蜜の木と大きな駄々っ子
深くどこまでも落ちていきそうな闇の中、魔物の眼光だけが浮かび上がる不気味なこの森にも、そろそろ朝がやってくる。
少しずつ空が白みはじめ闇の中で活動していた魔物達が眠りにつく頃、今度は眠っていた魔物達が目を覚ましだす。早起きな鳥の魔物が森に鳴き声を響かせ、まだ寝ている魔物達に朝の訪れを知らせるのだ。
遠くの方で騒がしく鳴く朝の目覚ましが聞こえたのか、バルカンが美しい鬣に埋もれた耳をピクリと動かす。ゆっくりと瞼に隠されていた美しい朱色の瞳を開き、ほんのり明るい窓の外に目を走らせる。
くわりと大きな欠伸を一つして自分の腹に寄りかかって眠る真っ白な少女に目を向けた。
けむるような長い睫毛を伏せ、気持ち良さそうに小さな寝息を立てている。安心しきったその表情に、もう少しだけ寝かせてやるかとバルカンは顔を伏せ微睡み朱色の瞳を閉じた。
あれからついつい一緒に眠ってしまい目を覚ました頃には部屋に陽の光が差し込んでいる。慌てて鼻先で彼女の形の良い額をつつき起こしにかかったのだった。
『メリ……サ……メリッサ』
誰かが私を呼んでいる。
ふわふわと柔らかく暖かいものに包まれて、なんて心地の良い事か。額をスリスリと撫でられくすぐったい。
この心地良い眠りから覚めたくなくて、私を包む屋敷の寝具よりも寝心地の良い、柔らかくて暖かなものにすり寄った。
『おい、メリッサ起きろ』
「う〜ん……」
誰かの私を起こす声に薄眼を開けると、部屋の中に緑と青の幻想的な光が差し込んでいた。どうやらガジルの作った窓ガラスから陽の光が差しているようだ。
その光を浴びて私を見下ろす聖獣の鬣が輝いて見える。眩しいほど美しく神々しいバルカンに、まだ夢の中に居るのだと重たい瞼をそっと閉じた。
『おい! 寝るな! 蜜の木に行くのだろう?』
「……あっ! そうだったわ!」
「クゥナッ!?」
微睡んでいる場合ではない。今日は早朝から蜜の木の固まった樹液を取りに行くのだ。
カッと目を見開き、いきなり身体を起こしたせいで、私の腹の上で眠っていた幼獣が転げ落ちた。
昨日は布団を洗えていないのでリビングに皆んなで丸まって寝る事にしたのだ。幼獣を抱えた私を、背中からかこむ様に丸まったバルカンの腹に身体を傾け目を閉じた。
一日酷使しヘトヘトに疲れ切った身体は、柔らかく暖かい毛皮に包まれただけで一瞬にして夢の中へ旅立ったようだ。久しぶりの穏やかな寝床に、今までに無いくらい深い眠りに着くことができた。
『早く支度をしろ。陽が高くなってきたぞ』
「はい!……っ」
『どうした?』
「う、腕が……痛い!」
『なんだ、まさか筋肉痛とやらか?』
「こ、これも筋肉痛の痛みなのねっ」
厳しいダンスレッスンの後に全身を襲う筋肉痛とはまた少し違う痛みで悶絶した。そう言えば、幼い頃に庭で剣術の練習をするお兄様が、筋肉痛で素振りができないと泣いている様子を部屋の窓から見た事があった。
あの時は、四歳も年上のお兄様が泣くほど筋肉痛は痛いのかと子供ながらに恐ろしく震えたが、多分その痛みに近いのではないだろうか。
「うぅ、これは確かに子供なら泣くわね」
「クゥ……」
痛む腕をさすっていると私のその腕に小さな前脚が添えられた。心配そうにペロペロと腕を懸命に舐める幼獣の姿に、痛みで眉間に皺を寄せていた私の顔が解れる。
幼獣の愛おしいその行動に痛みなど吹き飛びそうだ。
「ありがとう。あなたのお陰でなんだか痛みが引いた気がするわ!」
ギシギシと痛む腕など御構い無しに、目に入れても痛くないほど可愛い幼獣を抱き上げ頬ずりをした。
「クゥナァ!」
「ふふふ、なんて可愛いの!」
ぷらんと伸びた幼獣の小さく柔らかな腹の毛に、顔をうずめてグリグリとじゃれあう。
『おい、何をしている。樹液の粒が無くなっても知らんぞ!』
キャッキャウフフと遊び始めた私達に、バルカンが呆れながらも尻尾を床にペシンと叩き急かした。
「ああ、いけない! 急がなくちゃ!」
急いで身支度を済ませると、せっかちなバルカンの後を桶を持って追いかけた。小さな動きでもギシギシと音が鳴りそうなほど腕が痛むので、歩いている間に見つけた薬草を片っ端から桶の中に入れていく。
帰ったらこの薬草を刻み潰してから腕に貼るのだ。
『早くしないと置いていくぞ!』
薬草を毟りながら歩く私にぷりぷりと怒るバルカンだが、歩いては止まりを繰り返し、何度も後ろを振り返っては待っていてくれる。
「ふふっ、はーい!」
なんだかんだと口では言うが彼は実際、もの凄く優しい。腕は痛むけれど朝から聖獣達の優しい気遣いに自然と笑みがこぼれた。
『ここだ。メリッサ着いたぞ』
足元を見ながら歩く私にバルカンが呼びかける。その声に顔を上げると、目の前には琥珀色に輝く粒を根元に沢山つけた樹木がきっちりと同じ間隔をあけて何本も生えていた。
「わぁ! これがバルカンの言っていた蜜の木ね。メイプルかと思ったけど、葉っぱの形が少し違うわ……図鑑でも見た事がないわね」
手をかざして見上げると、メイプルの葉よりひだの数が多く形が違う。それに、虫の魔物に傷つけられた跡からまだ樹液が少し滴っているのを指ですくってみると、蜂蜜みたいにねちゃりと粘度が高いのだ。
メイプルの樹液は煮詰めて凝縮させるとやっとあの濃い色と粘度が出てくる。確か収穫できる時期は春の雪がまだ溶けきっていない頃だったはず。
それに比べてバルカンが言うには、この蜜の木は年中甘い蜜を垂らし、そのうえ枯れる事がないのだとか。葉の色が移ろい行くと共に、蜜の味も季節によって微妙に変化するそうだ。
春はまろやかで軽やかに、夏はスッキリ爽やかに、秋には深みが増して、冬は濃厚でこくのある味わいなのだとか。想像しただけで甘い物好きには堪らない。
この森でまた一つ楽しみが増えた。季節毎に樹液の粒を取っておいて食べ比べをしてみたい。
そんな事を考えながら、指についた蜜をペロリと舐めた。
「ん! 美味しい! やっぱりメイプルとは少し香りが違うわね……」
『粒は蜜より濃くてもっと甘いぞ。食べてみろ』
根元にぽこぽこと幾つも付いている樹液の粒に手を伸ばす。完全に固まっている様で木肌から外す時にパキリと音が鳴った。
「きれい……」
綺麗な濃い琥珀色をした、飴玉の様な樹液の粒を陽の光にかざす。蜜よりも色が濃く、光を受けてキラキラと輝いている。
「ん〜っ! おいひいっ!」
ぱくりと口に放り込むと、先程よりも甘く森の香りが鼻からふわりと通り抜けた。まるで森の恵みをギュッと凝縮したようだ。
今まで食べたどんな高価なキャンディーよりも、美味しくて頬っぺたがこぼれ落ちそうだ。片頬に丸い樹液の粒をぽっこり含ませながら、幸せそうに目を瞑る。
そんな私の様子を見て幼獣がカリカリと前脚で樹液の粒を削り取った。丁度半分に割れたそれをペロリと舐め嬉しそうに尻尾を振っては舐めるを繰り返している。
『出遅れたが、これだけあれば十分だろう。早く採ってしまえ』
「ええ! こんなに沢山あるなら余る程だわ!」
持っていた桶の中は薬草だらけなので、スカーフに薬草を包んで背負うように結ぶと、空になった桶の中にペキリペキリと木肌から外した樹液の粒を入れていく。
コロン、カランと艶々光る濃い琥珀色の粒が桶いっぱいに採れた。
「ねぇ、赤い果実も採りに行きましょうよ! お風呂上がりに冷やして食べる果実も補充したいし、この樹液の粒でジャムも作ってみたいの!」
「クナァ?」
「果物を甘くとろとろに煮詰めたものよ。あら、イチゴのジャムを全部あなたが食べちゃったの忘れたの?」
「ナァ!」
「ふふ、思い出した? きっと赤い果実で作ったジャムも気にいると思うわ!」
『ちょっと待て』
尻尾を振ってジャムに喜ぶ幼獣と楽しみだと笑い合っていると、バルカンがムスリとした顔で話を止める。
『我はイチゴジャムとやらは食べておらんぞ! チビ! お前は我を差し置いてそれを独り占めしたのか!?』
幼獣と一緒にキョトンとバルカンを見れば怒ったようにダンダンと前脚で地面を踏みしめた。食いしん坊な聖獣達に苦笑を浮かべ、何とかバルカンを宥めようとする。
「ま、まぁまぁ、赤い果実で作ってもきっと美味しいわ!」
『む、それも食べるが我はイチゴのジャムも食したい!』
バルカンが巨体を揺らして駄々をこねだす。その姿はまるで街に買い物に行った時に見た、小さな子供が菓子を買ってくれと母親に強請っていたのとそっくりだ。
私より長い年月を生きている聖獣のその姿に、吹き出しそうになった。笑ってしまうと更に臍を曲げてしまうので、可笑しくも愛らしいその姿に奥歯を噛んで笑いを堪える。
「……っ、そうね、作り方は知ってるからイチゴがあれば作れると思うのだけど……森の中だし木苺とか何処かに生えてないかしら?」
『うむ、木苺ならこっちだ』
てこでも動かないと言うように寝そべっていたバルカンが、すくりと立ち上がり何事もなかったように歩きだす。イチゴジャムが食べられると知った瞬間の彼の切り替えの早さに、我慢ができず遂に口から笑いが漏れた。
「っ! ふふっ」
『何をしてる! 早く来い!』
「は、はーい! ふふふ、あははっ」
既に先を行く気の早いバルカンが、振り返り私たちを呼んでいる。尻尾を振って喜びを隠しきれないバルカンの元へ笑いながら幼獣と駆け出したのだった。
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