穏やかな時間
赤く燃え上がったバルカンの周りに、ゆらりゆらりと陽炎が見える。今回は火花を散らしていないが、その気迫にまたしても水が蒸発しそうな予感がした。
『うるさいぞ! 誰が加減馬鹿だ!』
突然バルカンが吠えるように宙を睨む。きっと風達に揶揄われているのだろう。
風達と言い合いを始めたバルカンを見て、どうしたら良いのか分からずおろおろする。助けを求める様に辺りを見渡すと、近くに転がる大きな石の上で欠伸をする幼獣を見つけた。
「あっ!」
私の大きな声にビクリと反応した幼獣とバルカンが振り返る。
『なんだ、どうした!?』
「あの、水じゃなくてこの石を溶けない程度に熱することってできますか?」
幼獣がぴょんと飛び降りた大きな石を指差しバルカンを見る。
『? まぁ簡単な事だが。これでいいのか?』
バルカンの前脚がちょんといとも簡単に大きな石を転がした。すると一瞬にしてじわりと赤くなった石が陽炎を纏う。
「えっ! 今のでできたの!?」
『我は偉大なる火属性の聖獣ぞ。さっきは力加減を間違えゴホンゴホン! それで、これをどうする気だ』
今、力加減を間違えたって言いかけなかったかしら?
別に隠さなくても良いのに……。
「……あ、はい。これをあの穴に入れてくれませんか?」
『ほぅ、これを入れるのか』
バルカンが興味深そうに熱した石を咥えて水を張った石組みの穴に放り込む。
ジュッ! ブクブクブクッ!
冷たい水に熱々の石が放り込まれ音を立てながら大きな気泡が上がる。音が聞こえなくなるまで待ち、人差し指の先を一瞬だけ水に浸けて温度を確かめた。
「うん、良い感じだわ! まだ少しぬるいからもう一つ同じ大きさの石を入れたら丁度良い温度になりそう!」
バルカンにもう一つ近くに転がる石を熱して放り込んでもらうと、心地よい蒸気が辺りに立ち込めた。そっと手を浸け湯をかき混ぜると久しぶりの温かさに気分が高揚する。
「すごい、ちゃんとお湯になったわ! ありがとうございます!」
『ふむ、我にかかればこんなもの造作も無い事だ』
すごいすごいと湯をかき混ぜはしゃく私に、バルカンが髭をピクピク動かした。石を焼いて湯を沸かす方法は『上巻』の魔力温存魔法に頼らない方法で記されていたのを思い出したのだ。
『上巻』は何度も読み返して暗記してあった筈なのに忘れていた事がショックで、後で憶えていることを全て書き出そうと決めた。
先程まですっかり忘れていたが幼獣のお陰で思い出す事ができた。それに、私だけの力だと熱した大きな石を穴の中に放り込むのは難しい。
この広い石組みの穴いっぱいに溜まった水を適温にするには、小石を使ってもかなりの量の枯れ枝と時間が必要だっただろう。
逃げ出した時は誰の手も借りず一人で生きていこうと思っていたが、結局は誰かに助けられている。考えてみれば食料にありつけたのも、今こうして生きていられるのも彼らのお陰なのだ。
私も与えられるだけでなく彼らに何かできる事はないだろうか。考えても私にできる事は小さな事ばかりだが、まずは真っ黒なこの子を綺麗にしてあげる事から始めよう。
「さぁ! お風呂に入るわよ!」
「クナァー」
幼獣が縁を飾る岩に飛び乗り湯気の上がる穴の中を覗き込む。小さな前脚で水面をちょんちょんと突き、濡れた肉球をペロペロと舐めた。
好奇心旺盛な幼獣でも全身を濡らすのが嫌なのか、それとも湯が初めてで怖いのか、興味を示すが少しだけ警戒している。それとも聖獣だが見た目はネコ科の動物に近いので水が苦手なのだろうか。
「ふふ、大丈夫よ。ほら温かくて気持ちが良いでしょう?」
お湯をすくい驚かさない様に腰の辺りにかけてやる。毛に纏わりつき乾いた土が解れる様に少しずつ湿らせながら揉んでいった。
「クナァ〜ン」
気持ち良さそうに鳴く幼獣に、今度は多めの湯をかけ全身の土を洗い流す。毛が解れたところにポケットに入れておいたシャボンの実を取り出し果肉を一欠片千切って泡立てた。
幼獣の毛に泡を乗せシャンプーをする様に指を滑らせると真っ白い泡が大きくなっていく。
「痒いところはありませんかー?」
「ナァ〜ン」
「ふふふっ」
気持ち良さそうに目を瞑りくたりと力の抜けた体はされるがままだ。そろそろ洗い流そうとした瞬間、幼獣がそのまま湯の中に飛び込んだ。
「あっ!」
「クゥナァ〜」
幼獣の突然の行動に溺れてしまうのではと焦ったが、楽しそうに前脚を動かしスイスイと泳いでいる。ホッと息を吐いてネコ科の動物も泳げるのだろうかと、上手に泳ぐ幼獣に感心した。
湯は汚れてしまったが最初の目的はシャボンの実が一粒でどのくらい泡立つのか確かめる為だったので良しとした。
私のワンピースも早く洗ってしまおう!
早く湯に浸かりたいと逸る気持ちを抑え、まずはワンピースを干す場所を作る。腰につけていたゴモの蔦を、すぐ近くに生えている二本の木に結びつけ引っ掛けられる様にした。
泥だらけのブーツも綺麗にしようと脱ぎかけるが、替えの服を持ってきていない事に気がついて溜息をつく。
「すみません。着替えの服を取りに行きたいので、この子の事を見ててあげてくれませんか?」
『別に良いが、洗った服を着れば良いではないか』
「でも、すぐには乾かないので」
『それなら大丈夫だ。我に任せろ一瞬で乾かせる』
「え……」
『なんだ?』
「い、いえ! あの、お願いします」
『ああ、水を蒸発させるなど簡単なことよ』
ワンピースが燃えてしまうのではないかと頭をよぎったが、風達の横槍がないのできっと大丈夫なのだろう。やはりバルカンは器用なのか不器用なのが全く分からない。
ブーツの乾いた土汚れを枯葉で払い、靴下を脱いで地面に立つと、足の裏に草がチクチクと当たって擽ったい。腰に巻いたストラップを外してナイフをブーツの横に並べワンピースに手を掛けた。
一瞬、幼獣とは違い喋るバルカンに戸惑ったが相手は聖獣だ。ぷかぷか浮かぶ幼獣を前脚で突きながら遊ぶ姿に、恥じらう事など何も無いとバサリとワンピースを脱ぎ去った。
まずは、ワンピースについた魔物の血を水で洗い落とし、今度は湯をかけながら土汚れを揉み洗いする。シャボンの実を泡立て黒ずんだ部分を擦り合わせると、みるみるうちに白い元の生地の色が見えた。
土汚れは落ちにくいと『主婦の知恵』の本に書いてあったので、もっとてこずるかと思ったが意外にもすんなり落ちた。絞ってパンパンと皺を伸ばしゴモの蔦に引っ掛ける。
さぁ、待ちに待ったお風呂よ!
露天風呂のマナーとして、まずは身体を洗ってから入らないといけないと本に書いてあった。手でぴちゃぴちゃと湯をかけながらシャボンの実で身体を洗う。
次に入る時はお湯をすくう桶がいるわね。
ゆっくりつま先から湯に浸かり久しぶりの温かさに身体を沈めた。
「はぁ〜……気持ちいい」
目をつむりじんわりと温かい湯に身体から力が抜けた。ぱちゃぱちゃと幼獣が泳ぐ水音やサワサワと風が木々を揺らす音が聞こえる。
目を開けると揺れる水面に反射する陽の光がキラキラと輝いて見える。小鳥の囀りが聞こえ見上げれば、そこには青空が広がり遠くの方でゆっくりと白い雲が流れていた。
火照ってた身体に涼しい風が心地良い。岩に顔を乗せ露天風呂の横で毛繕いをするバルカンを見る。
「お風呂気持ちが良いですよ。一緒に入りませんか?」
『ふん、我は水に浸からずともこうして綺麗にできるから良いのだ』
「温かくてとっても気持ちが良いのに。ねー?」
「ナァー」
「あら? 何だか毛がツルツルになったわね。とっても素敵よ! 妖精の泉のお陰かしら?」
「クゥナ!」
幼獣の毛が指通りよく滑らかになっている。心なしか擦りむいた膝の痛みも引いた様に感じるので、妖精の泉に何かしらの効力があるのかもしれない。
バルカンは興味のなさそうな顔をしているが、耳だけはしっかり此方を向いている。幼獣を抱っこして寛いでいると、大きな巨体がのそりと岩に乗ったのが視界に入った。
おや? と見守っていると、幼獣と同じ様に前脚でお湯を触り意を決した様にザブンッと音を立て風呂の中に入ってきた。その拍子に湯が溢れ半分ほど減ってしまったが当の本人は岩に顎を乗せ目を瞑っている。
漏れそうになる笑い声を抑え残りのシャボンの実でバルカンの身体を洗う事にした。大きな身体を洗うのはなかなか骨が折れるが、感謝の気持ちを込めて丁寧に指を動かした。
『ふむ。なかなか良いではないか』
「ふふふ、気持ちが良いですよね。お湯を作ってくれたお陰で露天風呂に入れました。本当にありがとうございます」
『ああ、これなら毎日湯を沸かしてやっても良い』
「まぁ! 毎日お風呂に入れるのですね! 嬉しい! 痒いところはありませんか?」
『もう少し右だ』
「ここですか?」
『あぁ〜、そこだ。そこそこ……』
火属性なので水に浸かるのは苦手なのかと思ったが、気持ち良さそうにぐるぐると喉を鳴らすバルカンを見て安心した。意外にも聖獣達はお風呂を気に入った様だ。
真っ白い泡がもくもくと立つ泡風呂と化した露天風呂に、まったくのぼせる気配のない幼獣がはしゃいで岩から飛び込んだ。その拍子に、散った泡が風に乗ってふわりと青い空に飛んで行く。
マナーなどあったものではなかったが、初めて入る露天風呂はとても穏やかで気持ちの良いものだった。
ご感想ありがとうございます。
遅くなりましたが全ての方へお返事する事ができました。
中には更新が止まりご心配を頂く声もあり、活動報告にてお知らせ致しましたが、大変ご心配をお掛け致しました。
活動報告は読まれる方が少ないと今更ながら気づき、後書きにてご報告させていただきました。
以前の様に毎日の更新は難しいですが完結まで頑張ります!