男の人が怖い
つけすぎたワサビのつんとした痛みをやり過ごすように、呼吸を整える。でも、とても平常心ではいられない。
まさか、突然こんな日が来るなんて。動揺は激震となり、私を揺さぶる。
「え? おい。ちょっと、なにしてんだ!」
速度を落としたユキヤの左手に、肩を掴まれた。私はその手を腕を振り回して払い除ける。それでも諦めない男は、しつこく私の肩に手を乗せてきては私の名前を呼んだ。
「ミユ?! 顔! 出すなって!!」
とうとう怒鳴られてしまった。
「なに考えてんだ!」
グイッと引っ張られて、ユキヤの身体に背中からぶつかっていった。
思ったより逞しい胸板に触れて、私は両手で押し返すように叩いた。
「いってぇっ……って! やめろ!」
叩く手が止まらない。
運転しているユキヤの顔を、あろうことか手のひらでバチンと叩いてしまった。
「……!」
ユキヤは私の顔を見て、驚いている。
見られたくなくて、両腕で顔を隠した。
路肩に車を滑り込ませるようにして止めたユキヤが、私の腕を掴んで解こうとした。
「…あんな風に暴れられたら、俺達…死ぬんだぞ?」
今度は、呆れたような声。
声だけで、どんな顔をしているのか想像はつく。
私は頭を振って、両腕両足を閉じてユキヤを拒絶した。
「…お願い。今夜はもう帰らせて」
必死の懇願のつもりだった。でもそれが、余計にユキヤを追い詰めることになってしまった。
ゴクリと喉を鳴らす音がして、すぐそばに体温を感じる。
私の指に自分の指を絡ませ始めたユキヤが、震えるような声で言った。
「……教えてくれよ。どうすれば、お前と…」
今にも泣き出しそうな声が、失恋のバラードと重なる。
英語はわからないけど、同じフレーズを繰り返している。私がその曲に気を取られていると気付いたのか、ユキヤはオーディオのスイッチを切った。
「なぁ。……まだ、怖い?」
やだ、やめて。
「忘れられない? あの日のこと…。俺は、気にしてないよ。お前が……」
「…やめて」
誰にだって触れられたくない過去がある。
「俺が、お前との約束をすっぽかさなかったら…あんなことにはならなかったんだ……」
ユキヤはずっと、負い目を感じている。
そうだとしても、まだ駄目なのに。
「その話は、したくない!!」
自分でもどうすることもできない痛みに触れられるのは、どうしてもイヤ。
「ご、ごめん! 悪かった、謝るから……、ごめん、ごめん、ごめんな……ごめん……」
オロオロしながら謝り続けるユキヤを見て、なんだか自分が、酷く愚か者に思えた。
私はシートベルトを外して、ロックをあげて、ドアを開けて外に転がり出た。
怖い。
追いかけてくる、視線。
私を見る、汚らわしい欲望。
卑怯者が引きちぎった私の大事なものが、ただれていく。
血を滲ませて、痛いよと叫んでる。
どんなに時間が経っても、全然良くならない。
良くなるどころか、もっと悪くなっている気がする。
誰も信じられない。
みんなで私を傷付ける。
怖くて辛くて許せなくて、こんなに苦しいのに。
誰も助けられない。
助けてくれようともしない。
やめて。
触らないで。
こっちを見ないで。
放っておいて。
もう、やだ。
やだよ―――。
砂地に咲いた野生の薔薇に足を取られて転んだ。
棘で傷だらけの足からは、引っ掻いた傷がいくつも並ぶ。血が溢れ出す。
「ミユ!!」
ユキヤが追い付いてきて、私を後ろから抱きしめた。
思えばユキヤはとてもシャイだった記憶がある。初めて会ったときなんて、お母さんの後ろに隠れながら周りを見渡して、保育園に置き去りにされた悲しみを押し殺すようにむっつりとして、先生達を戸惑わせていた。
そんなユキヤがいつの間にか、クラスの人気者になってた。誰とでも仲良くなる彼を尊敬しつつ、どこかで嫌悪していた。
「ごめん!」
ユキヤの声が、荒野に響く。
町と町をつなぐ国道なのに、車通りは殆どない。
深夜なんだから、当たり前か…。
沸騰したような過去の応酬には、もう慣れた。
これが発作だとユキヤは承知している。どうすれば私が落ち着くのか、厭だと叫びながらも、ユキヤの腕の中だけはオアシスだということも、わかっている。
彼は、かけがえのないトモダチ。
親よりも私に近い。
抱きしめられ、髪を撫でられる。
暗闇を払うこの大きな手に、私は何度救われたことだろう。
同じ男でも、こうも違う。
この世の男で私に触れて良いのは、トモダチのユキヤだけ。
涙も鼻水も彼のタオルハンカチで拭き取られ、私は脱力した身体を持ち上げられた。
「自分で、歩けるから!」
振り絞った声が震えている。情けないほど、か弱い女の声だ。私の大嫌いな、女の声。
「そんなの、無理だろ。俺が悪いんだから、これぐらいやらせろよ…」
「じゃあ、約束して。もう二度と、あんなこと……、私達の間に恋愛感情なんか要らないんだから!」
それからユキヤの顔を、まともには見れなくなった。
アパートに送って貰い車を降りても振り返らずに、駆け込むように逃げ込んだ。ユキヤは追って来ない。ルームシェアしている間柄なのに、彼は今夜もどこか別の場所で夜を超える。
去って行く車の音。遠ざかる、赤いランプをカーテンの隙間から見送ってから、私は崩れ落ちるようにベッドに身体を投げ出した。
狡いのは、私の方だ。
だけど今は、もうこれ以上考えるのもいや。
こんな最低な私なんか、もう放ってしまえば良いんだ。そう思いながら、気怠いまどろみに沈んでいく。
そんなことがあっても、泥のように眠って朝を迎えた。図太いのか繊細なのか、自分でもよくわからない。いつもより少しだけ早く起きて、シャワーを浴びて、黒いブラキャミとボクサーパンツを履いて、濡れた髪を後ろに束ねた。化粧っ気のない顔を鏡に映し、冴えない自分を眺めながら、ユキヤのことが気になった。
その瞬間。スマホにメッセージが届いた音が、鳴る。
【おはよう。調子はどう? 昨日のことは、なかったことにしたい】
その一文が、ユキヤの覚悟を感じさせた。ホッともしたけど、それ以外にも何かひっかかるものを感じながらも、了解を表す動物のスタンプを返す。
【バイトがんばって】
すかさず返事が返ってきて、その気遣いになんだか胸が締め付けられた。
◇◇◇
白い特殊スーツを着て、マスクをして髪を覆うほどの白いキャップを被り、エア洗浄の部屋で埃や汚れを除去してから、作業室に入る。この格好をした人達が大勢並んでいるのは、食品加工工場。殆どが女性で、年齢も様々。
私の持ち場はしめじを指定サイズに切り分けて、トレーに乗せるところ。ひたすら同じ作業の繰り返し。どんどん流れてくるしめじを切り分けて、軽量して、トレーに乗せる。
最初はとても無理だった。でも、音楽のリズムに合わせると良いというアドバイスを貰って、頭の中でハトポッポをひたすら繰り返すようになってからは、順調。
目の前の作業に没頭すれば、いやなこと全部忘れられる。家に引き籠って布団被って泣いていた頃は、こんな素晴らしい方法があるなんて夢にも思わなかった。
ある日、きっかけをくれたのはユキヤのママで、別部門だけど今も同じ工場のどこかで働いている。
ユキヤのママと私のママは、同級生だったそうだ。でも、そんなに仲良しというほどではなかったらしい。うちのママは良く言えば社交的だけど、実のところ見栄っ張りで自己中心的だったりする。ユキヤのママは気さくでさっぱりとした性格で、私としてはそっちの方が付き合い安い。
実の母娘だからと言って、お互いに解り合えるわけじゃない。潔癖で世間体命のママは、私がキズモノになってからは特に干渉すらして来なくなった。ちなみにパパは離婚して家を出て行ってしまっている。どこかでのほほんと暮らしているのかどうかも、知らない。
私は高校を中退したので一般就職が難しい。履歴書に書ける資格も特技もない。だから、しめじを切り分けるだけの流れ作業でも、自分を養うことが出来ているのだから、ありがたい。
この仕事は立ち仕事だし、同じ姿勢で俯くから肩も背中も腰にもくる。二十歳がいくら若いと言われても、足腰をちゃんとほぐしておかないと疲労度が違う。休憩の度に、誰の邪魔にもならない休憩室のすみっこでストレッチ体操をする。
特殊スーツの下で汗をかいて、下着まで濡れてしまった。温度と湿度を管理された部屋だけどわりと涼しいのに、更衣室で着替えをするたびに自分の汗の量に毎回驚いている。
朝八時から午後一時までの五時間のバイトが終わった。世間話に花を咲かせているおばちゃんの後ろを通り抜けて、着替えを済ませてさっさと外に出ると、太陽が天辺でギラギラしていて眩暈を覚えた。
季節代わりだから、帰りは逆行きのバスに乗って服を買い出さないといけない。ファストファッションのシャツはワンシーズンで消耗してしまうので、必ず新しいシャツを買う必要がある。気を引き締めてバス停に向かった。
土曜日のショッピングモールは大勢の人達でにぎわっていた。私は男の人が怖いので、顔を上げずに歩いていく。太い首や厚みのある体を見るだけで手が震えるほどで、それでも一年前に比べたらひとりでこうして買い物にも出掛けられるようになったのだから良しとしている。
一枚790円の半そでシャツを五枚選んで購入した。制汗スプレーをドラッグストアで買い、総菜屋で今夜と明日のお弁当用のものを選び、安売りのバスタオルを買って、最後にドーナツ屋でお茶でもしようと立ち寄ると、そこに信じられないものを見た。
真っすぐな髪を綺麗に切りそろえ、左耳の上だけを刈り上げピアスをした男。ピンクのポロシャツに黄色みの強いダボ付いたズボン。左手にだけやたらと指輪をつけ、爪は神経質なほど切り揃えられている。その隣にいるのは、ミニスカートに上げ底のハイヒールを履いた着け爪の女の子。化粧もばっちりで、ハイブランドのバッグを腕に引っ掛けている。
二人は楽し気に話をしながら、笑っていた。ユキヤは私に気付かず、その女の子が腕にしがみつくのを振り払いもせずに、ドーナツ屋の隣のパンケーキ屋に入って行った。