惚れてるわね
それから記憶がない。頭が真っ白になるってきっと、こういうことなのだろう。
気付いたら家にいた。買い物袋は玄関にまとめて置いてある。自分でちゃんと帰ってきたようだ。お酒を飲んだわけじゃないのに、なにが起きたというのか。
スマホのメッセージを見ても、ユキヤからはあれ以来なにも送って来ない。
そんなの、今までもそうだったじゃないの。
なのに。
あの楽しそうな笑顔を見て、それが物凄くショックだった。
いつの間にか、外は雨。強くなる雨音が、黒い夜を連れてくる。それをただ茫然と眺めた。
ポーン
玄関のチャイム音に飛び上がる。ドアにかじりついて覗き穴を見ると、ユキヤのママだった。
「こんばんは。ユキヤ、いる?」
「…いえ。最近、こっちには居ないんです」
「あら…。そうなの」
ユキヤママは驚いたような顔をして、私を真っすぐ見つめてきた。ドキリとして、シャツの襟をつかんで口元を隠す。それは私の癖で、今に始まったことじゃない。
「顔色悪いけど、なにかあった? 良かったら、話聞くわよ?」
どうしようかな。
一瞬、迷ったけれど。結局、家に上がって貰って話をすることにした。
ユキヤママは「美味しい紅茶持ってきたの」と言って、赤いポットを火にかけてマグカップをキッチンの作業台に並べた。どこに何が入っているのかもうわかっていて、お茶用フィルターにスプーンで紅茶を器用に詰めていく。
「シュークリームよ。ミユも食べる? 甘いもの嫌いじゃないでしょ?」
「…あ、はい。ありがとうございます」
折り畳みテーブルに、丸い座布団。おさがりでもらったテレビと、テレビ台。どれも、ユキヤママがくれたものばかり。
私が家を出たとき、一番に力になってくれたのはユキヤ親子だった。ちなみに、ユキヤにも父親はいない。彼のうちは始めから父親がいない家庭で、生きているのか死んでいるのかも知らされていないという。
ユキヤママは小さなスナックを経営していたけれど、三年前に店を閉めて以来ずっと食品加工工場で働いている。
「雨、どんどん強くなるって。こんな日ぐらい、帰って来いっての…」
ユキヤママに言われて気づいた。雨脚がどんどん強くなる。
紅茶を飲みながら、じっと耳を澄ませた。ユキヤの車のエンジン音が聞こえないか。階段を上がって来る足音がしないか。
「夕飯、一緒に食べよう。一人じゃ心細かったでしょ?」
そのありがたい申し出に、私はコクンと頷いた。
◇◇◇
何もないと思っていた街には、私の知らない顔がまだまだ隠されている。
ユキヤママに連れられてやって来たのは、派手に飾られた店内のスナック。カウンター席しかない、小さなお店だ。だけど、キッチンに入っている人は、かなり背が大きくて、切れ長の目が印象的な女性だった。いや、女装した男性なんだと思う。すごく綺麗だけど、喉ぼとけでわかる。
「あげは姉さん、この子よ。ユキヤのルームメイト」
「あら、こんばんは。こんな雨の日に良く来てくれたわね。どうぞ」
彼…彼女は、おしぼりを渡してくれた。熱々だけど、なんだか香水のような良い香りがする。
「ミユ。こちら、あげは姉さんよ。占いもしてくれる凄い人なの。相談があるなら、なんでも聞いてくれるわよ」
「やだぁ、美冬ったらそんなクチコミしなくてもいいのよ。うちは飲食が本職なんだから、占いで有名になんかなったら困っちゃう」
高い声をつくった男の声だと、わかる。でも、指先を触れ合わせても、私の体は震えなかった。
つけまつげも化粧もテレビタレントのような派手さはなくて、自然なメイクをされている。肌は女性のように綺麗で、爪の先までピカピカしている。
私の視線を受けて、あげは姉さんは激しいまばたきをした。
「あら。あなた、道に迷った子羊ちゃんの目をしてる。どうしたの? なに食べる? お腹空いてるでしょ? しおからとご飯ならすぐに出せるわ。あとね、銀鱈焼いたやつと、ホウレンソウとブロッコリーのチーズグラタンとかどう? 時間かかるけどね」
「そのへん、適当にお任せで」
ユキヤママがオーダーすると、あげは姉さんは奥の業務用冷蔵庫を開けて中から小鉢やらタッパーを取り出し始めた。狭い店内なのに、機能的にものが並べられていて無駄がない。棚に並んでいるお酒にはラベルがかけられていて、ボトルキープばかりだ。
「どう? たまにはこんなお店も、悪くないでしょう?」
「この街にこんなお店があるなんて、知りませんでした」
「うふふ。あげは姉さんの作る料理もパンチが効いてて美味しいのよ」
「段取りできたところで、さぁなに飲む? ミユちゃんはカクテルにする?」
あげは姉さんは、既にもうカクテルを作り始めている。
「私、ここに来るとまずブラッディマリーなのよ。ミユちゃんにはカンパリオレンジを薄めに作ってあげて」
勝手がわからないので、すすめられるがままに頂くことにした。
オリーブのオイル漬けをピンクの蝶々がついたピックで食べながら、唐突に聞かれた。
「ところでさ。ミユはユキヤのこと、どう思ってるの?」
カクテルで乾杯をして、一口飲んだ直後のことだ。カッと熱くなるのど越しに、アルコールを感じながら、突然の鋭い問いに動揺してしまう。
「ははぁ~ん、その顔は……惚れてるわね」
まだ何も言ってないのに、あげは姉さんが目を細めてニヤリと笑う。
「やっぱり、そう思う? 私もそう思った。……で? どうなの?」
ユキヤママが顔を近付けてくる。この角度から見ると、親子だなって思う。次の瞬間、ユキヤの顔を思い出した。
私のそばにいる時の笑顔がつくりものだとわかっているのに、なんだか愛しくて。胸の奥が疼いてしまう。
「……ん、もう! そんなに考え込まないで良いのよ? 人を好きだっていう気持ちは頭じゃなく、心で感じるんだから!」
あげは姉さんの言葉に背中を押されて、私は戸惑いながらも小さく頷いた。
「だめよ。言葉にしなくちゃ、自分自身にも曖昧なままになっちゃう」
二人の大人に包囲されて、私は唇を噛みしめた。
言葉にすれば、これまで大事にしてきたものが全部、消えてしまいそうで。
「…いいんです。曖昧なままが良いんです」
「なんで? 相思相愛かもしれないのに、勿体ないじゃない」
あげは姉さんは屈託ない言葉で、私に話しかけてくる。ユキヤママは困ったような顔をして、肩を落とした。
ここまで言われたのなら、話してしまおうか。口当たりの良いお酒の力が、封印した辛い記憶の蓋を開け始めていた。
「……私は気持ち悪くなっちゃうんです。男の人が…」
「…なにがあったの?」
あげは姉さんが、声を小さくして近くでそっと囁くように聞いた。
私の事を知らない人に聞かれるのは、初めてのことで。今までは、小さい頃から近くにいた人にしか質問されなかったから、うまく応えられなかった。話すことが怖かった。でも、今なら…。
「…私はとっても悪いことをしたんです」
「悪いこと?」
「…うちの母は、潔癖症で…。父に浮気されたと知って、家の中ひっくり返す勢いで暴れて、不眠症になって睡眠薬を飲んで…。ひどく荒れていた時期があったんです」
二人は黙って聞いている。私の一言一句を、待っている。
「中学生二年になって…、夏でした。勉強も手につかないし、ご飯も自分でなんとかしなくちゃいけない、そんな日々に疲れてました。母の財布から千円抜いて、ファーストフードで食べて…、でもある日それが悪いことだってママに怒られて。頬を叩かれました。
その日から、ママに叩かれるようになりました。些細なことでも、ママが機嫌悪いときはなんくせつけられて、都合悪いことは全部私のせいにされて」
ユキヤママは大抵のことはもう知っている筈だ。保育園で出会ってからうちのママとはママ友になったのだから。でも、黙って聞いてくれている。
「家に居ると、ママに絡まれる。そう思って、家に帰らなくなりました。
私はユキヤの女トモダチの家に連れてってもらって。そこの家も家庭の事情が複雑で、大人がいない家だった…。だから、若い子のたまり場になってました。
高校生もいたし、学校に通ってない子もいました。学校から戻るたびに初めて会う子が必ず一人ぐらいいて…。
本当は人見知りだし、一人になれないような場所は好きじゃないけど、家に帰るよりマシだと思って、皆雑魚寝する部屋の片隅でいつも本を読んでました。そこの家の子は私の性格を知って、放っておいてくれました。
時々、ユキヤも遊びに来て愛想のない私のことを仲間に説明して、呼びかけてくれてました」
「……そんなことならうちに連れて来てくれたらよかったのにね」
「あの頃は、ユキヤママは手術したばかりで体調が悪かったじゃないですか」
「あぁ、そうだったわね。そんなこともあったわね」
ユキヤママは髪をかき上げ、あげは姉さんは優しくその腕を叩いている。
「…とにかく始めの頃は何も問題なんてなかった。でも、その仲間内で恋愛事で揉め始めたんです。高校生の彼氏がいる女の子が、別れたのに付き纏われて皆で守ってあげていた…。私も少なからず協力して、いつも食べるものを買ってくれる人達に恩を返すなら今だ、と思って」
膝の上に重ねて置いた手が、震え出す。
「え? どうしたの? 顔色が悪いけど…」
「…すいません、お手洗いに」
そう言って席を立った。カウンター用の椅子は脚が長く、ぶらぶらしていた足を床に降ろした途端に、グラリと目の前が90度も傾いた。
「あ!!」
みんなの声が重なったのを最後に、意識が途切れた。