亭主の優しさ
屋敷に戻ると、出迎えた侍女が鞄を受け取ろうと手を差し出してくる。
パンパンな鞄に、怪訝な顔をした彼女を見て肝が冷えた。
「面白そうな図鑑を見つけたの。すぐに見たいから、自分で部屋に持っていくわ。気が散るからお茶も今は要りません。呼ぶまで入らないでちょうだい」
先程、他のご令嬢の真似をした様に、今度はもっと言葉を崩しながら少し突き放す様に言ってみる。
「聞いてるの?」
不審げに眉を寄せ返事をしない侍女に、良く言えば堂々とした貴族のご令嬢らしい、悪く言えば使用人を顎で使う傲慢な振る舞いに加え、母親を真似た冷たい視線で侍女を見返した。
「は、はい! 畏まりました」
いつもは使用人にまで丁寧な言葉を使っており、それが益々、侍女達をつけ上がらせていたのだが、多少失礼な態度をとっても怒らない私が、機嫌を損ねた様な顔を初めて見せた事に、侍女は慌てて頭を下げた。
少し離れた所で、御者が本屋に立ち寄ったと執事に報告をしているのが、また真実味をまし、侍女は私が本当に分厚い図鑑を買ったと信じたのだ。
ツンとすました顔をして、部屋に入った途端、大きく息を吐き、扉に背を預けながらずるずると座り込んだ。
上手くできていたかしら……。
初めて人にあんな冷たい態度を取ったわ。
輿入れまで怪しまれない様に、普段通りの態度の方が良いと思うのだけど、それだと鞄に触れられそうで、つい焦ってしまったわ。
新調された鏡台に顔を映し、先程はどんな顔だったのかと、傲慢なご令嬢達の様にツンと顎をあげ、良く自分に向けられる母親の冷たい視線を真似て鏡の中の自分を見つめた。
いつもは、おどおどとして自信がなく、白い髪と薄い灰色の瞳が何ともぼんやりと霞むような印象だが、今鏡に映るのは、同じ色をしているのに、とても傲慢で冷たい印象になっており、驚いてぺたりと頬に触れた。
鏡に映る、冷たく眇めていた瞳が、驚きで真ん丸に変わる。冷たい表情から、いつもの霞みそうな印象とも違う、少しの自信とワクワクが入り混じった様な、高揚した顔がそこにあった。
自分にされて嫌な事を、他人にしてしまい胸は痛むが、学園のご令嬢や母親の真似をするだけで、こんなにも人の印象は変わるのかと驚いた。
それと共に、人の真似などせず、ちゃんと自分なりに胸を張って堂々としていれば、魅力的な人間に私だって、なれるのではないかと手を握り、既にその第一歩を踏み出していたと鞄に視線を落とした。
自分の中に芽生えた小さな自信に、じわじわと笑みが深くなり、嬉しさが溢れ出しそうだ。
念のため、誰も入ってこれない様に、扉のノブに椅子を引っ掛け簡単に開かない様にした。
一つ一つ丁寧に鞄から出して、ハンカチでくすみを取る様に磨いていく。革の水筒に用意された水差しの中身を移して、穴が開いていないか確認した。
埃をかぶっていた割に、箱の中の状態は良かった様で、道具には破損もなく綺麗だった。
手のひらサイズの、刃が剥き出しの小さなナイフは錆がついているが、柄に魔石の埋め込まれた大きなナイフは、磨きたての様な輝きがあり、革製のナイフホルダーが付いている。
そのホルダーには、腰に下げられる様にストラップもついていて、どうやら大きな革のシートと同じ素材で作られている様だ。
早速、腰の横に取り付け、右手で直ぐにナイフが抜ける様に、ストラップの長さを調節した。ズシリと重量があるが、その重みがどこか安心感を与えてくれる。
他にも、用途が分からない物もあるが、鏃の様な先が尖った物や、大きな釣り針の様な物もあり、それらは霞んでいるだけで、錆は見当たらなかった。
取り敢えず小さなナイフの錆び取りがしたいが、生憎そんな物は私の部屋にはない。
どうしたものかと頭を悩ませ、前に学園で読んだ、『主婦の知恵』と言う本に、包丁の錆び取りの方法が載っていたことを思い出す。
確か、ビネガーに漬けて温めると錆が取れるって書いてあったわ!
うーん……でも、ビネガーは厨房だし温めるにしても、魔法が使えないからコンロに火を起こせないわね……。
屋敷の厨房のコンロや水道は、手をかざして魔力を送り込むと、自動的に可動する仕組みになっており、もし故障しても、魔石を直接コンロの中に放り込めば、火種の代わりになって火がつく旧式の仕組みも兼ね備えている。
だが、魔力を使いきり効力を無くした魔石は、ただの石になってしまい、コンロの中に残るのだ。そうなれば、一人では簡単に取り出せない。
うちの屋敷で雇っている使用人は、身分が例え低い者でも、魔力が一定以上ある者しか雇っていない。
なので、この屋敷で魔石を使う者は私以外、滅多にいないし、得意とする魔法に合った持ち場で働いている為、厨房で魔石を使う者は皆無だ。
魔石は使えないしと、錆びたナイフをいじいじと触っていると、火打ち石が目に入る。
そうよ!
火打ち石で魔石の代わりに、火種を作れば良いじゃない!
火種さえ上手く出せれば、コンロに火を起こせるわ。
本に書いてある様に、石で木片に刺さった金具を叩けば、ちゃんと火花が散るのか、練習もできて一石二鳥だわ!
夜、屋敷の人間が寝静まった頃、こっそり厨房に忍び込もうと決め、錆びついたナイフはハンカチに包んで机の引き出しに隠し、それ以外の道具はトランクケースにしまった。
結局お店では、道具と本の事で舞い上がってしまい、換金したお金を確認していなかったので、革の袋に入れられたお金を出して見る事にした。
中には、紙幣とコインの他に、白い紙に包まれた物が入っていた。
なにかしら?
包みを開けると、そこには骨董店の亭主の瞳の色にそっくりな、赤い石に紐が通してあるだけのシンプルなネックレスが包まれていた。
これ確か、ご亭主が首からさげていた物ではないかしら?
驚いていると、ネックレスを包んでいた紙に、何か走り書きされた様な文字に気づき、紙のシワを伸ばした。
『可愛い白兎さん、気やすめじゃが、御守りに。あんたにとっての、安息の地へ辿り着ける様、旅の幸運を祈っとるよ』
紙に書かれた、亭主の優しいメッセージに涙が浮かぶ。彼は、私が自ら貴族の役目を放棄する事に気づいていたのだ。
それなのに、何も言わず送り出し、尚且つ大切な御守りを私にくれた彼の心遣いに感謝した。
「っ……ありがとうございますっ」
赤い綺麗な石を両手で包み込むと、じんわりと手のひらが温かくなった気がした。
久しぶりに、人の優しさと温かさに触れ、涙がポロポロと零れだす。ぐずぐずと鼻を鳴らし、首にネックレスをかけて見つからない様に服の下に隠した。