丈夫な腹と殺菌消毒
バルカンの咥えるバケツの中には幼獣が丸まり気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている。のそりのそりと彼が歩く度に規則正しくバケツが揺れて、まるで赤子をあやすゆりかごの様だ。
「ふふ、ぐっすりね」
安心しきって眠る幼獣の姿が愛らしく見ているだけで笑みがこぼれる。幼獣に視線を落としたバルカンが鼻をふんと一息鳴らし咥えたバケツを床に落とす様に置いた。
『まったく我をなんだと思っているんだコイツは。おいチビ! 着いたぞ、いつまで寝ている気だ! 起きないならお前の分まで我が食べてやるからな』
「クナァ?……ナァ!」
ガタンと鳴るバケツの振動で幼獣がやっと目を覚ましたのか寝惚け眼を前脚で擦る。それでもうつらうつらとしていたのだが、バルカンの放った一言にピクリと耳を動かし、ぱっちりと目を開け小さな顔をバケツから現した。
『ふん、こやつ寝汚い上に食い意地もはっておるわ』
自分の事を棚に上げるバルカンにくすりと笑いながら、抱えていた桶をそっと机の上に置くとバナの葉の蓋を外す。これだけの量があるなら試しに作るバターと今日のスープにも使えそうだ。
「取り敢えず先ずは殺菌しなくちゃね! よいしょっと」
桶いっぱいの真っ白な乳を鍋に移して先ずは殺菌をする。竃に火を起こし弱火で沸騰させない様に気をつけながら、じっくりと温めるのだ。
『乳を温めるのか?』
「ええ、このまま飲むとお腹を壊すかもしれないから」
『なんだ。メリッサでも腹の調子を気にするのか。お前、腹は強いだろう?』
「え?」
『二日目の三つ眼鳥の内臓を食べても腹を壊していなかったではないか。さすがのガジルも内臓はその日に食べるか火を通して保管していたぞ』
「……」
『お前は見た目に反して丈夫な腹をしているな。我らとそう変わらないんじゃないか?』
なんと言う事だ。普通に二日目の三つ眼鳥の内臓を美味しく頂いてしまった。
腹が強いとは誇って良いのか、令嬢からすればあまり可愛らしくない話だが医者の居ないこの森で腹を壊さなくて本当に良かった。自分の腹を撫でながら今回ばかりは丈夫な腹に感謝する。
思い返してみれば幼い頃デザートに出てきたアイスクリームを食べて腹を壊した兄をよそ目に私は美味しく完食していた。
食事を受け付けなかったり、ストレスで胃が痛む事はあっても、何かを食べて腹を壊した記憶がない。まず伯爵家に腹を壊す様な食事が出される事がないので比較のしようがないのだが……。
複雑な表情を浮かべながら、鍋の底を焦がさない様にヘラでかき混ぜる。鍋の中からほわりと白い湯気が立ち甘い香りが広がった。
沸騰させてしまうと味が落ちるそうなので、火加減を注意しながらじっくりゆっくり温めた。
「そろそろ良いかしら? 見た目は牛乳みたいだけど……」
竃の火を消しほかほかと湯気のたつ首長羊の乳を木のカップに注いで味見をする。ふぅふぅと息を吹きかけ熱いそれを一口啜ると、思ったより癖はなく牛乳よりも甘くて生クリームの様に濃厚だった。
「美味しい! けど、これをこのまま飲むのは私には少し濃すぎるかしら。お茶に入れて飲むと良さそうだわ」
『ガジルは朝飲むのと、風呂上がりにこれを冷やして飲むのが好きだったぞ』
「結構、濃いけどお風呂上がりにも飲んでいたのね」
『ああ、その時は必ず手は腰に当てて飲んでいた』
「どうして?」
『さぁな、ただ風呂上がりの乳はあの姿で飲むのが一番美味い飲み方だと言っていたぞ』
「へぇ……私もやってみようかしら。でも、濃いからハーブティーと混ぜたり、フルーツを潰して混ぜるのも良いかもしれないわ」
『それは美味そうだ! 我も風呂上がりはそれを頂こう』
「ナゥンッ!」
「ふふ、じゃあお風呂上がり用のミルクは先に取っておきましょうか。あとはスープ用と、バターに使うミルクはもう瓶に入れてしまおうかしら」
殺菌消毒した首長羊の乳を、大中小のそれぞれ大きさの違う口の広い瓶に入れて冷ましていると、バルカンが机に顎を乗せて不思議そうにそれを眺めている。
『瓶に入れるとバターとやらが出来るのか?』
「ふふ、これをね、しっかり蓋をしてよく振るでしょう? そうしたらミルクの中の脂と水が分離してバターができるのよ。私も本に書いてあったのを見ただけだから実際に作るのは今日が初めてなの」
『ほう、それなら早く作ろうではないか』
「ええ、ミルクの粗熱が取れたらね。それより、石ができるだけなくて地面が柔らかい所ってないかしら? あなた達にも手伝って欲しいから瓶を転がしても割れない所に行きたいのだけど」
『そうだな……それなら、チビが生まれた場所が良いだろう。あそこは焼けた大木の他に今は広い野原が広がっているし、その草の上で転がせば瓶も割れないのではないか?』
「前に言ってた所ね! 私もこの子が生まれた場所を一度見てみたかったの! 楽しみだわ」
「クゥナァン!」
生まれた場所に行くのが嬉しいのか、しっぽを振る幼獣を撫でると手を甘噛みする様に戯れてきた。
『そう言えばこやつ、たまにあそこに行って遊びながら雷を出して走り回っているな。あまり大きな雷を落として燃やさない様に気をつけるんだぞ! せっかく見つけた爪研ぎ用の樹木をまた燃やされてはかなわんからな』
「クナァ〜」
『こらチビ! 真面目に我の話を聞け!』
私に戯れつきながら分かっているのかいないのか、適当な返事をする幼獣に、バルカンがお説教を始める。
長いお説教から文句に変わりやっとそれが終わった頃、首長羊の乳から出ていた湯気もすっかりおさまった。
熱がしっかり冷めたのを確認して蓋をギュッと閉める。瓶が割れない様に念のためスカーフで巻いて少しでも衝撃を和らげることにした。
「よしっと、これなら多少の衝撃は大丈夫ね」
バケツにスカーフで包まれた瓶を入れ、どのくらい歩くのか分からないので一応水筒を首から下げた。おやつには赤い果実や樹液の粒をバナの葉で包みあれやこれやとバケツに詰めていく。
本当はピクニックの様にサンドイッチなんかを持っていけたら最高なのだが、小麦がないのでパンが作れない。
何かで代用できないかと頭を悩ませるが思いつかず、小さく溜息を吐いた。それより今は初めてのバター作りだと気持ちを切り替えバケツを持ち上げる。
「よし、準備ができたわ。行きましょうか!」
私の呼びかけに、先程までバルカンの長いお説教に耳を伏せていた幼獣が、待ってましたと言う様に机から飛び降りる。バルカンもバター作りが楽しみなのかサッと腰を上げ誰よりも早く扉へ向かう。
少し重たいバケツを握り元気よく外に駆け出す聖獣達の後を笑いながら追ったのだった。






