絶望からの生還
爬虫類が苦手な方や、お食事中の方はご注意ください。嘔吐シーンがあります。
ーーザバンッ。
「捕まえた!」
水音をたてながら沼から腕を引き抜いたジークが、一匹の彩光ザリガニを天に掲げる。その姿はまるで、秘宝を手に入れた冒険者のようだ。
「どうだ、今度は俺のほうが大きいんじゃないか!?」
『ふん、残念だったな。我のほうが一回り大きい!』
ジークとバルカンがそれぞれ捕獲した彩光ザリガニの大きさ比べに盛り上がっている。そんな二人をよそ眼に、ペルーンは静かに尻尾を巣穴に垂らしていた。あんなに痛がっていたのに、今では一番の大物を釣り上げる名人だ。
「――ナァッ!」
「うわっ、またペルーンが大物を釣り上げた! これは今までで一番大きいんじゃないか……?」
『チビのくせにやりおる……やはり我の見立て通り、金色の尻尾に食いつきが良いな』
ぐうの音も出ないバルカンたちを尻目に、ペルーンが本日一番の大物を籠に放り込んだ。そして悠然とした足取りで、岩に座っている私のもとへやってきた。いそいそと膝に乗り上げてくる名人は、どうやら休憩と背を撫でる手をご所望らしい。
「絶好調ね。あなたにこんな才能があったなんて驚きだわ」
「クナァ~ン」
「まぁね」と言うように、鼻をツンと上へ向けるペルーン。少し気取った表情をするも、全身泥んこなのが妙に面白くて可愛らしい。
ふふふ、と顔についた泥を拭ってあげていると、重量感のある大きな水音が響いた。どうせ負けず嫌いのバルカンが躍起になって沼に飛び込んだのだろう。
気にせず気持ち良さそうに目を瞑るペルーンの毛を手櫛で解いていると、妙に辺りが静まり返ってることに違和感を覚えた。
視線を上げると、ぴたりと動きを止めているバルカンたち。その更に奥には、鯰に水掻きのついた手足が生えている巨大な魔物が、何処からか姿を現していたのだ。
「っ!?」
多分、あれは大鯰ガエルだ。『下巻』によると動くものに反応し、人間を余裕で丸呑みできるほど大きな胃袋をもっているらしい。
対処法はとにかく動かないこと。通り過ぎるのをじっと待てば攻撃性はないそうだ。ただ無理に逃げようと反応してしまえば、蛙のような長い舌を出して追い回してくると書いてあった。
『チッ! 目障りなのが出てきよった。お前たち、面倒だから動くなよ。放っておけばそのうちどこかへ行くだろう』
バルカンからすれば大鯰ガエルを倒すのは赤子の手をひねるより簡単らしい。しかし、妖精時代に例の破天荒な彼女のとある悪戯で、この奇妙な魔物と関わること自体嫌になったのだとか。
バルカンの呼びかけにそれぞれ目で頷くと、ペルーンを撫でていた手を止めてじっと身を固める。
けれど、不意にジークが「しまった……」と顔をゆがめた。何か問題が発生したのだろうか。
彼の視線の先を辿ると、一匹の大きな彩光ザリガニが籠から脱走を図っていたのだ。あれは多分、ペルーンが釣り上げた一番大きな彩光ザリガニ。
どうやら、大きさ比べに白熱するあまり、うっかりハサミを蔦で縛るのを忘れていたようだ。ジークが申し訳なさそうにペルーンに視線を向けている。
しかし、ペルーンは目を瞑っており、今の状況にまったく気づいていない。
どうか、大鯰ガエルが脱走を図った彩光ザリガニに気づく前に。どうか、ペルーンが目を開ける前に。早くこの状況が過ぎ去って欲しい。
そんなことを思っていたら、ペルーンが「もっと撫でて」と駄々をこねるように鳴き声を上げながら目を開けた。
固まっている私をきょとりと見上げ、不思議そうに辺りを見渡す。そして、今まさに大鯰ガエルが長い舌を出し、彩光ザリガニを捕食しようとしている姿に目を剥いた。
「グナァーーーン!」
「あっ、ペルーン! ダメ!」
私の膝から飛び降り、一目散に大鯰ガエルへ駆けだすペルーン。しかし取り返すには一足遅かった。ペルーンの目の前で、無情にも彩光ザリガニが飲み込まれてしまったのだ。
威嚇してグルルと唸るペルーンを、ギョロリと水に濡れた大鯰ガエルの瞳が捕らえた。その矢先――。
本当に一瞬だった。瞬きをする間もなく、俊敏に飛び出た大鯰ガエルの長い舌がペルーンを絡めとる。そして、あっという間に飲み込んでしまったのだ。
「そ、そんな……嘘よ。こんな……っ」
足の力が抜けてぺたりと地面に座り込む。私が離さなければ。ペルーンが目を開ける前に、説明してあげていれば……。
膝と手には、まだ柔らかくて温かなペルーンの温もりが残っている。
「ペ、ペルーン……っ、いやよ。いやーーーーーっ!」
唖然と両手を見つめ、信じられないできことに、ずっと塞き止めていた悲鳴が口から飛び出す。
頭の中にはペルーンが私に甘えてくる可愛らしい姿が、まるで走馬灯のように流れた。
味見がしたいと足に両脚を乗せてくるペルーン。早く起きて、と柔らかな肉球を頬に押し付けてくるペルーン。バルカンに怒られてしょんぼりしながら胸に顔を押し付けてくるペルーン。撫でる手に頬ずりをしてくるペルーン。
数えきれないほど沢山流れるペルーンとの思い出。いつも一緒にいてくれた、私の可愛い可愛いペルーン。
涙で歪む視界の中、大鯰ガエルと目が合った。下品な音を立て、ふてぶてしくゲップをする魔物のなんと忌々しいことか。絶望が沸々と怒りに変わった。
何としてでも助けなきゃ……!
ゆらりと立ち上がり、腰に付けたナイフを手に取った。そんな私の前に、槍の穂先を付けた串を構えるジークが立ち塞がる。
「ジーク、退いてちょうだい!」
「待って、落ち着くんだメリッサ。それじゃあ間合いが短すぎるから危険だ。俺がやる!」
『まぁ、待てお前たち。もう少しすれば面白いものが見られるぞ』
どうしてバルカンは冷静でいられるのか。まったくもって理解できない。一秒でも早くペルーンを助けなければならないと言うのに。眉間に皺を寄せバルカンを振り向けば、ニタリと口角を上げ大鯰ガエルを見ていた。
怪訝そうな顔をしたジークと顔を見合わせていると、前方からどうも様子のおかしい鳴き声が聞こえ始めた。
――グッ、グゲェ……ウゲェェェェ、オオオォゲゲゲェ!
蛙のように座り込んだ大鯰ガエル。その風船のような腹が、ボコボコとあちこち膨らんだりへっこんだり。その度に目の前の魔物が不快な鳴き声を上げる。
どうやらペルーンが腹の中で暴れまわっているようだ。
「生きてる! ジーク、ペルーンが生きてるわ!」
「ああ、良かった! ペルーン頑張れ!」
ジークと手を取り飛び跳ねながら喜んだ。
本人に届くか分からないが、2人でペルーンの名前を必死に呼び続ける。
すると、大鯰ガエルの体の中からビリビリと鈍い音が響いた。
ペルーンが腹の中で稲妻を起こしているのか、大きな巨体が痙攣して倒れ込む。
ギョロギョロと忙しなく動き回っていた瞳は白目を剥いて、遂には口から胃袋ごとペルーンを吐き出したのだ。
「クナァ!」
「ペルーン! あぁ、よかったっ、痛いところはない!?」
「はぁ、よかった……一時はどうなるかと思った」
謎の透明な粘液に塗れているが、ペルーンはいたってピンピンしている。「取り返したよ!」と言わんばかりに、彩光ザリガニを咥えて誇らしげだ。
『やれやれ、本当に人騒がせな奴だ』
緊張の糸が切れ再び脱力した私に、ペルーンが「褒めて、褒めて」と尻尾を振る。
泥や粘液でこれまでにないほど汚れているが、そんなことはお構いなしに、一回り逞しくなった気がするペルーンを強く抱きしめたのだった。






