は本当にアルコールを受け付けられない体なのだ。
今までは、カクテルの缶ジュースを飲もうものなら、ユキヤがそれを取り上げた。『まだガキには早い』とかなんとか言って…。
ガチャガチャ
突然、背後の方から大きな音がして、飛び上がった。振り向くと、暖簾の向こうにあるらしきドアが開いて、夜風がそよいでくる。大きな白い手が暖簾をかき上げた。
「……ユキヤ」
白い顔を黄色に照らす照明の紐に、手を伸ばしたユキヤは私が見えないようで、あらぬ方向を見ながら言った。
「っとに、驚かせんな。酒なんか飲まされやがって」
明りが付くと、ユキヤの後ろにユキヤママもいる。私を見つけると、小さな子に話しかけるみたいに優しい笑顔になって言った。
「ごめんねぇ、ミユちゃん。ちょっとならいけるって思っちゃって。私の周り底なしに飲むヤツらばっかりだから、驚いちゃった」
私は笑顔を取り繕いながら首を振った。
四角い座卓の左側に、ユキヤが座る。まるで野良猫みたいに、長い脚を折り曲げて三角座りした。今日見たことが頭を過って、ユキヤの方を見れない。
それなのに、ユキヤから視線を感じた。左頬がチリチリする。
「ポカリ買ってきたよ。結構吐いたから、飲んだ方が良いけど。まだ気持ち悪い?」
「…いえ。それより頭が痛いです」
突然、額をひんやりした手があてられた。ユキヤの手だ。いつも温かいはずの手が…
「…冷たい」
「外が寒かったんだ。俺が送っていくから、動ける?」
滑り落ちるように、冷たくて大きな手が私の顔や首をなぞる。これが普通の男の人だったら気持ち悪くて怖くなるのに、なぜユキヤにだけはそれを感じないのか、自分でも不思議。
この手が他の誰かに触れている、と思ったら。クラクラと、眩暈がした。
私達が部屋を出ると、あげは姉さんの声が追いかけてきて、タッパーに入った何かを渡された。
「これ、レンジでチンして食べて。お酒飲めなくても、また遊びにおいで。今度は占ってあげる」
「ご、ごちそうさまでした」
ユキヤの車の後部座席に乗って、タッパーの蓋を開けると、なんだかとっても濃厚で美味しそうな匂いがした。
「あ。それ、知ってる匂いだ」
運転席のユキヤがふやけた声でそう言った。
「パイだよね? これ」
「あの人、本当に料理上手なんだよ。おふくろが良く貰ってくるんだ。それ、マジで美味しいから」
意外だった。ユキヤがあげは姉さんのことを知っているのに、私は全く知らないのだから。どれだけ同じ時間そばにいても、一歩外に出れば全く知らない世界に生きている。
ユキヤがますます遠くにいるようで、寂しいという気分になる。
「美味い料理があれば一瞬で幸せになれる、っていうのがあの人の座右の銘なんだ」
「…ふうん」
「興味ない? 俺の話、退屈?」
バックミラー越しに目と目が合う。私を見ずに前だけを見ているユキヤの顔が見たくなる。
「…そんなんじゃないよ。昼から誰かと一緒にいたくせに、話し足りないの?」
無意識に、そんなことを言い返していた。
「え? なんのこと?」
ギョッとした声に動揺が現れる。成り行きだけど、言わずにはいられない気分になった私は、言葉を選んでる余裕もなく思ったことを口走った。
「昼間、女の子とデートしてたのをたまたま見たんだよ。ちゃんといるじゃん。可愛い彼女が」
「あれはトモダチだよ!」
ユキヤがむきになって、言い張る。
「そんな隠さなくても良いじゃん。あの子、どう見てもユキヤにベタ惚れって感じだったじゃない!」
気付けば大声で、叫んでいた。
ユキヤが誰もいない深夜の住宅地の道路に車を停めた。
「……ミユが考えてるような関係じゃないから」
「私が何を考えてるって?」
「やましいことなんてないって言ってんだよ!」
運転席から在り得ない程首をひねってこっちを見たユキヤの目の淵が、赤くなっている。
本気で怒ったときの目だ。
「もう、やめない? こんな話したって、どうせ俺達はトモダチ以上にはなれないんだから」
トモダチ以上にはなれない。そうだった。そうだよね。
ユキヤは誰よりも一番、私の考えを理解している。
でも、自分じゃないユキヤの言葉でそう言われて。
心が、軋んだ。
それからは無言で部屋に送られ、ユキヤは私の腕を掴みながらベッドの近くまで運ぶと、靴下を脱がせてくれて、布団をかけてくれて、さらにはあげは姉さんのタッパーを冷蔵庫に入れてくれて、電気を消して、部屋を出て行った。
ガチャン
鍵が閉まる音が、鉄筋コンクリートのアパートに響く。
うつらうつらしながら、何度も目が覚めた。
どうしてユキヤは自分の部屋に帰って来ないのだろう。
どうして、いつからそばに居てくれようとしなくなったんだろう。
私の唯一のトモダチなら、誰を差し置いてもそばにいてくれるべきじゃない?
あんな派手で化粧で素顔を隠したような、猫なで声でぶりっ子に喋るような女の子が、好きなの?
トモダチに腕を絡めたりする?
人前でくっついたりする?
あの二人がふわふわのパンケーキを分け合って食べている姿を想像したら、体が重くなってくる。
ユキヤには、私の知らない沢山のトモダチがいる。
だけど、あの女だけはたとえトモダチだとしても、なんかすごく、イヤだなと思った。
◇◇◇
翌朝。アラームが鳴る直前に目覚めて、シャワーを浴びる。
脱いだ服がほのかに酒臭くて、あの気持ち悪さまで戻って来そうにあって慌てて洗濯機を回し始めた。
朝ご飯の支度をしようと冷蔵庫を開けると、あげは姉さんのタッパーが真ん中の段のど真ん中に鎮座していて、自然と手が伸びる。再び蓋を開けると、とても綺麗なパイだった。
でも、なんだろう。ハンバーグみたいな、デミグラスソースみたいな、良い香りがする。
誘惑に駆られて、言われた通りにレンジでチンをしてからフォークで切り込むと、手応えがすごくある。香りも強くなり、見た目も凄く美味しそうだ。
ひとくち食べてみると、口の中でサクサクのパイ生地と濃厚デミグラスソースと、スパイシーに味付けされたお肉の絶妙なコントラストに心を全部持っていかれ。豊かな風味と食感。こんなに美味しいものを食べたことがない! っていうぐらいに感動した。
あげは姉さんの料理の腕はすごい!
しかも、これって聞いたことがあるミートパイというもの?
初めて食べた。
衝撃的な美味しさに、しばらく放心状態で口の中の余韻を楽しんだ。
―――美味い料理があれば一瞬で幸せになれる―――
ユキヤの言葉が蘇る。
この感動を伝えたい。
そう思って、スマホを手に取ってメッセージ画面を開いた。
そこには既にユキヤから二通のメッセージが遺されていて、私はドキリとした。
【もう寝た?】
【お前が嫌がるようなことは絶対にないから】
昨夜の言い争いを思い出す。
なんであんなに怒鳴ってんだろう、私は。
自分のわがまま加減に驚いたし、独占欲の強さにも呆れ、男が怖いというより女が嫌いという一面まで見えた。私の方こそ、ユキヤに嫌われてしまったんじゃないか。
深呼吸をして、これからについて想像する。どうなるんだろう、よりも、どうなりたいか。
私はユキヤとはこれからも、一番大事なトモダチでいたい。
ユキヤもそう思ってくれているから、私の事を気遣ってくれているんだから。
気を取り直してメッセージを書き込んでいく。
【ミートパイ食べたよ。すごく美味しくてびっくりした。あげは姉さんにお礼が言いたいから、今度はユキヤに連れてってもらいたい】
食器を洗い、身支度を整えてから、仕事に向けて家を出た。
特殊スーツを着てマスクをしているのに、今日は色んな人から挨拶された。いつもはまるで空気みたいに存在を気にされたりしないのに。
持ち場で作業して、休憩に入る。休憩所のベンチで先に休んでいた中年の女性が、私を見て言った。
「あら、ものすごく良い顔してる。何か良いことあった?」
驚いてすぐに言葉が出てこない。
おばさん達は笑いながら去って行った。
マスクしているのに、良い顔ってどんな顔だろう?
鏡で顔を見ても、違いがわからない。
するとまた別の人が、後ろから声をかけてくる。
「ね。この前の夜、迎えに来てたのって彼氏?」
「付き合ってる人いたんだね」
同時に二人の人にそう言われて、私は返答に困った。普段、人と会話し慣れていないせいで、なにをどう返せばいいのかすぐに出てこない。
私の慌てている様子を察したように、また別の人が言った。
「え? 付き合ってないの? なんか、意味深な雰囲気だったけど。あの子とはどんな関係?」
「ち、違います。付き合ってないです。あの子は、トモダチです!」
「うっそーー。あの子は絶対に佐土さんのこと好きって感じ出てたけどなぁ」
私と同じ年の南川さんが、いかにも女の子という声でそう言った。
「そんなこと見ただけでわかるの?」
驚いて質問すると、彼女はうふふと笑ってから「LOVEビームが出てるんだもん」と、のほほん口調で言うと、そこにいる皆がうんうんと頷いた。
そういえば、昨日。私も見たじゃないか。
ユキヤの腕に絡みつく彼女は、熱視線をユキヤに向けていたのだ。
人は、自分のことは見えないけど、他人のことは良く見える。
そう思ったら、なんか急に裸を見られているような気がして、首を縮めた。