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『新たなる脅威、ニホン』
そう印字された資料をナダムは眺める。
ふむ? 微かな疑惑が、ナダムの頭の中に浮かび上がる。ということは、ニホン対策が会議の主題だという友人の言葉は正しかった訳だ。
だが、問題がある。
脅威? ニホンには軍が存在せず、あるにしても大した規模ではない。それが情報部の判断だったはずだ。それが、なぜ? まあ、分析結果が更新されることはままあることだ。いつまでも間違いを認めないよりかは、まだましだ。だがしかし、一体……。
と、部屋の照明が唐突と落とされ、会議室内は闇にとざされる。否、完全な暗闇ではない。会議卓に設けられた小ぶりな照明が点灯し、テーブル上に明かりをともしている。部屋全体を照らすようなものではないが、手元の資料を読み込むのを阻害するほど頼りないものではない。
ぶうん、という機械音。同時に、新たな光源が生じる。ナダムがそちらを見ると、そこには映写機。軍でも広く使用されている一般的なタイプだ。会議室の一面、そこに天井からぶら下げられたスクリーンへと、映像を飛ばす。スクリーンには、資料のタイトルと同じものが表示されている。
「配布資料の表題にもある通り、この会議の議題はニホンに関するものです」
元帥が説明する。
「詳しい説明については、ロリータ中央大学文化比較学のムトゥス教授より行います。教授、お願いします」
元帥のその言葉と共に立ち上がる人物が一人。背がかなり高い一方で、痩身。目玉がぎょろりと飛びている。分厚い丸眼鏡をかけていることもあって、神経質そうな印象を受ける。
ナダムは微妙な気分になっていた。文化比較学? 脅威の話はどこに行ったんだ? 俺は文化学の話を聞かされるために呼ばれたのか? そんなナダムの感想を余所に、教授の話が始まる。
「ご紹介にあずかりました、ムトゥスです」
そう言って教授は、出席者たちに向け軽く一礼する。
「それではまず、配布資料の2ページ目をご覧ください」
教授の言葉に従い、ナダムは資料を開く。
「は?」
驚愕の余り、そんな言葉が出る。もっとも、それはナダムだけではなかった。他の出席者たちもまた、「む」とか「なんとっ」といった言葉を漏らしている。
まあ、そうなるのも当然だ。資料見開きにいきなり、女の子の絵柄が乗せられているのだから。それも、ただの少女画ではない。少女が身に着けているのは、下着同然の露出の大きな服。辛うじて陰部を隠しているだけの布キレ。そんな少女が、媚びるように身をくねらせている。
何だこりゃ? というのが、ナダムのいつわらざる感想だ。何でこんなわけの分からん絵を見なければならないのか。
ナダムは、おのれの表情が引きつるのを自覚していた。こんなものを見せられるために呼ばれたのか? 休暇を潰されて?
だが、仕事は仕事。ナダムは軽く頭をふって邪念を取り払うと、絵を観察してみる。
最初、少女のひわいな服装に注意がいったものの、ナダムの関心は少女の頭部へとうつる。少女の頭は奇妙だった。ゴキブリの触角のような髪型をしている。何でこんな髪形をしているのか? 大佐には理解不能だった。それに、目玉が大きい。そのかわりに鼻が小さく、棒線一本で描かれている。
ナダム大佐のもつ絵画に関する知識は一般常識レベルだったが、それでもわかる。この絵は、極端なまでにデフォルメされている。
「これは一体……急に呼び出されたかと思えばこんな絵を見せられるとは……ムトゥス教授、不謹慎ではありませんか?」
そう指摘する人物が一人。よくぞ言ってくれた。ナダムは心の中で喝采を送る。流石に表情には出さない。元帥の心証が悪くなるかもしれないからだ。否、確実に悪化するだろう。ナダムにそんな蛮勇はなかった。
そんなナダムは、元帥とムトゥス教授の表情を盗み見る。別段、怒っている様子は見えない。しかし、それで本当に心証が悪化していないとは言えなかった。社交辞令としてポーカーフェイスを被っているだけかもしれないからだ。
続いてナダムは、質問者の方を見る。その人物は中肉中背。髪はほとんど白髪と化している。見たところ、70歳ほどの老人のようだ。ゆったりとした金布赤帯の神官服を身に纏っている。見たことのない人物だ。ネームプレートによると、ゼルト・ヘム・ロントムァト。ヘンセ・ゴビナ大司教の地位にある。大司教といえば、教団の大物。かなり高位の聖職者だ。
「失礼しました、ロントムァト大司教。しかし、これは重要なことなのです」
教授が頭を下げる。謝罪を口にして入るものの、その台詞には抑揚がない。台詞棒読の素人芝居みたいな感じだ。
「本当に悪いと思っているのかね?」
案の定、大司教がその点を指摘する。
「もちろんです」
教授の即答。
「しかしだ……」
ゲフンゲフン。咳払いの音が、さして広くもない会議室内にこだまする。大司教はまだ何か言おうとしたが、それで機先を制された。咳払いの主、それはボナペルル元帥だ。自然と、全員のしせんが元帥へと集まる。
「いや、失敬」
元帥の言葉。
「どうか、この老いぼれのことはお気になさらずに」
そう言って元帥は、教授へと視線を向ける。
「えー、それでは……説明を続けます」
目くばせを受けた教授が、説明を再開する。
「この資料2ページに描かれている少女の絵。これはニホンではごくありふれた絵柄です。ロントムァト大司教。ニホンにはこのように絵で描いた人間を登場人物にした物語――マンガと呼ばれているのですが――があります。まあ、無学な人間向けの絵本みたいなものと思って下さい。どうやらニホン人は教育水準がかなり劣っているらしく、子供でも大人でもこのマンガをと呼ばれる絵本をよく読んでいるようです」
「ふうむ。それは分かる。こんな少女の下着姿なんぞを見て喜んでいる連中に教養などあるはずもないからな」
大司教が相づちを打つ。
「まさにそのとおりなのです、大司教。ところでこの少女の絵は、とある絵本の主人公なのですが、それが何か分かりますか?」
水を向けられた大司教は、当惑した様子を見せる。
「わしに分かるわけがなかろうに……ニホンには風俗用の絵本があるということでは?」
「残念ながら、違います」
教授はなんだかうれしそうだ。きっと、人の間違いを指摘するのが楽しくてたまらない類の人間なのだろう。ナダムは億劫な気分になった。
「これは風俗ではありません。ごく普通の絵本、それも少女向けです」
「は?」
大司教がポカンとしたマヌケ顔を晒す。思考停止状態に追い込まれているようだ。他の会議参加者の面々も似たり寄ったり。きっと、俺もアホ面を晒しているんだろうなと思い、ナダムは表情をつとめて引き締める。
そんな参加者たちを置き去りにして、教授の説明が続く。
「この画像は、ニホンで大流行中の少女向け絵本『オジャマジョ・プリキュア』の主人公を描いたものであり、一般に大量に流通しております」
「少女向け?」
ナダムの横に座る友人――ドウテー大佐が信じられないといった顔をしながら質問する。
「そのとおりです、大佐。小さな女の子向け絵本です」
「これが?」
「はい、これがです」
「本当に?」
「はい、本当です」
「冗談ではなく?」
「はい、ドウテー大佐。にわかには信じがたいことですが、嘘でも冗談でも御座いません」
ドウテー大佐と教授のやり取りが続く。ドウテーは、これが少女向け絵本の主人公だというのが信じられないようだ。まあ、ドウテーが信じられないのも無理もなかった。
ナダムはもう一度少女の絵へと視線を移す。
そこに描かれているのは、先ほどと同じ少女の絵。下着同然の卑猥な服装に、幼い体形。幼女のような童顔。その一方で、身体の大きさに不釣り合いな巨乳。まるで男を誘っているようにしか見えない。
売春宿の表看板――そう説明されても、全く不自然ではない。
「これが絵本の主人公?」
「そうなのです、大佐」
「少女向けの?」
「はい。認めるのは大変遺憾ではございますが、残念ながら事実です」
「おお、神よ」
そう言ってドウテーは資料を放り投げ、聖印を結ぶ。
「皆様が信じられないのも無理はありません。かくいう私だって、ニホンを訪れたときには、かの国の住人達の正気を疑いましたから」
教授の説明。何やら気の毒そうな顔をしている。
「とはいえ、まあ、このままでは話が進みませんので……次は11ページをご覧ください」
その指示に従い、ナダムはページを開いて行く。途中、少女が化け物に頭部を食い千切られているような絵が目に入ったりしたが、彼は気にしないことにした。ページをめくっていき、目的の11ページを開く。
そこには写真が印刷されていた。少女のようだ。中々に可愛らしい。だが……この服装はいただけない。ナダムは少女の服に落第点を与えた。
「これはニホンで盛んなスポーツ、フィギュアスケートの写真です」
教授が説明する。
「フィギュアスケートとは、我が国の氷上競技のようなスポーツですが、いくつか違いがあります」
そりゃあ、違うだろうさ。ナダムは胸中で、投げやりに同意する。我が国の氷上競技選手は、こんな扇情的な格好をしたりしないからな。
「まず、我が国の氷上競技ではスピードを競いますが、フィギュアスケートでは舞を踊ります。どれだけ美しい舞を踊ることが出来たのかということを点数化し、それを競うようです。恐らく、フィギュアスケートの選手がこのような挑戦的な格好をしているのは、点数に影響を与えるからなのでしょう」
「はあ」
どこからか、気の抜けた相づちが聞こえる。きっと、状況について行けないのだろう。ナダムは思う。ニホン人は一体、何を考えてるんだ?
ナダムの見つめる写真。そこに映っているのは10代前半だろう幼い少女。そんな少女が身に着けているのは、体のラインが露わになった薄布。しかもこの薄布、妙な具合にカットされていて、股間部分で逆三角形を形成。陰部をことさらに強調しているようにしか見えない。
「このフィギュアスケート選手が着ているのは“レオタード”と呼ばれる服です。このレオタード、一般に普及しているようです。よく似た形態の服装として“スクール水着”がございます。えー。次の12ページをご覧ください」
ナダムは隣の12ページへと視線を移す。そこにもまた、少女の写真が印刷されている。先程のフィギュアスケート選手と同じような服装のようだが、やや装飾にかける。
「これがスクール水着の写真です。見てのとおり、身体の線がくっきりと見えてしまう服装です。えー、興味深いことにニホンでは、ほとんどの子どもたちが、このような服装を強制されているようです」
「は?」
思わず、ナダムは声に出してしまう。
「強制ですかっ!?」
「そうですね。強制です」
「子供たちは嫌がらないんですか?」
思いついた疑問を、特に吟味することも無く口にする。
「ほとんどの場合、特段嫌がったりはしないようです。ただ、中にはこのような卑猥な格好を拒否する少女もいるようです。しかしながら、そのような少女には罰が与えられるようです」
「罰?」
ナダムには信じられなかった。このような服装を少女たちに強制させ、従わなければ罰まで用意しているとは……。ニホンというのはとんでもなく歪んだ貞操感を持った、野蛮な国のようだ。
「罰です。具体的には、学校での進級停止や、成績の降格が行われます。また、スクール水着を着ないと“我儘で自分勝手な女”という烙印を社会から押され、イジメの対象にもなるようです。この為、スクール水着を拒否する少女の数は、ほぼゼロと言ってよいでしょう」
教授が説明する。
「ニホン人は正気なのですか?」
ストレートな質問。この問に、教授の視線が泳ぐ。
「えー。何と言いますか……ニホンには、『三つ目族の国では、目が二つしかないのは異常』という格言があるようでして……ほとんどのニホン人は周囲に合わせて生きて行くのを良しとしているようです。むろん、そうではない個体も中に入るようなのですが、そのような人間は危険人物として社会から排除されるようですね」
「何と野蛮な……」
大司教が弱々しい声を出す。その頬には涙の痕が見られる。きっと、露出過剰な服装を強制され、迫害されている少女たちに同情しているのだろう。
そんな大司教の様子に気付いているのか、いないのか。教授は説明を続ける。
「えー。それでは次のページをご覧ください」
教授の言葉に従い、ナダムはページをめくる。
幸い、そこには写真も絵もなかった。ただの表だ。サブタイトルは……それを確認した途端、ナダムの背筋が凍る。
他の参加者たちも、息を飲むのが分かる。
「えー、これはニホンにおける人工妊娠中絶数を示したものです」
教授の説明。
「ニホンにおける人工妊娠中絶手術件数は年間に、8万ないし30万。推計値にはかなりのズレがあります。これは主として、ニホン政府の怠慢によるものです。どうにもニホン政府は、中絶手術を重要事項とはみなしていないらしく、まともに実態調査すらしていないようなのです」
そう言って教授は肩をすくめる。
「8万から30万……」
参加者の一人が絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
「何ということを……何の罪もない子供たちを殺すなどとは……」
大司教の台詞。その背中は、力なく泣き崩れている。
「しかし……これは一体……ニホンでは殺人が合法なのですか?」
出席者の質問。これに教授が苦笑する。
「いいえ、流石に違法です。ただ単に、胎児を人間ではなく、“モノ”と見なしているだけです」
「そんな馬鹿な!」
大司教が声を荒らげる。
「胎児であれ何であれ、神に授かった一個の生命だ! それを物などとは!」
「残念ながら、我々とニホン人では“人間”の定義自体が異なっているようです」
肩をすくめながら、教授が返答する。
「先ほどお話したように、ニホンでは胎児は人間とはみなされません。この為、中絶された胎児たちの末路は悲惨です」
教授の説明。この言葉に何人かの参加者はハッとした表情を見せる。
「中絶後、胎児たちの死体はさまざまな用途に用いられます。まずは臓器移植。体を切り刻んで使える臓器を摘出。臓器の交換が必要な病人のそれと取り換えられます。ほかに、医薬品の開発。要するに、人体実験です。新しく開発した医薬品がどの程度人間に使えるかをテストしているようです。そうして有用な部分を再利用した後、胎児の残りはゴミとして廃棄されます」
流石に、この説明にはナダムも強い衝撃を受けた。何の罪もない子供を殺し、ゴミにする! 一体何の冗談だ!
「神よ!」
「われらを救いたまえ」
そこ彼処から祈りの言葉が聞こえる。実際、ナダムもまた神に祈りたい気分にはなった。生憎とかれは、敬虔なロリータ教徒であり、聖典に従い滅多なことでは神の名を唱えたり、祈りを捧げたりはしないタイプの人間なのだが。
「信じがたい! この話が本当なら、ニホン人には倫理観の欠片も存在しないということになりますぞ!」
大司教が荒らげた声を出す。
「大司教。実際にそのようです。ニホン人の九割は無神論者なのです」
教授の返答。
「そんな馬鹿なことがっ」
ドウテー大佐がくちを挟む。
ドウテーの言うとおりだった。神を信じていない? どういう民族だ、それは。言うまでもなく、倫理観や道徳心、正義感といったものは神への信仰の中で生まれるものだ。それが、神を信じていないということはつまり、倫理観が存在しえないということ。彼らが無神論者であるというなら、ニホン人が胎児殺しを平然とやるのにも、少女たちに卑猥な性的格好を強制させていることにも説明がつく。
いや、ちょっと待て。そこまで考えてナダムはあることに気付く。そう、共和国は現在、モンゴール植民地で日本と勢力圏が接近しているのだ。モンゴール島南東端のバルード半島では、“カイハツエンジョ”とか言う名目で日本人が上陸。原住民を買収して、何やら怪しげな工法で井戸を掘ったり、作物を育てたりしていた。
そのことに思い至ったナダムの背筋が凍った。
こんな訳の分からん正義感皆無の連中と国境を接するとは! 一大事じゃないか!
幸いというべきか何と言うべきか、半島の付け根部分には急峻な山脈がそびえている。それに、ニホンには軍が存在しない。従って、すぐにどうこうなるという問題ではない。だが、しかし……。
「教授、ニホン人が神を信じていないというのは真なのですか?」
ドウテー大佐が質問する。
「はい、そのとおりです。ニホン人の九割は無神論者あり、厄介なことに彼らは自分たちが無神論者であることに、ある種の優越感を感じているようです」
「優越感?」
ドウテーが、カラスが水鉄砲を喰らったかのような奇妙な表情をする。
「はい、大変に興味深いことなのですが……どうにも日本人は宗教が争いを産んでいるとでも持っているようですね」
「神が争いを産む? それは原因と結果を取り違えているのでは? 神が争いを産んでいるのではなく、戦争を正当化するために神の名をかたっている野蛮人がいるだけだ」
ドウテーの指摘。
「えー、その辺は認識の問題ですので、私の口からは何とも……」
教授は何だか答えにくそうだ。ゴモゴモと口ごもる。最後の方は何と言っているのか聞き取れない。
「それと、神を信じている残りの一割なのですが、そちらにも問題があります」
教授が、いささか強引に話題を変える。べつだん深く追及する必要も無いので、ナダムもそれに合わせて会話を進める。
「問題ですか?」
「はい、問題です。ニホンにはニホン神話と呼ばれる神話が存在するのですが、この内容はいただけません。兄と妹で子どもをつくったり、女神が公衆の面前で裸になって踊りをおどったり、ニホン神話の神々――あ、ニホン神話は多神教を採用しております――は無茶苦茶をやっております。このような神を信じているようでは、無神論者ではない日本人たちの倫理観にも、全く期待が持てません」
教授の語るニホン神話。その内容は無茶苦茶だ。強姦? 裸おどり? そんな神を信じているような連中に、まともな倫理観などあるわけもない。
「そんな馬鹿な国が……道徳心の欠片もない……」
出席者の一人が、呆然自失といった様子で言葉を紡ぐ。
「はい。ニホン人の道徳心の欠如には、他にも恐るべきものがあります。例えば……資料の15ページをご覧ください」
教授に言われるがまま、ナダムたち出席者は15ページを開く。
「えー。ここに書かれているのは、日本における女子高校生の売春経験者比率です」
教授の説明。
「ここに書かれておりますとおり、その比率は実に3割。言うまでもなく、女子高校生というのは10代中頃から後半の若い女性であります。子供というべき年齢層です」
これに、ナダムは衝撃を受けた。むろん、衝撃を受けたのはナダムだけではない。他の参加者たちも同様のようだ。
「少女の三割が売春……」
「うーむ。こんなことが……」
出席者たちがうなり声を上げる。
「しかし……児童買春それ自体は、我が国にもある。主として、貧困家庭出身の少女達が生活費を稼ぐために売春業をしている、との報告が民生監督省よりなされていたはずだ。単純に日本では貧困比率が高いということなのではないの?」
この会議における唯一の女性参加者、セルノ・リン・セルバが教授に反論を試みる。彼女の役職は、植民地省 入植者生活水準改善対策課長。
入植者生活水準改善対策課というのは、植民地省らしい、無意味に長い名前のついた課の一つだ。もっとシンプルな名前をなぜ付けないのかというのが、他の中央官僚たちの長年の疑問なのだが、残念ながら当事者である植民地省内部には、そのことに疑問を持ったりする役人がいないらしい。もう何年十年も前から、長ったらしい看板を付けた課が存在し続けていた。
いい加減どこかの役所が、植民地省のネーミングセンスの破滅性について問題提起をすべきなのだが……。残念なことに、どこの役所もそのことを指摘することはなかった。指摘してもネーミングが改善するとは限らない一方で、余計なトラブルを引き起こすことだけは明白だからだ。
植民地省で唯一まともな名前がついているのは、“植民地省”それ自体だ。今から50年ほど前、“世界各地に点在する植民地を総合的に管轄する中央官庁の設置に関する協議委員会”の役人たちは、もっと長い名前を付けようとしたらしいのだが、初代大臣ゲルバート・ルント・マテァスの鶴の一声『長すぎる!』によって、“植民地省”と命名された。というエピソードは、もはや伝説の域に達している。
などということをナダム大佐が考えている一方で、議論は進む。
「セルバ課長、それがそういう訳でもないのです。ニホンでの貧困家庭比率は、さほど高くありません。一応、統計上は16パーセントという数字をはじき出してはいるようですが……これは統計上のトリックであって、実態とはかけ離れています」
「トリック?」
セルバ課長の問いに、教授は肩をすくめる。
「ニホンの統計では、映画を月に一回以上見に行けて、毎週肉が食え、毎日卵が食卓にのぼるような家庭を貧困世帯にカウントしているようです」
「はい?」
セルバ課長が奇妙な顔をする。
「それは上級中産層なのでは? ほとんどの共和国国民は、卵のような高級品を滅多に口にしない」
課長の指摘。これに教授は肩をすくめることで応じる。
「ですから、これは統計上のトリックなのです。実態は全く異なっています」
「興味深い。なぜそんな小細工を?」
課長の質問。これにはナダムも同意見だった。自国の貧困率を高く見せかけたところで、どんなメリットがあるというのか? 為政者が無能に見えるだけだ。普通、貧困率のような数字は低めに算出するものだ。
と、そこでナダムは、ある可能性に気付く。
「その貧困率は、反政府主義者や、政府内の非主流派が出したのですか?」
ナダムの質問。この問いに教授はにやりとする。
「ナダム大佐、そう考えるのが自然ですね。しかし、そうではありません。この数字はれっきとしたニホン政府の公式データから引用しました」
「しかし……そんなはずは……」
「ナダム大佐、それにセルバ課長。一見するとこれは奇妙な統計のようですが、実際のところこの数字には意味があります。どうやら、日本政府内での予算折衝が原因のようなのです」
「あぁ、なるほど」
その答えに、ナダムはなんとなく納得する。
貧困対策担当者がより多くの予算を手に入れようとすれば、貧困率を高めに算出するのが道理だ。貧困比率が高ければ高いほど、より多くの予算を財務部局に要求できるからだ。
だが、このやり方には問題もあるし、第一やり過ぎだ。毎日卵を食べられるようなアッパー・ミドル階級を貧困層にカウントするなど……常軌を逸している。そんな無茶苦茶な統計を出せば、予算折衝で対立関係にある他の政府部局にたいして、格好の攻撃材料を与えることになる。
統計データに多少手を加える程度のことはどこでもやっているし、一々目くじらを立てるようなものではない。だが、モノには限度があるのだ。やり過ぎれば反発を招く。
となると、つまり、要するにニホンでは貧困対策の部署が政治力を――それもそうとうな政治力を――持っているということなのだろう。
「では、教授、ニホンでは民生監督省が相当な政治力を持っているということ?」
セルバ課長の質問。どうやら彼女も、ナダムと同じ結論に達したらしい。
「そのとおりです、セルバ課長。厳密にはニホンには民生監督省は存在せず、代わりに厚生労働省なる官庁があるのですが、この厚生労働省は、ニホンの年間予算のおおよそ三分の一を消費しています」
「はぁ、三分の一ですか?」
ドウテー大佐が、横から口を出す。
「はい、三分の一です」
「それは……異常な数字だ」
セルバ課長が正直な感想を述べる。
「確かに、凄まじい数字です。まあ、さすがのニホン政府内部にも、この予算比率は無茶苦茶だという意見があるようです。ですが私が調べた限りでは、厚生労働省予算は増えることはあっても、減ることはないようです」
「信じられん。国家の任務をはき違えている。そもそも国家とは、国民と国土、主権からなっているものだ。政府はそれらを守るために存在している。貧困対策は無論重要だが、それだけのためにそれ程の予算を投じるなどとは……」
ドウテー大佐の台詞。呆れ半分、憧憬半分といった感じだ。まあ、それはしょうがないだろう。ナダムは分析する。士官学校を次席で卒業したドウテーは、軍務省本省で予算折衝を担当していたこともあるのだ。
そして無論、予算折衝では、より多くの予算を獲得すればするほど、上司から評価されることになる。国家予算の三分の一を獲得するなど、ほとんど夢物語。おとぎ話みたいなものだ。ある種のやっかみを覚えるのはやむを得ない。
「確かに。それほどの予算を民生分野に投じるのは、理解に苦しむ」
セルバ課長もドウテー大佐に同調する。
「それでは軍事予算は相当圧迫されているのでは?」
セルバ課長の問い。これに対し、教授は苦笑する。
「セルバ課長。驚くべきことですが、二ホンにはまともな軍が存在しません。ジエイタイという準軍事組織があるにはあるようですが、その組織は警察予備隊とよばれる警察力の延長です。したがって、圧迫されるも何も、ニホンには軍事予算そのものが最初から存在しません」
「それは……なるほど。だが、それではこの会議の主題は何なのだ? ニホンのことを脅威と呼んでいるようだが? 軍が存在しないなら、脅威にならないのでは?」
セルバ課長が、新たな疑問点を指摘する。確かに、とナダムも思う。軍が存在しないなら、脅威にはならない。子供にも分かる単純な理屈だ。
さて、教授はどう答えるのか。ナダムは興味深げに教授へと視線をやる。
対する教授は、自分の発言に矛盾を感じていない。自信満々のようだ。
「あー、脅威というのは、我が国にとっての直接的な脅威のことではありません。間接的影響及び、近隣諸国にとっての脅威です。みなさん、考えてもみてください。ニホンでは少女たちに卑猥な格好を強制し、みだらな姿をした女の子が街中にあふれているのですよ。そして我が共和国は、そんなニホンと交易関係にある。当然、ニホンを訪れる共和国人の数は多いし、その逆もしかり。となれば、ニホン文化の流入も、時間の問題というものではありませんか?」
なるほど、確かに。ナダムは教授に同意する。下着同然の薄布をまとった少女たちがロリータ国内を跋扈するような未来は、御免被る。こんな訳の分からん連中との文化的交流に、リスクがあるのは間違いない。
とくに、人工妊娠中絶は問題だ。子供たちを人間とはみなさないなどとは……。人を人とも思わないような危険な国家。一歩間違えば、われわれロリータ共和国人が“ひとでなし”に分類されかねない。
現時点で軍事的には脅威でないと言っても、後々問題にはなるだろう。
「うーむ、確かに」
「なるほど」
どうやら他の参加者たちも、ナダムと同様の結論に達したようだ。納得の表情を見せている。
「それに、ニホンの軍事力は我々には脅威にはなりませんが、周辺諸国にとってはそうではありません」
こうして二ホン対策会議は際限なく続き、ナダム大佐は後ほど、新妻にこっぴどく叱られることに……。
ちなみに、念のために書いておきますが、作者はべつに人工妊娠中絶反対派でもなければ、社会保障費削減派でもないですし、レオタード反対派でもなく、ミニスカ・ヒロイン検閲派などでは無論なく、スクール水着に反対している訳でもありません。むしろスク水なんかは大々的に普及して街中でも女子高生たちが……コンコン。
おや、誰だろう? こんな時間に?