母オリヴィアの惨痛 二
ある日、執事が遠慮がちに手渡した夜会の参加者リストを見て眉を顰めた。
そこに名を連ねる者達が参加する夜会は、できるだけ避けている。だが度々、夫自ら手渡してくる夜会の招待状は断れないものが多く毎度頭を悩ませるのだ。
彼曰く今回の夜会も断る事ができず、夫婦揃って参加せねばならないらしい。
主催するホストの名を聞いた時、既に嫌な予感はしていた。急いで参加者リストを取り寄せたが、やはりその予感は今回も的中していたのだ。
ドレスも装飾品も主催者の顔色を窺い見劣りせぬ様、少しでもハイエナ達に揚げ足を取られる事がない様に考えなくてはならない。着飾る事で私の心を守るための鎧になるのだから。
気が進まず、痛む胃を押さえながら参加した夜会で、挨拶をしてくると私の側を離れたきり帰ってこない夫を探し回っている時だった。
彼と仲の良い紳士達の輪を見つけ、夫の姿がないか近寄った際、聞こえてきた会話の内容に足が震えた。
「それにしても、あいつは本当についてないな」
「ああ、色男でより取り見取りの中から選んだ女が、まさかあんな嫁だったとは。あいつにしては、擦れていない女を選んだと思ったのに」
「娘も嫁もあんなのじゃあ苦労するよ。まぁ、世間では恥知らずな嫁を離縁しなかった心の広い男だと株は上がったがな」
「そう言えば、さっきまで一緒に飲んでいたのに、あいつ何処いったんだ?」
「バルコニーに消えて行ったぞ。花の香りに誘われて夜風を楽しんでいる最中だ」
「ははっ、またか! 毎度の事ながら、嫁を放置して花と月見とは隅に置けないやつだな」
「まぁ、今回の夜会も花に強請られて参加したようなものだしな」
「それにしても、自分との逢引きに態々嫁を連れてこさせる花も何を考えているのやら」
「美しい花には棘があるって言うじゃないか」
「気の毒だが、今頃あいつの嫁は針の筵だろうな」
「女って怖いよな~」
ワイングラスを傾けて下賤に笑う男達の会話に嫌な汗が噴き出た。これ以上聞きたくないと脳が拒絶し、警告音の様に耳鳴りがする。
自分の事ではない、夫の事ではないと言い聞かせ、地面に縫い付けられた様に動かない足を、無理やり引き剥がし彼らの側を離れた。
すれ違いざま、大げさに眉を顰める紳士や、厭らしい視線を隠さず私を値踏みする紳士。扇子で口元を隠しクスクスと嗤う婦人や、あからさまな嫌味をぶつけてくる婦人達の間を通り抜ける。
夜会に参加する時は、比較的態度に出さない紳士淑女の集まる夜会をできるだけ選ぶ様にしてきた。
中には、私を視界に入れない様に離れる人もいるが、今回の様な下世話な話で盛り上がる輩ではなく、腹の底で何を思っていようが、当たり障りのない挨拶をする人達の集まりの方が精神衛生上格段に良いのだ。
産後初めて参加した夜会で手酷く学び、今ではこうして自分なりに身を守っている。
だが今回は、夫に急遽どうしてもと連れてこられたのだ。
先程の話と繋がる要素を人とすれ違う度に感じてしまい、疑念を持った重い足がバルコニーの方へと進んでゆく。
どくどくと耳の奥で鳴る鼓動が大きく聞こえ、楽団の奏でる音楽や思い思いに会話を楽しむ人々の喧噪さえもかき消していった。
躊躇する冷えた指先を握りしめ、そっとバルコニーを覗く。緊張しながら視線を走らせると、そこには誰もおらず、無意識に詰めていた息を吐いた。
きっと、さっきの話は夫と何の関係もない。早く彼を探してこんな夜会はお暇しようと、バルコニーを見ていた視線を再び会場にむける。
けれど、あの煌めくシャンデリアの下には、自分にとって悪意に満ちた混沌が待ち受けていると思うと、逸らす様に視線を彷徨わせた。
再びあの戦場に戻るには心の準備が必要だ。その前に少しだけ、夜風に当たって英気を養おうとバルコニーに出た。
今夜は折角の満月のはずなのに、空は雲に覆われている。星は疎か、月の明かりさえ雲にぼんやりと遮られ辺りは暗い。
だが、息苦しく無遠慮で悪意に満ちた視線が突き刺さる会場とは違い、雲の隙間から遠慮がちに覗く月の姿がいじらしく感じ癒された。
少し肌寒い夜風がそよぎ心地良い。その清浄な風のお陰で、まるでこの身に浴びた悪意が浄化されて行く様だ。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むと、強張っていた頬が解れ、唇の端が自然と上がる。
もう少しだけここに留まりたいが、あまり長居をすると勘違いをした不埒な輩が夜の誘いにやって来るかもしれない。
残念に思いながらも、会場に引き返そうとしたその時、奥の暗がりから女のくすくすと小さく笑う声が聞こえた。
息を詰めよくよく目を凝らすと、会場から死角になった暗がりに、男女が仲睦まじげに寄り添う影が見える。
どうやら、月の明かりが届かないせいでバルコニーに出てからも人影を見逃していたらしい。
その影はこちらに気づいていないのか、身体を密着させとても親密そうに会話を楽しんでいる。時折漏れ聞こえる聞き覚えのある男の声に咄嗟に身を隠した。
疑念が確信を持ち、それでも信じたいと思う気持ちがせめぎ合っている。そんな中、流れる雲の切れ間から、月が顔を出してその暗がりを照らした。
驚愕し大きく見開かれた私の瞳に、月明かりに照らされ、女の細い腰を抱きながら、その耳元で何かを囁いている夫の姿が映し出されたのだ。
血の戻りかけた指先が、急激に冷え込んでゆく。
くすくすと楽しそうに笑うその相手は、若くして未亡人になった、夜の花と呼ばれる有名な人物だ。
肉感的で形の良い真っ赤な唇が魅惑的な彼女は、これまで私と何の接点もなかったはずなのに、他の人達よりも攻撃的な態度を示してくる。その原因が漸く分かった。
二人の世界に夢中なのか、少しずつ潜められていた声が大きくなって行く。その会話は、夫が私を蔑みながらも彼女に囁く愛の言葉だった。
その聞くに耐えない蔑みの言葉を夫が吐く度、彼女の恍惚とした表情が、雲の切れ間から時折漏れる月明かりに照らされた。
「ふふふっ、今頃彼女は一人で耐えているのかしら?」
「あんな恥知らずな女なんて、今はどうでもいいさ」
「あら、奥さんに冷たいのね。ふふ、ねぇ? それならどうして彼女と離縁しないの?」
「今離縁すると親族から次の嫁候補を押し付けられて面倒だからね。君は亡くなった旦那の領地を幼い跡継ぎの代わりに領主として代行しているだろう?」
「そうね、あの色ボケ老人の忘れ形見の顔なんて見たくないけど、そのお陰であの人がたんまり隠していた遺産を自由に使えるわ。老いぼれに嫁いだ見返りはきっちり楽しませてもらわないとね」
「ははは、その調子だと忘れ形見が成人した頃には遺産が底を付きそうだな」
「ふふっ、老いぼれに嫁いだ特権よ! 口煩い使用人は追い出してやったし、領地の管理は執事に任せているから、あの人の隠してた遺産がなくても、潰れない程度には上手い事するでしょう。けれど、貴方の側に彼女がいるなんて嫌だわ」
「俺が愛しているのは君だけだよアシュリー。それに、あの女の実家から言ってもいないのに、たんまりと金を積まれたから、それ分は屋敷に置いてやる事にしたんだ。まだ利用価値はあるだろう?」
「あら、じゃあこの首飾りはその一部かしら?」
「ははっ、どうだろうね?」
「もうっ、アーロンったら! まぁ、いいわ。お金で解決した割に、彼女相変わらず貴方に引っ付いているのね。図々しい女だわ」
「俺が金を受け取った事を知らないんだ。彼女の両親にはきっちり口止めをしておいたからね。また寝室に篭られては困る」
「彼女の様子を見る限り、優しい言葉をかけてあげたのでしょう? 嘘でも妬けるわ」
「まぁ、そう言わないでくれ。屋敷に置いておくからには、伯爵家の妻としての義務は果たしてもらわないと。それに君と過ごす夜も、仕事で帰らないと言えば疑いもしないんだから」
「ふふ、馬鹿な女ね。じゃあ、私が領主代行に飽きたら、彼女と離縁して必ず私をお嫁さんにしてくれる?」
「勿論さ! あの女と離縁して必ず君を俺のお嫁さんにするよ。それまで、他の男に目移りせずにいてくれよ?」
「うふふっ、私は貴方だけよアーロン! 今は結婚指輪の代わりにこれで我慢してあげる」
アシュリーが首元で輝くアーロンの瞳に良く似た色の首飾りを嬉しそうに撫でる。そんな彼女を愛おし気に見つめたアーロンが、彼女の真っ赤な唇を奪った。
その重なり合う影に眩暈がする。聞こえてきた会話の内容に頭が追い付かず、ふらりとバルコニーを後にした。
顔色の悪い私を気にかける人間など誰一人いない。体調がすぐれず先に帰ると言付けを託し、馬車に飛び込むと、御者に気づかれないよう声を押し殺して泣いた。
今までぎりぎりの所で耐えていた薄氷の様な心が、無残にも一瞬にして打ち砕かれたのだ。ガタガタと鳴り響く馬車の音と共に、砕けた薄氷が崩れ去ってゆく。
謂れのない理不尽な中傷に怒り悲しみ傷ついて、それでも家族のために耐えてきた。それなのに、一番に信じていた人にまで裏切られていたのだ。
あの時救われた彼の言葉は全て嘘だった。張りぼての愛情を信じ、今まで悪意に満ちた世間と闘っていたのだ。
彼の目には私がさぞかし滑稽に映った事だろう。無残に傷つけられた心から、血が噴き出しとめどなく流れて行く。






