思わぬ景色と水中ガーリック
――べちゃりべちゃり。
冷んやりと足に纏わり付く水気を含んだ重み。
数歩先で泥を散らして歩くペルーンを眺めながら、今では笑い話になっている遠いようで近い過去の失態を思い出す。
きっと、あの岩場の裏には今日も元気に大量の大ナメクジが蠢いているのだろう。今回ばかりは絶対に叫ばない。
この森に来てから色んなものを見てきたのだ。自分よりも大きな魔物だって捌けるようになった。そう易々と声を上げてやるものか。
そう心に決めて、泥に沈む足をまた一歩と大きく前へ踏み出した。
湿地に右往左往と根を張る幾つもの大木。それに寄生する葉を茂らせた蔦性植物が、まるでその先を隠すように垂れさがっている。あの奥に水中ガーリックが生えているのだろうか。
先頭を行くバルカンがこちらをちらりと振り返る。その視線に頷くと、頼りになる聖獣は悠々とした足取りで緑の奥へと姿を消した。
『大丈夫だ。こい』
少しくぐもって聞こえるバルカンの呼びかけに、ジークがあちらとこちらを隔てる緑のカーテンをばさりと開いた。その瞬間――。
「――まぁ、……なんて美しいの……」
目の前には穏やかな陽が降り注ぐ、色彩豊かな水中植物で彩られた池が広がっていた。
池は水こそ茶色いが、波一つない静かな水面に周りの景色が歪みなく映し出されている。どこまでも静寂な空気に、この場だけ時間が止まっているかのように錯覚してしまう。
緑のカーテンの先も、鬱蒼とするただの湿地が続いているとばかり思っていた。まさか、こんなに美しい場所だったなんて……。
沼地の苦い思い出が、一瞬にして塗り替えられる。ただただ、目の前に広がる幻想的な景色にため息が漏れた。
ここへ来た目的は水中ガーリックを探すことだ。しかし、無闇に動いて水面を揺らしては、折角の景色を崩してしまう。それがどうしても惜しく感じ、隣に立つジークと魅入られたように動けずにいた。
そんな時、とぽんっ……と何かが池に落ちる音が聞こえた。
突然、時間が動き出したかのように、一つの波紋が大きく広がり水面に映る景色がぐにゃりと揺れた。静寂を破ったそれに目を凝らす。すると、薄汚れた小さな頭がぴょこりと水面から顔を出した。
「もう、ペルーンったら……ふふっ、仕方がないんだから」
「ははっ、本当に聖獣たちはマイペースだな」
ぱちゃぱちゃと池で飛沫を上げて遊ぶペルーンと、大きな岩の上に寝そべり日向ぼっこをしているバルカン。こちらの感動なんて我関せず、と思い思いに過ごす彼らに、ジークと眉を下げ困ったように笑い合う。もう少し景色を楽しみたかったので残念な気もするが、ペルーンのお陰で目的の物を探すための良い踏ん切りがついた。
『お前たち、あまり奥には行くなよ』
くわり、と欠伸をしたバルカンが微睡むようにそう告げた。大きな聖獣が寝そべる岩場には一筋の光が差し込み、その赤く燃えるたてがみを美しく照らしている。
「教会の壁画に描かれそうなくらい神々しいな」
ジークの呟きにバルカンが耳をピクリと揺らした。髭がぴくぴくと動いている。あれは確実に聞こえるし、内心嬉しいのだろう。しかし……。
「――実際はただ日光浴をしているだけなのに……」
その後に続いた、ジークのつい漏れ出た心の声に、バルカンが閉じていた緋色の瞳をギロリと開いた。
『何か言ったか?』
「ゴホンッ! ええ、やっぱりバルカンは何をしていても絵になって素敵だわ。ねっ、ジーク!」
「あ、あぁ。うん! 横になっているだけで美しいから、王家お抱えの宮廷画家や気難しい宗教画家が、こぞってバルカンの絵を描きたがるだろうな」
『フンッ、まぁ我は誇り高き聖獣だからな』
「うふふ。それじゃあバルカン、私たちあまり奥には行かないように気をつけるから心配しないで。さぁさぁ、ジーク水中ガーリックを探しましょうか!」
なんとかバルカンの熱風が飛んできそうな空気を晴らして、急いでジークの背中を押して歩く。
「もしかして俺、余計なこと口に出してた?」
「えぇ、しっかりとね」
肩越しにちらりと視線を向けたジークに小声で返せば、「やってしまった」と額に手を当てた。バルカンを褒める言葉はすべて本心だが、ジークのつい漏れ出た心の声もよく分かる。バルカンもペルーンも目を見張るような美しさだけれど、日頃の姿を見ていると、たまに聖獣だということを忘れそうになることがあるのだ。
熱風の嵐が巻き上がらなくて良かった、とホッと息を吐いていると、池の周りを囲む様々な水中植物の中に、丸くて青い花を見つけた。観察してみると、小さな花弁が幾つも密集して一つの球状になっている。水中ガーリックの特徴と一致しているので間違いないだろう。
「多分これが水中ガーリックだわ」
茎を持って勢いよく引っ張れば、ずぼりと泥だらけの球根が現れた。水中ガーリックの球根は普通のガーリックと比べて小ぶりなはず。けれど、今しがた引っこ抜いたものは、この森の養分をたっぷりと蓄えてるのか、丸々としてとても立派だ。
「わぁ! 普通のガーリックと遜色ないくらいの大きさだわ」
「へぇ、花は意外と毒々しいんだな。こっちの黄色い花のほうが食べられそうなのに」
「それは毒があるから食べたら吐き気と腹痛で大変なことになるわよ。収穫しないように気をつけてね」
私の言葉に悲鳴根のトラウマを思い出したのか、びくりと肩を揺らしたジークが神妙に頷く。何だかその様子がいつもより少し幼く感じて、くすりと笑みが漏れた。
「クナァ~」
「あら、ペルーン。ふふっ、あなた泳ぐの上手ね。ねぇ、このお花が咲いてる場所、見かけなかった?」
「クナッ!」
目の前をぷかぷかと浮かんで泳ぐペルーンに声をかけると、元気よく返事をして泳いできたほうへ引き返す。きっと案内をしてくれているのだろう。短い手足を動かしてスイスイ泳ぐ姿が可愛らしい。
池の側を歩きながらついて行くと、少し先に青い花の群生が見えた。
「わぁ! これだけあれば十分ね!」
「持ってきた籠いっぱいに収穫できるな。ペルーン、でかした!」
「クナゥン!」
後ろを振り返ると、バルカンから見える位置にいるので大丈夫だろう。そう離れていない距離に安心して、ホクホク顔で青い花に手を伸ばすのだった。






