彼との決別
今朝の異臭騒ぎで、生まれて初めて両親のあたふたとする姿を見て、あの人達もあんな顔をするのだと愉快な気分になった。
いつもは人の目が気になり、俯き気味に歩く視線が、自然と真っ直ぐ前を向く。
頬を撫でる白い髪が視界に入っても、背筋を丸める事なく、ピンと胸を張り髪を耳にかけた。
視界の良くなった目には、普段より陽の光が眩しく感じる。見上げれば、何処までも青く澄んだ広い空に、白い雲がゆったりと流れていた。
青々とした木々達が、サワサワと風に揺れ、小鳥の囀りが聞こえてくる。
いつも見ていた景色が、今日は何故かキラキラと色濃く映った。まるで、白と黒の線だけだったキャンバスに、絵の具の色を乗せたくらい景色が違って見えるのだ。
この世界は、こんなにも綺麗だっただろうか?
目に映る美しい景色に、自然と口角が上がり、真っ白い頬に、ほんのりと赤みがさす。
擦れ違う学園の生徒達が、私を見てコソコソと話している。中には同情した目を向けてくるご令嬢もおり、どうやら、私がロズワーナ伯爵の元へ嫁ぐと言う話が、学園中に広まっている様だ。
きっと、耳の早いお喋り好きなご令嬢が、色んな所で話したのだろう。
今までは、俯いて人目につかない様に小さくなるのだが、今日の私は一味違うのだ。何せ、面の皮の厚い女なのだから、そんな事では、もうへこたれない。
それよりも今は、自分の靴の先ばかり見るのではなく、キラキラと輝くこの色鮮やかな景色を見ていたい。
「ごきげんよう」
口元を扇子で隠しても、隠し切れない歪んだ表情で嗤うご令嬢達に、ニコリと微笑み挨拶をした。
彼女達が目を丸くし、言葉を失っているその前を、サラリと白い髪を靡かせ足取り軽やかに通り過ぎた。
本当は、図書館に行って作戦を練るつもりだったが、室内にいるのはもったいなくて、いつものベンチで『下巻』を見る事にした。
鞄から本を取り出した所で、手元に木漏れ日が差しキラキラと光って見える事に気づく。まるで、ブックカバーをかけたこの大切な本が、魔法の鱗粉を纏っているようだ。
愛おしげに本を撫で、丁寧にページをめくる。一文字一文字大切に目で追っていくと、どうやら『下巻』は魔物の事について詳しく書いてあるようだ。
著者は冒険者なだけあって、かなりディープな内容で、『上巻』の知識を使いながら、ある森で魔物を狩り生活をした事が書かれていた。
どの森で体験した事なのかは記載されていないが、驚くべき事に、狩った魔物を食しているのだ。
一般的に魔物は、武器などの素材に使用される事はあっても、食用として用いられる事はまずない。
食べられる事自体知らなかったし、今まで読んできた本の中でそう言った話は目にしてこなかった。
武器を作るのは勿論の事、食用にできる魔物の狩り方から、解体の仕方。味や調理の様子まで挿絵入りで丁寧に記されている。
かなり見た目がグロテスクで、この著者はよく魔物を口にしようと思ったものだ。
魔物と対峙する様な恐ろしい事は、自分には出来そうもないので、『上巻』と比べれば、あまり自分には縁のなさそうな話だ。
それでも、なんとも興味深い内容に、夢中で読み進めている私に、聞き慣れた低く穏やかな声が上から降ってきた。
顔を上げると、ディラン様がすぐ近くに立っており、本に集中しすぎて全く気がつかなかった。驚き見上げる私に、ディラン様が口を開き何か言おうとしては目を彷徨わせ、中々次の言葉を発しない。
「ごきげんよう。何かご用ですか?」
はっきりと聞き返す私に、少し驚いた顔をした彼は、気まずげに視線を逸らした。
「……ご用が無いのでしたら、私は失礼致します。婚約者がいらっしゃるのに、無闇に異性と二人きりでお話するものではありませんわ。ディラン様もお気をつけください」
あの時は言えなかった言葉を、今は皮肉にも立場が変わって伝える事になった。ある意味、盛大な嫌味に変わったそれは、ディラン様にどう聞こえたのだろうか?
ハッと此方を見た彼が、キュッと手を握りしめている。
本を鞄に片付ける時、カチャリと指先にあるものが触れた。それは、骨董店で売ろうと思って鞄に入れていた、ディラン様からプレゼントされた髪飾りだ。
あの時、カウンターに宝石を並べながら、どうしてもコレだけは鞄から出す事が出来なかった。
彼への未練がそうさせたのかと考えだが、今ようやくわかった気がする。父が私を売る様に、私もディラン様との思い出を、売る様な事はしたくなかったのだ。
彼には結局、裏切られる形になったが、あの救われた優しい時間も、全てが嘘だったわけではない。
鞄に入れたままにしていたのは、こんな機会が訪れるのではないかと、どこかそう思っていたのかもしれない。
「これ、お返し致します」
ディラン様に髪飾りを差し出すと、驚いた様に目を見張り、眉を下げゆっくりと私の手に腕を伸ばした。
これで、ディラン様とも関わる事はもうないわ。
伸ばされる彼の手を、ぼんやり見ていると、その大きな手が髪飾りを持つ私の手を握ったのだ。
「ロズワーナ伯爵と結婚をすると言う話は本当なのか?」
まさか手を握られるなど想像もしていなかった。驚き手を引くが、真剣な表情で問いかけてくる彼の手が、それを良しとはしなかった。
「ディラン様、 離してください!」
「答えてくれメリッサ!」
握り込まれてビクともしない手に、沸々と怒りが湧いてきた。
「私が誰と結婚しようが、貴方には関係のない事です。手を離してください」
「だが、それでは君があまりにもっ」
「貴方がそれをおっしゃるのですか? 婚約を解消する事を望んだのはディラン様、貴方です」
「っ!」
「サラ様を愛しているのでしょう? こんな所を誰かに見られてはいけません。手を離してください」
彼の力が弱まり、そっと手を抜きベンチにコトリと髪飾りを置いた。
「私は貴方の事を、お慕いしておりました。貴方との婚約期間はとても穏やかで幸せでした」
「メリッサ……っ、すまない。すまなかったっ」
「もう、こうしてお話をする事はないでしょうね」
身勝手なディラン様に、最初は腹が立ったが、話しているうちに心が凪いできた。彼がいくら謝ったところで、私の嫁入りは免れない。
怒りや悲観に暮れるのはもう十分なのだ。
「ディラン様。今まで、ありがとうございました。さようなら」
最後に、とびきりの笑顔で彼に別れを告げた。
私は誰かに守ってもらうのではなく、自分自身で安息の地を見つけ、幸せになるのだ。