初めての乳搾り
恐る恐る長閑な牧場と化した首長羊の群れに足を踏み入れる。人間が近づいても物ともせず、むしゃむしゃと葉を食べ続けるものや、呑気に歯軋りをしながら眠りについている牡の首長羊達を横切った。
食事は嗜好品と言うバルカンだが肉も大好きな、いかにも強そうな聖獣が横をのそりと歩いても首長羊は我関せずだ。呑気を通りこして、何者にも動じない大物感漂うその首長羊の姿に、自分もあそこまで鈍感ならば貴族社会でも俯かずに過ごせただろうかと想像してみた。
例えば聞こえる声で陰口を叩きこちらの反応を見て笑うご令嬢達に、我関せずと大きなあくびをするのだ。貴族令嬢たるもの、人前で大きなあくびなどはしたないが、言外に「貴女のお話は眠たくなるほど退屈だ」と言っているようなものだ。
きっと、私の物ともしない反応に顔を真っ赤にして悔しがるだろう。魔物達に、もう戻る事のない貴族社会でのやり過ごし方を教わったような気がして、くすりと笑った。
最初に見つけた首長羊の側に行くと、木角鹿の子供が頭の若葉をぴこぴこと動かしながら懸命に乳を吸っている。その姿があまりにも可愛くて、しゃがんで膝に頬杖をつきニコニコと眺めた。
『おい、メリッサ何をしている。あっちに丁度良いのがいたぞ』
「あっ、そうだったわ。乳搾りをしに来たんだった」
気持ちは牧場見学の気分になり、あまりに木角鹿の子供が可愛すぎてすっかり目的を忘れていた。バルカンに連れられて行った先には、今まさに岩に体を押し付けようとしている胸の張った首長羊の牝がいる。
「あの、あなたのミルクを私に分けて欲しいのだけど……良いかしら?」
及び腰に少し離れた所から首長羊に問いかけると、長い首がくるりとこちらに向き目があう。睫毛の長い真っ黒な瞳をビクビクしながらも上目にじっと見つめていると、首長羊が岩から離れ私の目の前に体を寄せてくれた。
「ありがとうっ!」
思わず真っ白でふわふわな巻き毛を撫でようとしたが、毛を刈りに来たと勘違いされては困るので、寸前のところで撫でそうになった手をぐっとこらえた。
バルカンが咥えていた桶を受け取り首長羊の胸の下に置く。しゃがんで毛のない薄ピンク色の乳頭をハンカチで軽く拭いて汚れを落とすと、『下巻』に書いてあった通り、親指から小指にかけて握り込むようにそっと搾った。
「わぁ! 温かい……ねぇ、見てバルカン! 上手く出たわ!」
桶に白く細い線を描き首長羊の乳が流れる。むず痒そうに足踏みをする首長羊の様子を見て、ゆるく握っていた手を少し強めた。
先程より大胆に搾れば勢い良く音を立て桶に乳が溜まっていく。私の肩にぶら下がり間近で興味深そうに見ていた幼獣が、物欲しそうな顔をしてバケツの横にお座りをする。
「クゥナ」
「あら、あなたもミルクが飲みたくなったの?」
「クナァ!」
「ふふ、しょうがないわね」
一度桶に乳を搾るのをやめ、口をパカリと開けて待つ幼獣のすぐ上にある乳頭を搾ってやった。幼獣の小さな口にカプカプと溜まるそれを眺め手を止める。
幼獣がこくんと音を立て飲み干した後、ペロリと口の周りに散った乳を美味しそうに舐めとった。
「美味しかった?」
「クナァ〜ン」
蕩けそうな顔をして催促をするように口を開けた幼獣に、笑いながら再び乳を搾ってやると、けぷりと小さなげっぷを吐いた。反動でころりと転がる幼獣に首長羊が優しい眼差しを向け、長い首を屈めて寝そべる幼獣の頬を舐める。
幼獣が小さな前脚でちょいちょいと首長羊の巻き毛に戯れても怒ることなく、あやす様に幼獣の毛繕いをしている。
首長羊とは母性本能が強い魔物のようだ。微笑ましいその魔物と聖獣のやりとりを見ながら手を止めていると、バルカンの視線を背中に感じ慌てて乳搾りを再開する。
まんまるの腹を出して幼獣がスヤスヤと眠りについた頃、桶の中は真っ白な乳でいっぱいになった。
「こんなに沢山ミルクを分けてくれてありがとう」
胸の張りがおさまった上機嫌な首長羊にお礼を言うと、長い首がぬっと近寄り私の頬に頬ずりをしてきた。
「ふふ、これ良かったら食べて?」
手に触れた柔らかな毛並みをそっと撫でると、ポケットから来る途中に採ってきたローズマリーを取り出し首長羊に差し出した。『下巻』に首長羊はハーブも好きだと書いてあったのだ。
嬉しそうに私の手ずからローズマリーに食いつく首長羊に、気に入ってもらえて良かったと微笑んだ。
たぷんと桶いっぱいの乳がこぼれないように、バナの葉で蓋をしてゴモの蔦でしっかりと縛る。
「これでよしっと……あら、バルカン。これ何の実なの?」
乳搾りに精を出している間、バルカンがバケツに小さな硬い橙色の実を集めていた。
『これは木角鹿のツノに実ったものだ。丁度その辺に落ちていたのを集めた。これは強力な毒消にもなるし煎じ方によって万能な薬になるぞ』
「へぇ〜! それはとても貴重な実ね。集めてくれてありがとう! もしもの時のために大事に取っておくわ」
『ああ、それじゃあさっさと帰ってバターとやらを作るか』
「そうね、 楽しみだわ!」
『そう言えばチビが見当たらんな。どこ行った?』
「ふふ、あそこで気持ち良さそうに寝てるわよ」
『むっ、まだ寝ておったか。おいチビ、起きろっ! まったく、なんと寝汚いやつだ』
鼻提灯を作り呼びかけても全く起きる気配のない幼獣に、バルカンがぶつぶつと文句を言いながら小さな体の首根っこを咥えバケツの中に放り込む。雑に扱われてもぷぴぷぴと寝息を漏らしぐっすりと眠る幼獣にクスクス笑っていると、バルカンがそのバケツを咥えて歩き出した。
『ほら、帰るぞ』
「ふふふ、やっぱりなんだかんだ言って優しいのよね」
『何か言ったか?』
「何でもないわ。ふふっ」
気持ち良さそうに横になった首長羊に手を振り、乳の入った桶を大切に抱えてると零さないように慎重にバルカンの後をついて行くのだった。
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