地中のオーブンとバルカンの悲劇
涼し気な川のせせらぎに逸る気持ちを押さえ、泥水を含んだ重たいブーツの紐を解く。
漸く解放された素足を川底まで見える透明な水に浸けると、長い年月をかけて丸くなった小石が足裏を刺激した。
ほんの少しの痛みと気持ちの良い癖になりそうな感覚。次第に足の疲労が解れ、スッキリとした爽快感に自然と口元が綻んだ。
川の流れに逆らうように、爪先で水面をなぞれば、パシャリと飛沫が輝き小魚が逃げていく。時が止まったような静かな沼とはまた違う、流れのある美しさに心が躍った。
今では川に来ると恒例になっている水遊びという名の汚れ落とし。水を蹴る私の足にペルーンが楽しそうに戯れてくる。
「ふふふ、あれだけ沼で泳いでいたのにまだ遊び足りないようね? だけど、泥もしっかり落としてちょうだい」
「クナァ~ン」
本当はワンピースごとじゃぶじゃぶ洗いたいが、ジークがいるので今回は手足だけに留める。それでも、気づけばいつの間にか夢中になってワンピースの裾をたくし上げていた。
はしたなかったかしら?
そろり、と川岸で火の番をしているジークを振り返る。すると、こちらに背中を向けている彼が目に入り、ほっと息を吐いた。幸いジークに見苦しい姿を見せずに済んだようだ。
聖獣たちと過ごす生活は、誰の目を気にすることもなく解放感に溢れている。ジークを忘れて、つい大胆な行動を取ってしまった。
しかし、日頃の態度からして、これまで美しい蝶達と数々の名を馳せてきたであろう彼が、今更私の棒切れのような足を見たとて、行儀が悪い以外の感情が生まれるとは到底思えない。
社交界では壁の花。婚約者すら他の女性に目移りし捨てられる程、私には誰かを引き留める魅力がない。暗い性格が改善されたことを差し引いても、どこかの若ければ誰でも良いような好色家くらいしか食指は動かないだろう。
今はこの色素の薄い髪も瞳も気に入っているし、別に自分を卑下するつもりはない。ただ、今までの経験上そう思うだけ。決して悲観的に受け止めている訳ではなく、単純に自分が誰かの恋愛対象になる想像がつかないのだ。
例えば、恋人が欲しいとか、誰かに恋をしているとか、そんな感情を私が持ち合わせていれば、落ち込むだろう。しかしそんな予定、この先ずっとない。なぜなら、あれだけ痛い目にあった恋愛なんてする気も起きないからだ。
私はこの森で聖獣たちと穏やかに生きて行く。それだけで十分、心が満たされ幸せなのだから。
それに、今の状況からして、とても丁度良いではないか。普通なら異性とひとつ屋根の下なんて大騒ぎだ。しかし、私なら過ちなんて決して起こらない。ジークとはすごく良い友人関係を築けていると思う。人間の友人は初めてで凄く嬉しい。大事にしたい。
「ジーク、火の番をしてくれてありがとう。あなたも汚れを落としてきたら?」
「あっ、あぁ。そうするよ!」
川から上がり、ジークに声をかければ、振り返った彼の頬がほんのり赤く染まっていた。焚火の熱のせいで暑そうだ。火照った身体に冷たい川の水はさぞ気持ちが良いだろう。
ふらふらと川に向かうジークを見送っていると、バルカンが溜息をついた。
「バルカンったら、まだペルーンが口裂け兎を逃がしちゃったこと怒ってるの? きっと大鯰ガエルだって美味しいわよ。だってほら、とってもいい香り!」
焚火の上には大鯰ガエルの肉付きのいい大きな後ろ脚が一本。三脚にかけられてジリジリと焼かれている。ジークが火の番をしてくれたお陰で、いい感じにこんがりと焼き目がついて美味しそうだ。
「あともう少しで焼きあがりそうね!」
『はぁ、やれやれ。あやつもこれでは苦労するな』
ぼそぼそと何かを囁くバルカンが、焚火の前にどかりと座る。そして、自分の体によじ登ろうとするペルーンを捕まえた。
『こら、チビ! 濡れたまま我に張り付くな鬱陶しい! まだお前を許してはおらんからなっ』
ここにくる途中、大鯰ガエルを食べたくないと、バルカンが自分専用の昼食として口裂け兎を生け捕りにした。しかし、それを絞める前にペルーンが誤って逃がしてしまったのだ。案の定、大激怒したバルカンだが、今は怒りながらもペルーンを乾かしてあげている。
「ふふふ、私あなたのそういうところ大好きよ」
『ふん、それよりこっちの土に埋めたやつはこれで本当に焼けるのか?』
バルカンがピクピクと髭を揺らし、話を逸らすようにもう片方の焚火に視線を落とす。あれは照れ隠しの時、よくする仕草だ。可愛らしい大きな聖獣に口元を緩め、気づかないふりをして焚火をつつく。
石の上で薪が爆ぜ、地中から白い湯気が上がった。この焚火の下には、バナの葉で包んだ大鯰ガエルが埋まっているのだ。
以前読んだ『上巻』に、土に埋めて食材に火を通す土中焼きと言う調理方法が書かれていた。まずは地面に穴を掘り、そこへ石を並べて火を起こす。そして十分に熱した焼き石に、葉などで包んだ食材を乗せて穴を塞ぎ、その上でまた火を起こすのだ。そうすることで、食材が蒸し焼きになるのだとか。
「ガジルさんの本には蒸し焼きになるって書いてあったわ。地中がオーブンの代わりになるなんて驚きよね。楽しみ!」
それに、大鯰ガエルの他に今日採れたばかりの野菜も蒸し焼きにしているのだ。籠から野菜や調味料を取り出した時、「道理で重かったはずだ」とジークが目を丸めていたのを思い出す。
ペルーンなんて、次は何が出てくるのかと興味津々で、何だか手品師にでもなった気分だった。先ほどの皆の反応を思い出していると、バルカンが不思議そうに空を見上げた。
『雨か……?』
空は青々と気持ちの良いくらい晴れ渡っている。手のひらをかざしてみるが、雨が降ってくる気配もない。お天気雨でもなさそうだ、とバルカンを見た瞬間、驚きの光景に目を見開いた。
「あっ……」
バルカンの頭にしがみついているペルーンが、こんがり焼けた大鯰ガエルの脚を食い入るように見つめている。口元に大量の涎を蓄えて……。
「クナァ~……」
じゅるり――。
『ムッ!? ――この馬鹿者! 今すぐ降りろっ、早く降りろっ、我の頭に涎を垂らすでないっ!』
雨ではなく、ペルーンの涎が紅く燃えるたてがみに降り注ぐ。戦慄くバルカンの叫び声が、空高く響き渡ったのだった――。






