過去の記憶と新たな記憶
バルカンの私怨が含まれる介抱のお陰で、ジークの足取りはすっかり元に戻った。
あのとき解毒薬を吐き出していたら、今頃また身体が痺れて動けなくなっていたことだろう。
ちらりと隣を歩く彼の顔を盗み見る。小さくて無駄な余白のない端正な顔。それを覆いつくすように、バルカンの大きな肉球の跡がついている。
顔全体が薄っすらと赤くなっているせいで、ジークの体調の良し悪しがいまいちわからない。
ただ、「あの状況じゃなかったらバルカンの肉球を楽しめる余裕があったのに……」とぼそりと低い声が聞こえたことから、思ったより元気そうだと安堵する。
「瓜酒の木からだいぶ離れたことだし、そろそろ休憩しない?」
『そうだな。どれ、ひとつ瓜酒をもらおうではないか』
籠を地面に降ろしたジークに、バルカンが待ってましたと近づいた。ガサゴソと、どれが飲み頃か選んでいる聖獣に眉を下げた。
「バルカンごめんなさい。まさか出先で飲むと思わなくて、お皿を持ってきてないわ」
『そんなものは必要ない。よく見ておけ。瓜酒はこうして飲むのだ』
バルカンが嬉々として一番大きなひょうたんを選んで振り返る。どうやって飲むのだろうか。首を傾げて様子を見ていると、バルカンがお座りをして器用に両前脚でひょうたんを持った。へたを嚙みちぎり、ぺっと地面に吐き出すと、そのままクイッと瓜酒をあおる。
そんな器用な飲みかたもできたのかと目を見張った。まるで仕草が人間のようだ。
『うむ、ちとまだ早い気もするが今年の瓜酒はなかなか良い出来だ』
「クナァ~、ナァ~」
『ふんっ、チビにはまだ早い』
興味津々に纏わりついてくるペルーンを、バルカンがしっしっと追い払い、木陰に座り込んで水を飲んでいるジークを見やった。
『それにしても、毒熱猿にあんな間抜けな刺されかたしたやつ初めて見たな……くくっ、いま思い出しても面白い』
「バルカン、もう勘弁してくれよ……。うぅ、まだ口の中が痺れる」
ここまでくる道中、散々バルカンにからかわれたジークが萎れた声を出す。「穴があったら入りたい」なんて彼がぼやくものだから、ペルーンが後ろ脚でせっせと穴を掘りだした。バシバシとジークの足に土がかかっている。
「ペルーン、いまのは例え話だから本当に掘らなくて良いのよ」
「クナァ?」
そっとペルーンを止めると不思議そうに首をかしげる。それを見たバルカンが、もう我慢できないと大きく笑い転げた。
『ブハハハハハッ!』
「ペルーン、いっそのこと俺を首まで埋めてくれっ!」
「クナンッ!」
ジークが赤い跡のついた顔をさらに赤くして叫ぶ。そんな彼にペルーンが「任せろ!」と言うように再び穴を掘りだした。
頭の片隅で、地面から赤い顔をしたジークがにょきりと生えているのを想像する。
顔が出ているほうが恥ずかしい気がするけど、剥き出しで良いのかしら……?
そんなバカげた疑問が頭に浮かんだところでハッとする。畑仕事で培われたペルーンの脚力で、既にジークの足は半分ほど土で覆われていた。このままでは本当に埋められてしまう。
「ペルーン、埋めちゃダメ!」
『ヒィ~ッ、ワハハハハハ!』
「バルカンも、そんなに意地悪ばかり言うならお酒はお預けよ!」
『ハハッ、なんとっ!? もう一本よいではないか!』
「ジークが命がけで採ってきてくれたのだから、揶揄うなんて酷いわ!」
落ち込むジークを肴に、まだ飲み切っていないうちから二本目の瓜酒を選び出したバルカンを叱る。
そもそも、この瓜酒は彩光ザリガニの臭み取りに使うために収穫したのだ。いくらたくさんあるからと言って、ここで何本も開けて酔っぱらわれては困る。
「はぁ、最近ずっとしくじってばかりだな。今までこんな間抜けではなかったのに何でよりによって……」
ブツブツと暗い顔をして呟いているジークにため息をつく。そろそろ落ち込むのは止めて欲しい。いい加減にしないとキノコが生えてきそうだ。確かに少しおっちょこちょいな刺されかたをしたが、それで得られたものだってあった。
解毒薬の効果も知れたし、毒熱猿の毒針も手に入れることができたのだ。魔物を狩る時に吹き矢で動きを封じることができる。一度刺さっているので少し効果は薄れるかもしれないが、十分毒は残っているはずだ。
今回はいつもより落ち込みかたが激しい。本当に土に埋まろうとしたのは初めてだ。きっと、いまだに口の中が気持ちが悪いせいで、更に気が滅入っているのかもしれない。
怖いもの見たさでジークに解毒薬の感想を聞いたところ、まず口に含んだ瞬間、臭いは言わずもがなこれまで経験したことのない不快感に襲われるそうだ。
目の奥が熱くなってつむじを木槌で叩かれたような刺激に襲われるらしい。
舌の上を突き刺すような辛味と渋味。その禍々しい液体に、身体が飲みたくないと勝手に喉を締めるのだとか。そして、何故か塩を入れていないのにしょっぱくて、後からじわじわと苦味がやってくるそうだ。飲み込んだ後も、じんじんと舌先が痺れるらしい。
水で口をゆすいでも解毒薬の味が消えないとこぼしていた。お口直しの樹液の粒があれば少しは気も紛れただろうが、他に代わりになるものがあれば良いのだが……。
辺りを見渡し、ふと木に咲いた薄紅色の花を見つけた。あれはツジビアの花だ。そういえば、この花の開花時期はちょうど今頃だった。
懐かしい記憶と共に、この花の効能を思い出す。婚約者だったディラン様と遠乗りに出かけたとき、初めての乗馬で酔ってしまった。そんな私に、植物に詳しい彼がツジビアの蜜を吸えば酔いが治まると教えてくれたのだ。
無色で屋敷の使用人にさえ主人と思われていなくても、一応は伯爵家の令嬢。まさか、野に咲く花を直接口にするなんて。それまで経験したことがないし、勧められたこともない。
驚く私に、ディラン様は平民の間では民間療法としてこの花を薬に使うこともあると教えてくれた。「毒はないから大丈夫だよ」と自ら目の前で花を咥えた彼に続き、恐々と含んだ花の蜜。爽やかな香りとほのかな優しい甘みを感じ、胃がひっくり返りそうな感覚が和らいだのを今でも覚えている。
そう言えば、ディラン様の趣味に合わせて植物の勉強をしていたが、この出来事があってからは自ら興味を持ち始めた気がする。それと同時に、民間療法にも興味が沸いて薬草にも詳しくなったのだ。
彼と過ごして得た知識が、いまの生活をより豊かにしている。
前の生活は辛いことのほうが多かったが、その一つ一つに無駄なものなどなかったのだと思えるようになった。
ディラン様と最後に顔を合わせた時、彼は罪悪感に苛まれていた。自分が婚約破棄をしたことで、私が年の離れたロズワーナ伯爵と結婚することになったからだろう。あの時は彼の身勝手な行いに失望し腹が立った。
しかし、今は私に植物を学ぶ切っ掛けをくれたディラン様にも、幸せになって欲しいと思っている。いや、きっと私が願わなくても彼は幸せになっていることだろう。
ディラン様と恋に落ちたサラ様は、元は平民として暮らしていた。そのため植物のことになると、たまに貴族らしからぬ行動をする彼を嫌がらず、一緒に楽しめる方なのではないだろうか。
学園で見た彼女はとても溌溂としており、少しマナーにかけるところはあったものの、とても伸び伸びとした人物だった。貴族社会とはかけ離れており、察するに堅苦しいことが嫌いなようで、着飾ることが大好きな令嬢たちとは違うのでは。なんて今になって思う。高いドレスや宝石よりも、ディラン様から贈られる花束をとっても喜びそうだ。だって、家同士の婚約を破棄するほど彼が愛した人なのだから。
「ふふふ、彼らに負けないくらい、いまの私は幸せだけどね」
ぷちり、ぷちりと背伸びをしてツジビアの花を摘む。
「メリッサ、何か言ったか?」
「いいえ、それよりジーク。この花の蜜を吸ってみて? きっと少しは気分も良くなるわ」
突然、花の蜜を吸えと言われたジークが何の躊躇もなく口をつけた。花や植物には毒性のあるものがたくさんある。それなのに、一瞬の戸惑いも見せない彼に、私への信頼を感じて嬉しくなった。
「あ、なんか……少し楽になったかも?」
「ふふ、そうでしょう? ほら。まだあるから、もっとどうぞ」
先ほどまで埋まりたいと落ち込んできたジークの顔が少し明るくなった。どうやら、ツジビアは解毒薬酔いにも効果があったようだ。興味深そうに花びらを陽の光に透かす彼をみて、くすりと微笑む。
私も久しぶりに懐かしい甘みを堪能しよう。目を伏せて、そっと花びらに口づける。ツジビアの香りと甘みに過去の記憶が再び呼び起こされそうになった。その時――。
優しい風が森の中を通り抜けた。ふわりと辺りを爽やかな香りが包み込む。瞼を上げれば、ツジビアの花びらが舞っていた。その薄紅越しに、とびきり幸せそうな顔をしたジークが、私を見つめて微笑んでいる。
それがあまりにも、穏やかで。美しくて。鮮明に瞼の裏に焼き付いた。
次にツジビアの蜜を吸った時。一番初めに思い出すのは、きっと薄紅が舞い散る景色と優しい眼差しをしたこの美しい人だろう。ゆらゆらと花びらが降ってくるなか、そうぼんやりと思ったのだった。
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