サラの気持ち
サラ視点になります。
品のいいティーカップからふわりと湯気が立ち登る。
マナーの授業を終えた私に、目の前の公爵夫人が満足そうに微笑んだ。エミリア様は私にとって、未来の義母となる人だ。
「まだ心許ないところはあるけど、これなら人前に出ても何とかなりそうね。明日は注文したドレスの試着をしましょう」
「はい、わかりました」
「サマーパーティーまであともう少しだけど、気を抜かずこれまで通り真面目にお稽古を続けるのよ――」
私はそれに頷きながら、手元の紅茶を一口飲んだ。
赤茶色の水面に、ぼんやりと着飾った自分の姿が映る。香り高いこの茶葉一つとっても、平民だった頃には到底手の届かないものだ。
私の母は男爵家に仕える侍女だった。当主であるミゼラ男爵のお手付きにより私を妊娠したそうだ。そして激昂した男爵夫人に屋敷から追い出されたのだとか。
母には頼れる者はおらず、私が何とか働ける年齢になるまで、一時期教会に身を寄せていた。
母譲りの可愛らしい顔立ちであると自負していたが、当時は土属性で微々たる魔力量しかない平凡な茶色の髪と瞳。そんな自分に、ある日魔力変動が起きた。まさか光属性が開花するなんて夢にも思わなかった。
惜しくも魔力変動が起きる三年前に母は病気で他界しており、商家の下働きとして住み込みで働いていた私のもとに、噂を聞きつけた男爵が訪ねてきたのだ。
最初は私たち親子を散々な目に遭わせておいて、都合の良いことを言う男に腹が立った。けれど、魔力が弱くても珍しい光属性を開花させたことで、身分の低い平民として過ごすのは、あまりに危険だと判断したのだ。
最悪、攫われ売り飛ばされてしまうかもしれない。少なくとも、身寄りのない立場の弱い平民よりも貴族と言う肩書さえあれば、それだけで自衛になる。
それに、貧しい暮らしはもう嫌だった。仕事量が多いわりに給金が少なく、お洒落をしたい年頃でも、新しいワンピースを買う余裕さえない。朝から晩まで働いて、軟膏を塗っても治らない手荒れ。好きでもない人に告白されて以降、私を目の敵にしていた同い年の商家の娘を相手にするのも煩わしかった。
何より最後の決め手となったのは、男爵が私の父だと知るや否や、その娘と娘の嫌がらせを黙認してた主が顔を真っ蒼にしていたことだ。あの時、胸の中がこれまでにないほどスッとした。
トランク一つにも満たない少ない荷物をまとめて、そのまま男爵の乗ってきた馬車に乗り込んだのだ。男爵夫人は追い出した女の娘が屋敷にやってきて苦々しい顔をしたが、これと言って会話らしい会話をしたことがない。
学園に通い始めた頃、王太子殿下に声をかけられた。市井でも絵姿が出回っており、若い娘たちの憧れの存在だったので、最初はほんの少し緊張したが気さくな方だった。
そして、彼に連れられたそこに、私の運命の人がいたのだ。隣に本物の王子様がいるのに、私にはディランこそが白馬に乗った王子様に見えたのだ。
しかし、彼には婚約者がいた。噂で聞いたことのある無色の令嬢だ。遠目から見た彼女はいつも下を向いて陰に隠れようとしていた。他の令嬢に嗤われても言い返せずに足早に立ち去るだけ。
見ていて苛々した。ディランの婚約者なのに。何故もっと堂々としていないのだ。無色でも伯爵家の娘というだけで明日の心配をしなくていい。綺麗な装いをさせてもらえる。それがどれだけ恵まれているか。
ディランの婚約者として何も言い返せず嗤われて終わるなら、その座をいつか誰かに奪われる日が来るだろう。その誰かは、きっと私だ。ディランの視線がいつしか甘いものにかわり、私たちは心を通じ合わせた。彼の腕に抱きつき、そら見たことかと心の中で彼女に舌を出す。
ディランが彼女と婚約破棄をして、私と婚約を結んだ時、私の幸せの絶頂期だった。男爵家でもよくやったと褒められた。しかし別に父のためにディランと恋に落ちたわけではない。
少しだけ彼らを喜ばせるのは癪に障るが、そんなことはどうでも良い。令嬢たちの僻みもすべて笑って過ごせるほど幸せだった。
けれど、それも長くは続かず、メリッサが学園を去ってから彼の様子がおかしくなった。
いつも心ここにあらず。彼女の訃報を聞いてからは、私に目もくれぬようになった。彼の様子は、ただの罪悪感だけでない。彼女への恋情がまざまざと感じる取れる。亡くなってまでディランの心に居座るメリッサに腹が立ち、私と婚約をしたのを後悔している彼にもショックを受けた。
学園で私の光属性に惹かれて寄ってきた男子生徒たちと、当てつけのように好き放題仲良く振舞った。令嬢たちからはしたないと呼び出されただけ。ディランは何も言ってこない。構って欲しくて、彼に泣きついたが、おざなりな対応でますます頭に血が上る。
ついに私は王太子殿下に縋りついた。不敬と分かっていても、どうにかディランに私を見て欲しかったのだ。
王太子殿下は一瞬、眉をひそめたが、窘めるだけで不問にしてくれた。けれど、私の連日の騒動により、ディランではなく公爵夫人の堪忍袋の緒が先に切れた。学園やパーティーなどの社交の場に顔を出すことを禁じられ、公爵家で行儀作法を一から習うことになったのだ。
公爵家で過ごすようになってから、一時は離れていたディランの関心が少し戻ってきたように思う。
エミリア様と衝突して何かと癇癪を起していた私に、ディランがため息をつきながらも話を聞いてくれるようになったのだ。それに少しだけ安心できた。
たまにご機嫌伺いで花束をくれたが、すぐに枯れてなくなってしまう物ではなく、手元に残る証が欲しいと思うようになった。ちゃんと彼に愛されていると、見返して実感したいのだ。
だからあの日、髪飾りを持っている彼に嬉しくなった。けれど、私のために用意されたものではなかったのだ。メリッサの髪飾りだと知った時は、また裏切られた気持ちになった。
それは今まで燻っていた、辛い時には手を差し伸べないくせに、属性が変わっただけで私に近寄ってくる人々への戸惑いと恨みがましい気持ち。そして、ディランだけはそうではないと信じたかったのに、そうさせてくれない彼への苛立ちと不信感が溢れ出てしまった。気がつけば口汚く彼を罵倒して、髪飾りを奪い取っていた。
あれからディランとの距離がますます開いた。彼の部屋に行っても不在ばかり。侍女に聞けば、仕事がない時は温室にこもっているらしい。
本当は温室に押しかけてしまいたいが、あそこは彼にとって聖域だ。どれだけ大切にしているか、私にだってわかる。以前、一度だけ彼が温室に招待してくれたことがあった。
私の知らない様々な植物に溢れ、ディランがすごく安心しきった顔で笑っていたから。だから、あの場所では騒ぎ立てるようなことはしたくない。
彼との開いてしまった距離をどう取り戻そうか悩んでいると、お忍びで王太子殿下が公爵家に遊びに来た。私が不敬を働いてしまった日から初めて顔を合わせる。
急いで侍女に地味な装いのドレスに着替えることを告げると、新入りの侍女がジュエリーボックスから一番地味な髪飾りを持ってきた。髪に挿しこまれたのはメリッサの髪飾り。ディランに返せず保管していたものだ。
目を伏せ鏡を見ていなかったせいで、気づくのが遅れてしまった。髪と一緒に複雑に編み込まれたそれは、解くのに時間がかかってしまう。
部屋の中に少しだけ微妙な空気が流れたが、新入りの侍女は気づいていない。王太子殿下を待たせるわけにもいかないので、そのまま挨拶に向かうことにした。
応接間に行くと、エミリア様と談笑している王太子殿下と目が合った。改めて先日の不敬を謝罪すると彼が私の前に立った。そして、髪飾りに触れ「とてもよく似合っているね」そう言いながら優しく微笑んだ。
色んな感情が入り混じり、目の端に涙が滲む。そんな私を見て、王太子殿下が庭の散歩を提案してくれた。エミリア様に断りを入れて、二人で公爵家自慢の庭を散策した。
その時に今までのディランとの出来事をすべて打ち明けたのだ。もう彼の関心は自分にないこと。今までどう接していたのか。どう接したらいいのか、分からなくなってしまったこと。
全てを聞き終えた王太子殿下は「心配しなくていい。ディランの気持ちは離れていないよ」そう言って私にハンカチを差し出してくれた。
殿下が言うには、ディランが温室にこもっているのはサマーパーティー用の花を育てているからだとか。そして私と同じように、彼も今は接し方が分からなくなっているだけらしい。
いつの間にか温室の側まで歩いていたらしく、殿下が「ほら、やっぱりあった。一番日当たりのいい場所をみてごらん?」と指を差す。ガラス越しに見えるのは、一つの鉢植えに、天使のはしごのように陽の光が差し込んでいる。
その鉢植えから、まだ蕾もついていない青々とした葉っぱが顔を出している。
殿下曰く、あれはある国にしか生息していない珍しい植物らしい。ディランの瞳と同じ、緑色の花が咲くのだとか。子どもの頃に、婚約者とサマーパーティーに参加する時は、あの花で花冠を作りたいと言っていたそうだ。
「きっと、君のために育てているんだよ。だからあれを無駄にしないためにも、エミリア叔母様の授業をちゃんと受けて、サマーパーティーに出席できるようにならないとね」
そう言って励ましてくれる王太子殿下に、ハンカチを濡らしながら頷いた。
その日からはマナーの授業を真面目に受けるようになった。今まではエミリア様の言葉の端々に、メリッサと私を比べるような空気を感じて癇癪を起していた。けれど、それも被害妄想に過ぎない。
一つ心に余裕が生まれると、小さなことで苛々しなくなった。平民の間では当たり前なことも、貴族の間では失礼な言動や行動になる。それはただ、文化の違いでどちらが悪いわけでもない。
何気ない違和感や相違を感じたら、教えを請い冷静に努める。そうすれば衝突せずに済むようになった。
幾日か過ぎた頃、エミリア様からサマーパーティーを検討していると教えられた。
思わず叫び出しそうなほど嬉しかったが、令嬢らしく口に手を当てた。そして喜ばしいことに、最近ディランと少しだけ会話ができるようになってきたのだ。
私が癇癪を起さなくなってきたからだろうか。たまに窺うような目をしている時もあるが、彼が関心を持ってくれているだけで今は嬉しい。
それにこの前、こっそり温室にいるディランを見に行った。以前よりも成長したあの鉢植えの蕾を愛おしそうに撫でているのを、この目で見たのだ。
とても大切そうに嬉しそうに微笑みながら魔力を注ぐ姿に、幸せだったあの頃を思い出した。
サマーパーティーが待ち遠しい。
優雅にティーカップを傾けるエミリア様が、頑張っているご褒美だと私に有名パティスリーのマカロンを進める。言われるがまま一つ手に取り、可愛らしいピンク色のそれを齧った。
口の中いっぱいに広がるフランボワーズ。それはまるで、胸の高鳴りと同じように甘酸っぱい高揚感で私を満たすのだった。






