迫りくる恐怖と走馬灯
血の表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
葉の隙間から見える光景に、ざっと血の気が引き震える手で口元を塞ぐ。奥歯がガタガタと鳴る音さえ聞こえてしまいそうで、必死に歯を食いしばった。
限界まで見開いたその瞳に映るのは、金色の小さな体ではなく、ずんぐりとした巨体が地面に顔を伏せ何かを貪る姿だった。
その大きな体の表面には、鉱石が鎧の様にごつごつと覆われており、豚に似た大きな鼻の穴からは、呼吸を繰り返すたびに白い蒸気が上がっている。
あれは昨日、『下巻』で見た鉱石猪にそっくりだ。目が合えば最後、丈夫な蹄で地面を蹴り上げ凄い速さで突進してくる。
毛皮の上を分厚く覆う鉱石の鎧は、鋭い刃物さえ折ってしまうほど頑丈なのだ。唯一、喉元にだけ鉱石の鎧が覆われておらず、柔らかな毛が露出している。
鉱石猪の息の根を止めるには、その一点を目掛け攻撃する必要があるのだが、凄い速さで突進してくる巨体に、まともに当たれば無事では済まされない。
一番安全に鉱石猪を狩る方法は、罠を仕掛け動けなくしてから喉を突くそうだ。もし、突然遭遇してしまった場合は、気づかれる前に身を潜め去るのをやり過ごす。
最悪気づかれた場合、鉱石猪は真っ直ぐ突進してくるので、すぐ横に逸れるように逃げれば助かると書いてあった。
冷えた頭で昨夜読んだ『下巻』の内容を思い出し、恐怖で震える脚に、力を入れようとしたその時、もぞもぞと地面に顔を伏せていた鉱石猪が顔を上げた。
こちらの気配に気づかれたのかと、こめかみに汗が流れ緊張が走る。
心臓が痛いほど脈打ち、鉱石猪に聞こえてしまいそうで御守りの魔石ごと胸を押さえた。
鉱石猪は此方に気づく事なく、何かを咀嚼し飲み込むために上を向いた様で、剥き出しの喉元が動くのを目にしてホッと息を吐く。
だがよく見てみると、鉱石猪の鋭い牙から真っ赤な血が滴り落ちている。巨体に隠れて見えなかったが、地面に血溜まりを作っているのだ。
ぎくりと恐ろしい考えが頭をよぎり、カラカラになった口から小さな悲鳴が漏れそうになった。口を塞ぐ手に力を入れて、瞬きも忘れ血溜まりの中を見つめる。
そんな事は絶対に有り得ないと言い聞かせるが、もしあの血が愛しい金色の体から流れたものだったらと、最悪の考えが浮かび涙が滲んだ。
ぼやける視界に、真っ赤に染まった長い二本の耳がちらりと見えて、震える息を小さく吐いてギュッと目を閉じた。
どうやらあの血溜まりの正体は、口裂け兎だったようだ。鉱石猪は雑食で毒の入った悲鳴根でさえ食べてしまうらしい。
それと鉱石猪は番で行動するらしいのだが、先程から視線を走らせても、もう一匹が見当たらず近くにいるのか、それとも別の場所にいるのか不安に思った。
気づかれる前に逃げなくちゃ……。
息を詰めゆっくりと片足を下げた瞬間、パキリと小枝を踏んでしまった。足元で鳴った乾いた音に、肩を強張らせる。
葉の隙間に視線を向けると、数メートル先に居るぞっとするほど鋭い瞳と目が合った。
「ひっ!」
大きな体が向きを変え、鋭い蹄が血溜まりをバシャンと散らす。鉱石猪が助走をつける様に、前脚で数回地面をかいた。
ガクガクと震える脚を叱咤し、後ろを振り返って一目散に走り出す。そんな私を見て、耳障りな鳴き声を上げた鉱石猪が、ドシン地面が揺れるほど大きな音を立てて追いかけてくる。
バサリと茂みを抜ける音が後ろで聞こえ、すぐ近くに鉱石猪が迫っている事に恐怖する。後ろを振り返る余裕すらなく『下巻』に書いてあった通り、真っ直ぐ走って横に逸れた。
だが大きな音と、メシメシと樹木がなぎ倒される音が森の中に響き、横に逸れても追いかけてくる足音に絶望する。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……きゃっ!」
木の根に足を取られ盛大に転ぶと、肩に下げていた串とリモールが散らばった。立ち上がろうにも腰が抜け足に力が入らない。
鉱石猪が樹木に突進したお陰で、先程よりも少しだけ距離は離れたが、立ち上がれずこの調子では直ぐにここまで迫ってくるだろう。
身体を反転し、ずりずりと後ずさる様に後ろに下がるが、背中に大きな樹木が当たってこれ以上後ろへ下がれない。
散らばるリモールを蹴り上げ鉱石猪が迫り来る。実際には、もの凄いスピードでこちらに向かってきているはずなのに、目に映る全てのものがゆっくりと流れて見える。
蹴散らされ飛んでくるリモールや、大きく大地を震わせ突進してくる鉱石猪、その後ろで倒れる樹木達が、やけにゆっくりと目に映った。
頭の中には走馬灯の様に、聖獣達と過ごした楽しい記憶が流れて行く。
ペルーンと初めて出会った時の綺麗な金色の瞳、バルカンの燃えるような美しい鬣。
楽しく囲んだ食卓、美しく気持ちの良い露天風呂、口の周りをジャムで汚す食いしん坊な聖獣達。
風呂上がりにみんなで飲んだ至福の一杯、仲良く丸まって眠った優しく穏やかな時間。
どれも全てが愛おしく、やっと掴めた幸せだ。やっと自分らしく過ごせる居場所を見つけたのだ。
まだやりたい事が沢山ある。リモネードだって聖獣達に作ってあげていないのだ。
このまま死ぬなんて絶対にいや!
折角掴んだ幸せを、こんな形で終わらせたくないわっ!
ガクガクと震えながらも大きく息を吸い込むと、溢れ出る涙を雑に拭った。
「殺されてたまるものですかっ」
冷え切った身体から沸々と血が煮えたぎりる。頭に血が上り恐怖で竦んでいた身体が動き出す。
鉱石猪に蹴散らされ、潰れたリモールが飛んでくるのを受け止めると、土埃をあげ突進してくる鋭い瞳を負けじとキッと睨みつけた。
「っ!」
立ち上がろうと地面に手を置いた瞬間、こけた拍子に転がってしまった鋭い槍の穂先をつけた串が右手に触れた。咄嗟に掴んで手汗で滑るそれを、後ろの樹木で支えると、目前まで迫る鉱石猪の鋭い瞳に向かってリモールを力一杯投げつけた。
ブギッ、ギィィィィィィィッ!
投げつけられたリモールが目にしみたのか、鉱石猪が前脚を浮かせ体を仰け反らせる。その瞬間、唯一鉱石の鎧に覆われていない喉元に向かって、槍の穂先がついた串が突き刺さる様に斜めに構えた。
重たい鉱石猪の体が、前脚をドシンと振り下ろした拍子に、柔らかな喉元に鋭い串が突き刺さる。
ずぶりと肉を貫く感触が、串から手に伝わり血飛沫が上がった。
ぼたぼたと生暖かい真っ赤な血が、白い頬や髪に降り注ぐ。串をつたうそれが、支える両手にかかってぬるりと滑った。
間近で睨みつけていた鋭い瞳から光が消えて息絶えた頃、すぶずぶと串が鉱石猪の中に深く刺さり重たい体が上にのし掛かってくる。
「ゔっ」
いくら樹木で串を固定していても支えきれず、ずりずりと身体が傾いていく。樹木と鉱石猪に挟まれ息が出来ない。
『メリッサっ!』
「クナァ!」
息絶えた重い魔物に覆われ、陽の光さえ入ってこない真っ暗になった視界の中、聖獣達の自分を呼ぶ声が聞こえ意識を手放したのだった。






