母オリヴィアの惨痛 三
予定よりも早い私一人の帰宅に、出迎えた執事は思い当たる節があるのか、何も聞かずに目を伏せた。
その反応に何も知らなかったのは自分だけだったのだと頭に血がのぼる。
寝る前だったのだろう。
白い寝間着姿のあの子が私の帰宅を聞きつけ嬉しそうに駆け寄ってきた。
私に抱きつき、にこにこと見上げてくる我が子に憎悪が湧き上がる。
腰に纏わりつくあの子を振り解こうとしたその時、玄関ホールにパシリと乾いた音が響いた。
側にいた執事の息を飲む声が聞こえ、ふらりとよろめいた小さな影を見下ろす。
すると、片頬を赤くした我が子が何をされたのか分からずきょとんとこちらを見上げていた。その大きな丸い瞳の中に、煩わしいと言わんばかりの醜く歪んだ自分の顔が映し出されている。
いつもお休みのキスを贈る柔らかな頬に、初めて手をあげたのだ。
我に返った時には既に遅く、みるみるうちに澄んだ灰色の瞳から大粒の涙が溢れだす。
行き場をなくした小さな手が、白い寝間着を握りしめ、声を上げて泣きじゃくった。
振り上げた手では、赤く腫れるまろい頬をさすることも、しゃくり上げる小さな身体を抱きしめてやることもできない。ただ彷徨うように宙をかき、あの子を唖然と見下ろした。
頬を叩くつもりなどなかったが、確実に憎しみを持ちあの子を振り払った。
理不尽な暴力を振るい何と声をかければ良いのか、震えるだけの唇は謝る事さえできず、泣きじゃくる我が子をそのままに自室へ駆け込んだ。
初めてあの子に憎しみを感じ手をあげた自分に驚愕する。そしてなにより、夫や他人に傷つけられた心の痛みが、あの子に怒りをぶつけた事でほんの少し和らいだ。それに戸惑い、まだ感触の残る手を唖然と見つめ、その場に立ち尽くしたのだった。
それからというもの、今までの様に優しい母親でいる事ができなくなった。
顔を見る度、憎しみを感じて冷たく当たりそうになる。そんな自分を嫌悪し、できるだけあの子を視界に入れぬよう遠ざけた。
私があの子に向ける態度の変化に、アーロンは全く疑問を持たず、それが当たり前だとさえ感じているようだった。
何故今まで気が付かなかったのだろう。彼があの子に向ける態度を見れば何も関心がないのは一目瞭然で、むしろ行動の端々にどこか自分の子ではないと言うような態度が見受けられる。
彼があの子に素っ気なく時には厳しい態度をとるのは、我が子に魔力がない事に戸惑い、どう接して良いのか分からないからだと都合良く考えていた。
けれどそれは、心のどこかでずっと感じていた事に気づくのが怖く、盲目的に彼の言葉を信じ必死に目を逸らしていたからなのだろう。
仕事で帰れないと微笑みながら嘘をつくアーロンの不誠実さに吐き気がし、前のように彼を気遣う労わりの言葉をかける気にもならない。
本当は少しでも追い出されないよう今までのように献身的な妻を演じなくてはならないのだが、どうしても何食わぬ顔で触れてこようとする彼の手を受け入れることができなかった。
私の冷めた態度にアーロンは眉を顰め何が不満なのかと問うてくる。
全て知っているのだと彼を責める言葉が喉元まで上がってくるが、離縁し実家に帰る事など許されないのを思い出し、ぐっと堪えて飲み込むのだ。
次第に表面上は良かった夫婦仲も悪くなり、いつ追い出されるか分からない張りぼての居場所を守るため、せめて伯爵夫人としての義務だけは果たさなくてはと、出たくもない社交の場に今までよりも多く顔を出した。
拠り所をなくし寝室に籠る事もできず、裏切り続ける夫や世間の冷たい視線と嘲りに傷つけられた心が膿んでいく。
その度、チラチラと視界の端に映る白い存在に憎悪が込み上げ、心の端に小さな罪悪感を抱きながらも溜まった膿をあの子へ吐き捨てた。
次第に毎年検査するあの子の魔力判定の結果も期待しなくなり、祈るように封を開けていたいつも同じ内容の通知書など目も通さなくなったのだ。
夫に裏切られ実家からは帰る場所はないと断たれたこの状況が怖くて仕方がない。
何もかも捨てて逃げ出したいが、結局は一人で生きていく覚悟も持てず、夫と言い争った後はふと我に返っては、捨てられやしないかと怯えるのだ。
跡継ぎは生んでいるものの、息子は他国へ留学することを希望し息苦しい屋敷から逃げるように去っていった。留学期間を終え帰国してもなお、屋敷には寄り付かず全く顔を見せない。
そんな息子をアーロンは跡継ぎとして領地の管理を学ばせることなく呼び寄せる気すらないようで、もしかすると愛人との間に子を作り、その子供に継がせる気なのではないだろうかと考えた。
そしてその度に、私は自分の存在価値を見出そうと必死になったのだ。
そんな時、あの子がマルバリー公爵家の子息と婚約を結んだ事により、やっと無色の子を産んだ自分に価値が生まれたと喜んだ。
マルバリー公爵家と言えば、前公爵、現公爵共に二代続いて王族と深いつながりがある。
もともと、前公爵の姉君が前国王の下へ側室として王室に上がっており、既にマルバリー公爵家は王族とかかわりがあった。
けれど、現国王の妹君であるエミリア王女と現公爵は大恋愛のすえ、周囲の反対を押し切り現公爵の下へ降嫁したのだ。
その時、王室と何らかの契約を結び婚姻が認められたらしい。
その契約というのは、現公爵の子となる次期公爵の配偶者は他の貴族とのバランスを保つため地位の低い人間を選ぶように取り決められたのではないかと、当時そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
けれど、中々契約の条件に当てはまる人間がいないのか、それとも噂はデマだったのか、ディラン様が学園にご入学されるまで婚約者の座は空席だった。
誰もが関心を持ち、あわよくば自分の娘をその座に着かせたいと願う者がいる中、魔力変動が起きやすい年齢をとうに過ぎても微量の魔力すら現れないあの子にお呼びがかかったのだ。
婚約の話を公爵家から頂いた時、魔力のないあの子が選ばれることなど、これっぽっちも考えておらず本当に驚いた。
だが、あの噂が本当ならば公爵家の婚姻相手として、爵位的には子爵や男爵家よりも伯爵家の方が少なからずつり合いがとれ、魔力のないあの子を嫁にすることで偏り過ぎる権力を削ぐには打って付けだ。
表向きは両家の領地で採れる特産物の流通など互いに都合が良いだとかそういった理由らしいが、そんなことで公爵家が無色の人間を嫁にするとは素直に思えない。
けれど、公爵家は王家と結んだ契約内容について、こちらに知らせる気はないようで結局明かされる事はなかった。
藪をつつき公爵家の気が変わっては困るので、アーロンは厄介者だった娘が初めて役に立ったと二つ返事で婚約の話を受けたのだ。
マルバリー公爵家とバトレイ伯爵家の婚約話が世に出回った頃、あの子を連れ夜会に参加した。
その夜会で悔し紛れにあの噂話を持ちだす令嬢がいるかと思いきや、無色で相応しくない納得いかぬと言うような会話が耳に入っただけだった。
公爵やエミリア様自身あまり契約について触れられたくないようで、あの噂を大っぴらに口に出すものは今までおらず、あの頃を知らない世代には契約の噂話を広めないという暗黙の了解がある。
エミリア様達からすれば、自分達のつけを息子に払わせるのだから、契約の内容なんて知られたくないのだろう。
噂話が大好きなハイエナ達は、意外にも自分の子供達に話してないのか、若い世代には全く浸透していないようだった。もしかすると中には契約の噂について公の場でしないようきつく口留めをしている可能性もあるのだが……。
流石にハイエナ達も王族の親類にあたる公爵家の心証は悪くしたくないようだ。
それよりも、僅かな希望に縋り娘の婚約者を決めていなかった者達は、少しでも娘に良い婚約相手を探すのに忙しそうにしている。無色の人間よりも自分こそがディラン様の婚約者にふさわしいと豪語する夢見がちな令嬢達は、そんな親達によって婚約者のいない殿方の下へ挨拶をしに連れまわされているのだ。
いつもは戦場と化す煌びやかな会場内を足取り軽く優雅に歩く。手のひらを返したようにすり寄ってくる者達をさらりと躱して燦々と輝くシャンデリアの光を浴びながら目当ての人を探した。
アーロン不在の夜会だが、参加者リストには彼の愛人であるアシュリーの名があったはずだ。
けれど、いつもは目立つはずの夜の花は見当たらず、ぐるりと会場内を見渡せば扉の側で真っ赤な唇を歪めこちらを睨みつけているのが目に入った。
軽く会釈をして微笑むと、彼女は悔しそうに会場から背を向け去ってゆく。その姿に、胸のすく思いだった。
もし公爵家が仕方なく無色の娘を婚約者として選んでいたとしても、王族の血を引く家との懸け橋になるあの子を産んだ私を、アーロンはそう易々と伯爵家から追い出す事なんてできないだろう。
あの子を産んで初めての安息を手に入れたのだ。
次回でメリッサの母親視点は終わり、森でのほのぼの話になる予定です。
ディランの母親が公爵家に降嫁するために交わした契約はまだ先になりますが、必ず明かされるのでその時までお待ちいただけると幸いです。
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