夜中の厨房
屋敷の人間が寝静まった頃、そっとベッドから降り、窓から差し込む月明かりを頼りに、厨房へ向かう。
肩には水の入った革の水筒をさげ、手にはハンカチで包んだナイフと火打ち石を握り締めて、音を立てない様に忍び足で進む。
時折、窓の外からホーホーと梟の鳴き声が聞こえ、びくりと肩を揺らした。満月のお陰で、窓に面した廊下は薄暗くランプがなくても、なんとか目的地へ辿り着けそうだ。
暗闇になれた目で、そっと厨房を覗くと人の気配はなく、ホッとしながら足を踏み入れた。
キョロキョロと見えにくい厨房の中を歩き回り、小さな鍋と戸棚を漁ってビネガーを探す。
棚の中には、沢山の瓶が並んでおり、暗くてラベルがよく見えない。音を立てない様にそっと、一本ずつ取り出し、窓際で月の明かりに照らしながらラベルを確認した。
あった!これだわ!
5本目でやっとビネガーを見つけ、コルクの蓋を外す。
コルクがキュポンッと、想像以上に大きな高い音を響かせ驚き固まる。静かなシンとした厨房の中、小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
瓶の口に鼻を近づけ、確認する様に匂いを嗅ぐと、ツンとしたビネガーの酸味のある香りが鼻を刺激する。
ビネガーそのものって結構、香りがきついのね。
これがいつもの美味しい食事になるなんて、料理人ってやっぱり凄いわ。
これから、一人で生きていくのだし、お料理も自分で用意しないといけないのよね……。
料理本で知識だけは豊富だが、やはり実践となると大変そうだと、改めて実感する。
ナイフを入れた鍋に、トクトクとビネガーを注ぐと瓶をしっかり締めた。
ビネガーが少し減った事がバレませんようにと願いながら、そっと棚に戻す。
さぁ、火打ち石の出番よ!
手をすり合わせ、ドキドキしながら火打ち石を手に取り、コンロの前に立つ。
カッ!
恐る恐る一回、火打ち石を叩き合わせると、小さな小さな光の粒が現れ、一瞬で消えた。
い、いま火花が見えたわ!
魔法の使えない自分の手から、初めて火を出す事ができて感動する。
もう一度と、今度は少し強めにカッカッと叩き合わせると、先程より大きな火花が散り、コンロにボッと火が着いた。
や、やったわ!
火がついたっ!
嬉しさのあまり、大きな声を上げて飛び跳ねそうになり慌てて口を塞ぐと、そろりと廊下を見た。人の気配がない静かな様子に、ホッと息をつく。
すぐに鍋をコンロに置いて、火の灯りで周りが見えやすく鍋の中をワクワクと覗き込んだ。
薄い琥珀色の液体に、小さな気泡が鍋底から浮かんでくる。段々と大きくなる気泡がグツグツと音を立て、ナイフから錆びがポロリと剥がれ落ちてきた。
コンロの火力調整のダイヤルを回して、弱火で少し様子を見るが、いかんせんビネガーのツンとした匂いで、咳き込みそうになる。
錆びの臭いと相まって、なんとも形容し難い臭いが厨房に広がった。
く、臭い!
これ、大丈夫かしら……。
この異臭に、屋敷の人間が起きてきたらどうしようと冷や冷やする。
まだかまだかと、焦りながら鍋の中を覗き込むと、薄い琥珀色から、赤みの強い飴色に染まってきた。
我慢できず、そろそろ良いかと鍋を火から下ろすと、シンクに湯気の立つビネガーを捨てる。ブワリと上がる、酸味のある蒸気が顔にかかり顔をしかめた。
蛇口に手をかざしても、水を出す事ができないので、持ってきた革の水筒を開けて鍋に水を注いだ。
意外と容量がある水筒のお陰で、少しずつ何度も水をかえて鍋とナイフを洗う事ができた。
ただ、洗い終わってから、態々水筒でちまちま洗わずとも、水道は魔石を蛇口にかざせば良かった事を後から思い出した。
どこか抜けている自分に呆れながら、掛けてあるタオルで水気を取って鍋を元の場所に直す。
錆びの取れたナイフの水気をしっかり拭き取り、ハンカチに包むと、革の水筒と火打ち石を手に取る。
最後に、コンロの火がちゃんと消えているか、ビネガーやタオルなど使った物は元の場所に戻したか確認して頷いた。
そっと廊下に人がいないか確認して、そろりそろりと足を忍ばせ部屋へ戻る。その途中、ツンとした臭いが廊下まで漂っていて、換気をすれば良かったと後悔しながら、足を動かした。
そっと、自室の扉を開き中に滑り込むと、音が鳴らない様にゆっくり扉を閉めた。
知らずしらずのうちに、息を止めていたのか、扉を閉めた瞬間息を大きく吐いた。
イタズラが大成功したような、心の底から嬉しさが込み上げてくる。
綺麗になったナイフと火打ち石を眺め、クローゼットに隠したトランクケースに、革の水筒と共に仕舞い込むと、ベッドにボスっと身体を沈めた。
「くふふふっ」
足をパタパタとバタつかせ、興奮して赤くなる頬と、自然に上がる口角から漏れ出る笑い声を、枕に顔を押し付けて塞いだ。
翌朝、目覚めると屋敷が異臭騒ぎで、侍女達が慌てふためいていた。
廊下に出ると、ほんのりとツンとした臭いが鼻を刺激し、昨夜の事がバレるのではないかと心配した。
だが、屋敷中に広がる謎の異臭に、いつも冷たい表情の両親でさえ、鼻を抑えて慌てている。
その様子に、ヒクヒクと笑いそうになる口の端を、鼻を抑える振りをしながら隠した。