ジークの回想 魔法の師匠
ドライヴァ帝国の第二皇子として生を受けた俺は、物心がついた頃から名目上、病弱のため静養と言う形で城で過ごさず師匠のもとで暮らしていた。
俺が覚えている限り、床に伏せたことなど師匠が行う魔法のスパルタ授業で魔力切れを起こすか、水魔法でずぶ濡れになった時くらいだ。あれは流石に病弱じゃなくても誰でも倒れる。
ちなみに、師匠はドライヴァ帝国随一の魔法の使い手で魔法省の最高責任者だ。皺くちゃの細い目が常に笑っているように見え、どこか飄々とした出で立ちの掴みどころがない人物だ。
師匠はとても変わり者で、領地にある屋敷とはまた別の人里離れた場所に屋敷と呼ぶには小さすぎる家を構え、そこで暮らしている。
周りに木しか生えていないような場所に、貴族が住むにはあまりにも簡素な家がぽつんと建っており、必要な物は魔法陣を介して運び込まれるようになっている為、その家に訪れる客人はいつも決まったものしか訪ねてこない。
盗賊でさえ態々訪れようとしない場所だが、警備体制は師匠の結界が張り巡らされているお陰でどんな要塞よりも厳重だった。
かく言う俺も、成人を迎え城に呼び戻されるまではそこで過ごしており、今でも師匠に呼び出されては仕事を押し付けられる毎日だ。
執務室の窓を伝達魔法で作られた一羽の鳥が嘴でノックする。内容を確認しなくても分かるほど決まって師匠からの呼び出しなので、人使いの荒い老人に溜息を吐きながら席から立ちあがるのは日課のようなものだ。
一度、気づかないふりをしたら、キツツキのように窓ガラスをしつこく連打し粉々に破壊された挙句、遅い反抗期が来たと拡声器のように大きな鳴き声で城中を飛び回られた。
そのせいで、数ヶ月は城の中を歩くたび生暖かい目を向けられる羽目になったのだ。結果的に執務室に引き篭もり師匠が押し付ける仕事を必然的にこなす事になった。
あれ以降は呼び出しが来ると素直に師匠の家へと繋がる魔法陣に向かう事にしている。
師匠の家へ行くと、決まって呑気にテラスに置かれたお気に入りのロッキングチェアに腰を下ろしゆらゆらと揺らしている。どこからともなく現れる丸々と肥えた憎たらしい顔つきの猫を膝に乗せ、共に日向ぼっこをしているのだ。
お茶をすすってはうたた寝をして、仕事は俺や師匠の部下に放り投げ、ほぼ隠居のような生活を送っている。
そろそろ師匠の部下へと魔法省の仕事は代替わりしても良さそうなのだが、何故か未だにそう言った話が出てきていない様だ。
一度、師匠の部下へそろそろ代替わりがあるのではと尋ねた際には、顔色悪く首が千切れそうなほど横に振って否定された。彼はいつも懐に胃薬を入れており、事あるごとに胃の辺りを擦っている。
そんな一癖も二癖もある、見た目だけは優しそうな爺さんだが、魔法省の最高責任者なだけあって魔法教育に関してかなり厳しい。
幼い頃は魔法の使い方が極端に下手だった俺に、あの細い目を開き地獄の特訓を行った。
後から知った話だが、師匠の細い目が開かれる瞬間を見てしまうと、大の大人でも失禁してしまうほど恐怖を覚えるのだとか。
師匠の部下がたまたま居合わせた時は真っ蒼になって失神しそうになっていた。
特に、師匠の虫の居所が悪い時の訓練は最悪で、いつもの3割増で厳しい。その虫の居所と言うのも、お茶の時間に出されたスコーンに添える、好物のレモンカードがなくイチゴジャムだっただけで、午後からの特訓に左右されるのだ。
昔から甘いものにはうるさい師匠だが、レモンカードには並々ならぬ思いがあるようで兎に角うるさい。
たまにうっかりしている従者のマシューに勘弁してくれと頭を抱えたくなるが、一度その虫の居所が悪い師匠の下へ運悪く宰相が訪ねてきた事があった。
まだ特訓中じゃなければ良かったのだが、俺を扱きに扱きあげている時に限ってきてしまう間の悪い宰相に、師匠が鋭い視線をむけた。
その視線を向けられた瞬間、宰相のもとより薄かった頭髪がはらりと数十本、抜け落ちるのを目撃したのを今でも忘れられない。
あの頃の俺は、師匠くらいの魔法の使い手になれば人を一瞥しただけで髪を引き抜くことができるのかと驚いた。
宰相が残していった水色の抜け毛をじっと見つめ、人の髪を引き抜くなど習得しても仕方のない技の呪文がどんな法則なのか真剣に考え夜を明かした事がある。
宰相の髪は間違いなくストレスで抜け落ちたのだが、あの時は本気で何か特殊な呪文を使ったのだと思っていた。今考えると幼いながら相当なアホだ。
ちなみに今の宰相の頭には、何とか数本だけ持ちこたえているがそれも時間の問題だろう。彼や師匠の部下には苦労をかけてばかりなので、何か頭皮に良いものと胃にやさしいものを贈りたい。
しかし、一瞥されただけでダメージを受けるなんて甘いものだ。俺とマシューなんて子供の頃、激怒した師匠が土魔法で作った巨大な岩に追い掛け回されたことがある。
背後からごろごろと転がりながら迫りくる丸い大岩に半泣き状態のマシューと逃げ回った。
今思えば、どいつもこいつも食い意地のはった恥ずかしい話だが、師匠がこっそり夜中一人で食べている木箱に入ったチョコレートをマシューと一緒に盗み食いをしたのだ。
こそこそと、厳重に隠された木箱を開けると、そこには艶やかな美しい茶色い粒が並んでいた。そっと口に入れ、舌の上で転がすと体温でとろりと溶けて儚く消えて行く。
本当にほっぺたが落っこちそうだと目を見開き、美味しさのあまりマシューとお互いの頬を押さえあった。口いっぱいに広がる極上の甘みと濃厚な香りに、ばれない様に一粒だけとお互いに決めていたはずなのに、もう一粒と木箱に手が伸びてしまう。
結局、マシューと共に口の周りをべっとり茶色く汚している所を運悪く師匠に見つかってしまった。
背後からゾクリとする冷気が漂い、ゆっくりと後ろを振り返れば、すごい形相の師匠が静かに佇んでいたのだ。
無言でスッと天に指を上げた師匠を見た瞬間、腰を抜かしたマシューを抱え外に駆け出した俺は、今までにないほどの駿足だったに違いない。






