初めての解放
嘔吐シーンがあります。ご注意下さい。
屋敷に戻ると、珍しく早い時間に帰宅している父から、書斎に来るようにと呼ばれた。次は何を言われるのかと、戦々恐々としながらノックをすると、短く入れと声をかけられる。
緊張して震える手で、ゆっくりドアノブを捻って中へ入ると、挨拶をする間も無く告げられた。
「お前をロズワーナ伯爵へ嫁に出す事にした」
「え?」
「以上だ。下がれ」
此方に顔を向ける事なく、決定事項だと当たり前の様に話す父に、ザッと血の気が引く。
ロズワーナ伯爵と言えば、領地が豊かで金払いが良く、若い娘を何人も抱える好色オヤジと有名だ。
一度、夜会で声をかけられ挨拶をした事があるが、脂ぎった顔に、今にもボタンが弾け飛びそうなほど大きなお腹、芋虫のような丸々とした指に、趣味の悪い金の指輪を何個もはめていた。
ロズワーナ伯爵が頻りに、厭らしい笑みを浮かべながら、私を上から下まで舐める様に見てきたのを覚えている。
ダンスに誘われ、此方が了承するか否か答える前に、突然腰を引かれ首筋に臭く生暖かい息をかけられた時は、恐怖と吐き気で震えた。
けれど、飲み物を取りに離れていたディラン様がすぐに駆け寄り、やんわりとロズワーナ伯爵の手を離させ助けてくれたのだ。
思い出しただけで気分が悪くなる。どんなに怖くて怯えても、ディラン様はもう、私を助けてはくれない。
父は私を、嫁入りと言う名で金と引き換えに売ったのだ。
フラフラと自室に戻り、数ヶ月前までの幸せな時間が、嘘の様だと乾いた笑いが漏れた。
学園の卒業を待たずして、私はあの男の元へ嫁ぐのだ。幸せそうに寄り添う2人の背中を、これ以上見ずに済むのは嬉しいが、自分の結婚生活を思うと吐き気と目眩に襲われた。
胃が押し上げられる様に、グルグルと胃液が逆流して噎せる。ここ最近、食欲が湧かず食事をまともに取っていないので、何度嗚咽しても胃液しか出てこない。
いっそのこと、胃に何か入っていればスッキリ出来たのだが、繰り返し引き攣る胃と胃酸で焼ける喉に、苦しくて涙が流れた。
苦しい。
悲しい。
辛い。
嫌だ。
怖い。
何で。
どうして。
助けて!
目が回り机に置いた鞄を巻き込み倒れこむ。鞄の中から植物図鑑が姿を現し、胃液にまみれた手で、助けを求める様にグシャリと掴んだ。
その時、勝ち誇った様な彼女の笑顔が頭をよぎり、掴んだ植物図鑑を力一杯投げ飛ばした。
分厚く重い植物図鑑が鏡台にぶつかり大きな音を立て鏡が割れる。
初めて本を投げ飛ばす様な、暴力的な衝動に駆られた自分に驚いて、吐き気も目眩も一気に吹き飛んだ。
鏡にひびが入り、歪に映る自分の顔が、鳩が豆鉄砲を食ったような、それでいて涎でぐしゃぐしゃの酷い有様に笑いが込み上げる。
「ぶっふっ、ふふふ、あはははははっ!」
ついに壊れたかと自分でも可笑しく、大きな口を開けて笑う自分が、ひび割れた鏡に映る。初めて見る自分の表情に、こんな顔をして笑えたのかと更に大きな声を上げた。
今まで、魔法が使えず自信がなかった。
めそめそ、うじうじと鬱陶しい事この上ない。
こんな女など、魔法が使えても捨てられるのは時間の問題だったのだ。
辛い事は何も言わず耐え忍び、嬉しい事は静かに胸にしまってきた。何故今までそんな事をしてきたのか、先程本を投げ飛ばし鏡を割ったら、とてもスッキリした。
怒っていいのだ!
楽しい時は大きく声を上げても良いのだ!
これまで押し殺してきた感情を、爆発させたお陰で、今まで生きてきた中で一番、解放的で気持ちがいい。
幼い頃より私が魔法を使えないせいでと、植え付けられ雁字搦めにされてきた罪悪感や自己嫌悪を、壊しかなぐり捨て身体がとても軽くなった気分だ。
こんな家、捨ててしまおう。
好色オヤジに好き勝手されるなど死んだ方がましだ。
それなら死ぬ前に、自分で何かを決めて、私こそが好き勝手するのだ。
トランクに必要な物を詰めて今すぐ出て行こう!
興奮状態で正常な考えが出来ずにいると、大きな物音を聞きつけた侍女が、慌てて部屋に飛び込んできた。
ぐしゃぐしゃの部屋と、汚れたメリッサを見て血相を変えた侍女が、お嬢様がショックのあまり可怪しくなったのではと騒いでいる。
彼女の悲鳴で、やっと興奮状態が解かれ、我に帰ると今の現状に慌てた。このまま好色オヤジに嫁ぐまで監禁などされては逃げられない。
「ごめんなさい。吐き気と目眩で倒れてしまって……持っていた図鑑の手を離したら、鏡に当たってしまったの」
しおらしくいつものお嬢様の振りをすると、侍女は怪訝そうな顔をしたが、湯の支度と医者を呼びに行った。医者からは寝不足と軽い貧血と言われ、栄養を摂りしっかり休めと言われた。
昔、侍女達が自分よりも魔法を使えない私の事を、鼻で笑っていたのを、立ち聞いてしまった事がある。
その頃、優しくしてくれるのが使用人だけだったので、こっそり彼女達が休憩する部屋へ遊びに行ったのだ。
誰も扉が開いていても気にせず話に夢中で、私に気づく事なく、楽しそうに笑っていた。それを聞いてからは誰も信用できず、使用人達とも距離を置く事にした。
だから、屋敷の中の者達には誰一人、私が反抗的な考えを持っている事など、悟られる訳にはいかないのだ。
さて、どうやって逃げようか?
それよりも、逃げてからはどうやって暮らせば良いのか……。
この何処にいても目立ってしまう白い髪は、何かで染められないだろうか?
逃げ出すタイミングを考えると、夜中のうちが良いかもしれない。私の今住んでいる屋敷の周辺は、人通りも多く、めずらしい無色のせいで直ぐにばれてしまう。
誰も知らない所に逃げ込むとしたら、隣の帝国へ逃げてしまえば、追手も流石に来ないのではないだろうか。
そうと決まれば、資金作りだ。
クローゼットにあまり使わず、すぐには使用人に気づかれそうもない宝石やドレスを、出来るだけ小さく畳み、空の通学用の鞄にしまった。
それと、初めてディラン様とデートした時に、彼にプレゼントしていただいた髪飾りを大事な物を仕舞う箱から取り出し、ひと撫でしてから鞄に詰めた。
これら全てを学校の帰りに換金するのだ。学園を卒業できなくとも、輿入れの詳しい話が本日なかったと言う事は、最高で数ヶ月、最低でも数週間は猶予があるのだろう。
少しずつお金に換えて、必要な物も取り揃えて行かないといけない。それに、明日学校へ行った際に、図書館で地図を見ながら帝国までの道のりを調べよう。
とりあえずは今、手元にある必要な物だけを選び、小さなトランクケースに詰めると、見つかり難いクローゼットの奥へと隠した。