出会い 二
「大丈夫よ。私はあなたに危害を加えるつもりなんてないわ」
強張る氷狼に優しく語り掛け、宥めるようにゆっくりと触れた。やはりどこか懐かしい……。
聖獣たちとは違う少し硬い毛質。属性ゆえかひんやりと冷たい体温。そのどれもが初めてなのに。撫でるたび、じわりじわりと愛おしさが湧いてくる。
いくら弱っていても獰猛な魔物に変わりはない。突然噛みついてくる危険だってある。そんなこと分かり切っているが、それでも不思議と恐怖を感じなかった。
「大丈夫。大丈夫よ。何も怖くないわ。あなたを傷つけたりしないから」
大丈夫だと繰り返し撫で続ければ、氷狼は警戒を解いたのか。それとも、そんな気力さえなくなってしまったのか。強張っていた体から、くたりと力を抜いた。
それを機に、背を撫でていた手をわき腹に滑らせる。想像していた通り、指先に触れたのはでこぼことしたおうとつ。薄暗くて見えにくいが、やはり毛皮の下は痛々しいまでに肋骨が浮き出ている。
これまでどんな辛い目に遭ってきたのか。本能で生きる魔物の世界はどれほど過酷か、私には想像もつかない。目の前の魔物を愛しく思えばおもうほど、悲しみが押し寄せた。
衰弱しきった氷狼は生きる気力を失っている。これでは、止血しても助かるかどうか難しいだろう。
せめて、もう一度だけ生きる気力を取り戻してくれさえすれば、少しは助かる見込みもあるかもしれない。
けれど、洞窟内に響く浅い呼吸がどんどん小さくなっていく。まるでこの魔物の心拍のようだ。今にも消え入りそうな命の灯に唇を噛み締めた。
このまま楽にしてあげたほうが、この魔物にとって幸せなのかもしれない。だけど……。
「お願い。死なないで……」
厳しい魔物の森ではいつもどこかで命が失われ、そして新たな命が誕生している。今まさにこの状況も、森に来て幾度となく見てきた光景だ。
命が消える瞬間。それを目の当たりにするのはいつも複雑で、時には胸が痛む時もある。
しかし今回は、それと比にならないくらい辛い。辛くて辛くて、心の柔らかい場所がズキズキと疼くのだ。
両手で氷狼の顔を包み込むように撫でると、力ない瞳に涙の膜が張った。どんどん溜まるそれは、まるで氷が溶けだすように、ぽたりぽたりと零れだす。
そして憑き物が落ちたかのように、瞳に小さな光を宿して、重たそうに持ち上げた尻尾をゆらりと揺らした。微かに聞こえる何かを訴えかけるような高い鳴き声。それはまるで、「生きたい」と願っているようだった。
今なら助かるかもしれない!
確か洞窟の入り口に痺れ草が生えていた。あれは感覚を麻痺させる効果があるので、少量だけ使えば痛み止めの薬になる。あとは、沼に向かう途中で摘んだ薬草の中に、止血と殺菌効果のあるものがあったはず。
魔物にリモールを食べさせても効くのだろうか。幸い昼食で使わなかったものが一つある。試してみる価値はあるかもしれない。
まずは血がこびり付いた傷口を洗おうと、水筒の蓋を開ける。妖精の泉の水なら少しは傷に効くはずだ。
「少し滲みるかもしれないけど、我慢してね」
『メリッサ、まさか手当てをする気か?』
「ええ……バルカン。言いたいことは分かっているわ」
今から自分がしようとしていることは、ただの自己満足だ。魔物と通じ合っていると思っているこの感覚も、ただの気のせいで氷狼からしたら大きなお世話かもしれない。
それに運良く助かっても、群れから追い出された氷狼にとって辛いことばかりだろう。けれど、一度生への執着を手放していた瞳に、再び光が差しているように見えるのだ。これは本当に、自分の傲慢な考えからくる錯覚だろうか。
『もしそやつが生き延びて、次にあった時。お前を襲ってくるかもしれないぞ?』
「それでも構わないわ」
この子だけは、見過ごすことができない。私はどうなったっていいのだ。たとえ、自分が襲われたとしても後悔はしないだろう。
口を曲げるバルカンを見上げると、ふと隣で静かに私を見守るジークと目が合った。側にはペルーンが横たわる氷狼を警戒している。そこで漸く周りが見えた。
ああ、なんてこと。私、最低だわ。目の前のことしか考えていなかった――。
もしかすると、彼らが自分のせいで傷つくかもしれない。私の傲慢な考えは、大切な人たちを危険に晒すことになるかもしれないのだ。一人突っ走る愚かな自分を嫌悪する。くしゃりと顔を歪ませ言葉に詰まる私に、ジークがふと目を細めた。
「メリッサ、そうじゃない。君を責めたいわけじゃないんだ」
私の隣にしゃがみ込み、ジークが優しく背を撫でる。
「ただ、メリッサが俺たちを大切に思ってくれているように、俺たちも君が大切なんだ。それだけは忘れないでくれ」
穏やかに話すジークの言葉がじんわり心を温める。
私にもこうして心配し、何かあれば悲しんでくれる人がいたのに失念していた。鉱石猪に襲われた時だって、あんなにバルカンの気を揉ませ、ペルーンを散々泣かせてしまったではないか。
私が傷つけば、ジークもバルカンもペルーンも悲しみ、そして傷つく。私は私自身も、大切な人たちのために大事にしなければならない。軽々しく自分を蔑ろにするようなことは言ってはいけなかった。
「みんな……、ごめんなさい。わたしっ……」
「まぁ、俺は最初から治療をするのに賛成だったけどな!」
喉を震わせ謝る私に、ジークがポンッと軽く背を叩く。そして極めて明るい声を出しカラリと笑った。これ以上、私が落ち込まないよう気遣ってくれる彼の優しさに救われる。
『ふん、あれだけ慌てておったくせに格好をつけよって』
「おいおい、それは言わないでくれよ」
『メリッサ、家に連れて帰らないなら手当しても良いぞ』
「い、いいの?」
涙を拭って見上げれば、困ったように笑うジークと、そっぽを向いたまま頷くバルカン。そんな彼らにまた目頭が熱くなった。
『我の縄張りをこれ以上汚されたらかなわんからな! だが、もしこやつが運よく生き延びて襲ってきた時は問答無用で始末するぞ』
「連れて帰らないのもメリッサが心配なだけなくせに。バルカンは素直じゃないな」
『黙れジーク! それより、お前はそんなヒョロヒョロな身体で襲われたらどうするつもりだ? 自分の心配だけしておれ』
「ははっ、バルカン俺を舐めてもらっては困るな。すぐに身体を鍛えなおしてみせるさ。ほらメリッサ、そうと決まれば早く手当をしてやろう!」
「ええ、そうね。ありがとう!」
ジークの言葉に急いで作業に取り掛かろうと動き出す。すると、いつの間にか側を離れていたペルーンが、いそいそと薬草を咥えてやってきた。ジークの看病中、いつもお手伝いをしてくれていたので頼もしい。
「クナウッ!」
「まぁ、ペルーンなんて仕事が早いの! 流石、小さな助手さんね。あなたも、さっきは心配してくれてありがとう」
「クゥーナッ!」
私の心を尊重し、大切なことを気づかせてくれたジーク。言い聞かせるように念を押し、最後まで心配をしてくれるバルカン。私の側で警戒を崩さずに守ってくれていたペルーン。本当に私は幸せ者だ。こんなに優しく温かな仲間に出会えるなんて。
「メリッサ、傷口が洗えたぞ」
「ありがとう、次はこれを――」
もしも氷狼が生き延びることができたなら。願わくば、種族が違っても良い、ただ孤独にならず支え合える仲間を見つけて欲しい。もしそれが、私ならどんなにいいか。
どうか、この子の命が救えますように――。
そう願いながら、慌ただしく手当てを進めたのだった。
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