突然の悲鳴とおまじない
そろそろ籠の中が水中ガーリックでいっぱいになりそうな頃。
長閑な池のほとりに、けたたましい鳴き声が響き渡った。何事かと目を走らせれば、泳ぎ疲れて居眠りをしていたはずのペルーンが、ジタバタと地面に転げまわっている。
「ペルーン、どうしたの!?」
「グナーーッ! ナァーーーーッ!」
「わっぷ、ちょっと待って――」
ペルーンが尻尾を地面に叩きつけ、飛び散る泥に視界を塞がれてしまう。泥を防ぐ腕の隙間から一瞬だけ見えたのは、何か太くて長いもの。それが尻尾の先にぶら下がっている。
「大丈夫か!? 落ち着けペルーン」
私が手を伸ばすよりも先に、ジークが暴れるペルーンを優しく押さえる。そして、尻尾の先にぶら下がる何かをガシリと掴み、困惑の表情を浮かべた。
ペルーンの尻尾にぶら下るものの正体は一体何なのか……。
恐る恐るジークの手元を覗き込む。すると、怪しく光る玉虫色の一部がちらりと見えた。虫の胴体だろうか。鎧のように硬そうなそれが、ジークの手から逃れようと背をしならせ反り返る。
無防備に晒された腹の内側には無数の短い脚。それがわさわさと宙に向かってもがいているではないか。
玉虫色の巨大な虫なんて見たことも聞いたこともない。
はっきり言ってかなり気持ちが悪い。もしかして、新種だろうか。魔物の森なら十分にあり得そうで恐ろしい。
胴体以外はべっとりと粘土質な泥に覆われたまま。そのため頭部が見えず、どうやってペルーンに貼りついているのか未だ分からない。
けれど、こんなに硬そうな見た目だ。強い顎の力で尻尾に噛みついているのかも。このままバリバリとペルーンを食べてしまったらどうしよう。もしかすると毒を持っている可能性だってある。
頭に浮かぶのは恐ろしい想像ばかり。
「ああ、ペルーン。どうしようっ! 毒消しの薬草を準備したほうが良いかしら!?」
「いや、その心配はない。多分これは……」
青ざめる私に、ジークが落ち着いた様子で虫についた泥を払う。その大胆な手つきにハラハラと見守っていると、次第に虫の形が露になった。
尻尾の先に噛みついていると思っていたが、思いのほかジークが掴んでいる剛体のすぐ上に、尖った頭部がくっついている……。
果たしてこれは虫なのだろうか。想像していたものとまったく形が違う。
怪訝に思いながら、最後に泥が落とされた尻尾の先を見て目を見開いた。
「ああ、やっぱり。彩光ザリガニか……」
「なんて大きなハサミなのっ。尻尾が切り落とされちゃう!」
「大丈夫、ただ毛を挟んでいるだけだ。ペルーンすぐに外してやるからじっとしててくれ」
「クナゥ」
ジークがペルーンを抱き上げ、そっと彩光ザリガニごと池の水に浸す。すると、あれほど頑なだった玉虫色のハサミは、毒気が抜かれたようにするりと離れた。
「よし、取れた! よく頑張ったな」
「ジークありがとう! おいでペルーン、痛かったわね……」
「クナァ~」
尻尾を股の下に隠し私の膝の上に乗ったペルーン。しょんぼりとしているが、どうやらジークの言うように、尻尾の毛先を挟まれていただけのようだ。
いつも真っ直ぐ癖のない柔らかな毛並みが、先端だけ縮れたように、挟まれた痕が残っている。ひとまず怪我はしていないようで安堵の息を吐いた。
しかし、自分の尻尾を必死に毛繕いするペルーンが、可哀そうで仕方がない。あれだけ大きな彩光ザリガニがぶら下がっていたのだ。毛が引っ張られて相当痛かっただろう。
「ああ、やっぱり。この太い巣穴に尻尾を入れてしまったんだな。穴を突きさえしなければ出てこないから、次からは気をつけるんだぞペルーン」
ペルーンが横になっていた場所に膝をつき、ジークが池の縁を覗き込んでいる。いままで気がつかなかったが、池の周りにちらほら、大小さまざまな穴がぽっかりと開いていた。これらは彩光ザリガニの巣穴らしい。
ジークがゆらりと泥の中に消えようとする彩光ザリガニを捕まえ、大きなハサミを蔦で縛り付けている。その慣れた手つきに、先ほど慌てるばかりで何もできなかった自分を思い出し情けなくなった。
ジークがいてくれて良かったわ。私一人では、もしかするといまだに彩光ザリガニと格闘していたかもしれないもの。
せめて少しでもペルーンの痛みを和らげてあげたい。
耳をペタリと伏せる幼いペルーンを優しく撫でながら、ふと脳裏に浮かんだおまじないを口にした。
「痛いの痛いの飛んで行け」
以前、学園からの帰り道に、一時停止した馬車の中からみた光景を思い出す。
道端で転んでしまったのか、膝を擦りむき泣いている子どもと、傍らには母親らしき女性。堰を切ったように泣き叫ぶ声に、心配になって馬車の窓を開けた。その時、ぴたりと子どもの泣き声が止んだ。
ひっくひっくと喉を詰まらせてはいるものの、唇を噛み締め落ち着きを取り戻しつつある。
あれだけ泣いていたのに。突然、何があったというのか。
その現象が興味深く、馬車の窓から様子を窺う。すると、母親が何かを囁いているのに気がついた。
痛いの飛んで行け――。
血の滲む小さな膝小僧に、優しく息を吹きかけながら、慈愛に満ちた声で。眼差しで。おまじないをかけていた。
その呪文を繰り返すたび、子どもの笑顔が増してゆく。涙で濡れたふくふくの頬を優しく拭う母親と、鼻を啜りながらにっこりと微笑む子ども。
自分の記憶にはないはずなのに……。
なんだかそれが無性に懐かしくて。心が温かくなると同時に、泣きたくなるほど胸が締め付けられたのを覚えている。
「痛いの痛いの飛んで行け」
ペルーンの小さく震える体が可哀そうで、愛おしくて。この子が苦しむくらいなら、私がその痛みを代わってあげたい。
あの時の母親も、こんな気持ちだったのだろうか。
見よう見まねで呪文を繰り返せば、ペルーンが尻尾を揺らして私の手に頬ずりをした。
気休めでも痛みが和らいだのか、はたまた時間が経って痛みが治まったのか。
私の膝から飛び降りると、ペルーンが彩光ザリガニに一発小さなパンチをお見舞いした。
その元気な様子に、何はともあれ、安堵し笑みが漏れたのだった。






