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丑三つ時に逢いましょう。  作者: シュレディンガーの羊
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開けてはいけない扉





私の家には、決して開けてはいけない扉があった。


「そんなの普通じゃないよ」


小学校で友達の絵里ちゃんに打ち明けた時はそんな風に眉を顰められた。

普通のお家にはそんなお部屋はないんだよ、言って彼女は自慢の黒髪を手で背中へと払い除けた。

この前の日曜日に買ってもらったという赤い髪留めがきらりと光って、黒髪によく映える様をぼんやりと見ながら、私はそうなんだと不思議に思った。

だって、おばあちゃんは一度もそんなことは言わなかったから、私はてっきりどの家にも開けてはいけない扉というものがあるのだと思っていた。


その扉は、玄関と裏玄関のちょうど中間ほどの距離にある。

廊下の突き当り、階段を上るたびに目に入る位置にある。日が差しにくい廊下の奥の奥だから、いつもその周囲だけ夜のようにひんやりとしているのだ。

たいして装飾のなされていない、本当に簡素なただの扉。

それ故に、ちょうどドアノブに当たる部分がごっそり抜け落ち、汚れた布が押し込まれている様がひどく目立つ。

開けるためにはおそらく、その布を取り出し、その穴に指を4本ほどひっかけて手前に引けばいいのだろうか。

おばあちゃんの家に暮らして5年、一度も考えたことはなかったことを私はいつの間にか考えていた。

その扉を開ける算段なんて考えたこともなかったのに。

一度、考え始めると、それは蔦のようなしなやかさで私の思考に絡みつき離してくれなくなった。その蔦はやがてほかのものが目につかなくなるほどに、私の頭をその問いでいっぱいにした。




「何があるのか気にならない?」


はっとして顔を上げれば、後ろ手を組んだ絵里ちゃんが私を見下ろして笑っていた。

いつの間にか午後の授業は終わっていた。

ランドセルを背負い、口々にお別れを言いながら、友達たちは帰っていく。

傾いた夕日が教室をのぞき込んで、壁が燃えるような赤に染まっていた。

校庭を駆けていく声が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

そして、誰もが帰ってしまった教室で絵里ちゃんはその唇にそっと指を当てた。

夕日のように赤い唇は、ひどく艶めかしい、私と彼女の間に言葉を落とす。


「気になるよね」


濡れたように黒い髪をさらりと揺らして、絵里ちゃんは私を誘う。


「私も気になるの」


心臓が高鳴る、とはこういう時に使うのだろうか、と私は知らず知らず胸を押さえる。

どうして、彼女は私の考えていることがわかるんだろうか。

溺れるように飲み込んだ息に彼女の瞳が月を描く。


「行こう」


汗ばむ私の手を彼女はそっと取り上げて、ついと引く。

力なんてちっとも入っていないのに、私は抗えない何かによって立ち上がる。

ふふと猫のように軽やかに歩き出した絵里ちゃんは滑るように教室を出ていく。

消して速足ではないのに、私はもつれそうになる足を必死に動かして、彼女に手を引かれるままに家路をたどり始めた。

ランドセルを置いてきてしまったことも、上履きのまま昇降口を後にしてしまったことも気にならなかった。

いつもは誰かとすれ違う通学路は不思議なくらい誰の姿もない。

熟れ過ぎた林檎のように赤い夕陽もいつの間にかなりを潜め、青と紫を混ぜた油絵のような空が頭上に広がる。

でも、私はそんなことどうでもよかった。

繋がれた手のひんやりとした温度と、振り返らない絵里ちゃんの後ろ姿、それしか目に入らなかったから。




滑るような絵里ちゃんの足がようやく止まったのは私の家の前についた時だった。


「絵里ちゃん?」


絵里ちゃんはさっきまで軽やかに私の前を歩いていたのが嘘のように、石のように動きを止めてしまった。

けれど不安になった私が、顔をのぞき込もうとした瞬間に痛いほど強く私の手を引いた。


「痛い……! 絵里ちゃん!」


それは反射的に身を引いた私をものともせず、引き摺るほど強い力だった。

骨が音を立てそうなほどに握りしめられた手首にぞっとして、私はようやく周囲が異常なことに気が付いた。

終業からさほど時間は経っていない。

それならば、すぐ近所の広場では子供の遊ぶ声が聞こえるはずなのに、何の音も聞こえない。

それこそ、草木のこすれる音も、川の流れる音も、鳥の鳴き声も羽ばたきも聞こえない。


無音。


そう表現するしかない静寂が、ただ私を包み込んでいる。

空は気味の悪い油を浮かせたような歪な着彩を晒し、光の差していないはずの景色はぼうと浮かびあがるように目に飛び込んでくる。

ひきつれた呼吸が喉から零れ落ちる。

もう進みたくないのに、絵里ちゃんはずるずると私を家のほうへと引き摺って行く。

何の抵抗もなく玄関の扉は開かれた。

鍵はかかっていたはずだ。

嫌だ嫌だと、意味もなく首を振った拍子に涙が溢れる。

家に足を踏み入れた瞬間に、空気が変わった。

確かに、外も異常だった。

けれど、家の中の濃密な肌に絡みつくような気持ち悪さはそれ以上だった。

踏みとどまろうとした足は役に立たない。

膝をついても床に体を投げ出しても、それより強い力に引き摺られていく。

向かう先は一つしかない。

わかっている。

それでも、行きたくない。

その先に向かうほど、強くなる震えが、拒絶を示している。

歯の根が合わない。

私は許しを請う。

なんでもするから、もう考えないから、だから、どうか助けて。

支離滅裂で自分でも何を言いたいのか、わからない。

それでも、ここから逃げ出すことができればもう何もかもどうでもいい。

ずぶずぶになった脳みそではもう答えは出せない。

だから、ぴたりと引き摺る手が止まった時、私は一瞬、安堵した。

そして、


「う…………あ、うぅ…………」


目の前にある扉に、言葉を発することさえできなくなった。

布が、落ちていた。

わかる。

あの向こうにいるものがすべて。

黒々とした闇があの穴からこちらを見ている。

反らしたいはずの目は動かすこともできない。

再び、彼女が私を引き摺り始める。

無我夢中で逃げようとする私の髪を恐ろしいほどの力で彼女が掴みあげる。

ふっと、顔に風を感じて、半狂乱になっていた私はぴたりと動きを止めた。

涙で霞んだ瞳が、目の前にあるものを映し出す。

掴みあげられた顔の正面には―――――




目の前にあの暗い穴があった。





喉から迸りそうになった悲鳴は、暗闇に飲まれて、消えた。











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