死のバトン
何かが部屋の中を這いずり回っている。
眠るために明かりを落としてから、何時間経過しただろうか。
一向に訪れない眠りに、音もなく焦りは降り積もる。
…………嗚呼、また。
濃密な闇の中で、ずるり、とまた音がした。
一人暮らし3年目にもなれば部屋の間取りはもう、目を瞑っていてもわかるようになっている。それこそ、手に取るようにわかるのだ。
初めは、玄関のほうからだった。
空耳かと思って気にも留めなかった。
なかなか、訪れない睡魔に小さく舌打ちしながら寝返りを繰り返した。
まだ夏は先のはずなのに、妙に寝苦しい空気の重い部屋に苛立ちが募った。
見えないはずの暗闇で天井を睨み付け、この苛立ちを紛らわせるためにも、いつの間にか渇ききっていた喉を潤そうと決め、
――――――ずるり。
一瞬にして、氷を首筋に押し当てられた時のように体が強張った。
その音は扉のほうから聞こえた。
その音は、
扉の内側から聞こえた。
さっきまでの暑さは、波のように引いて、代わりにぞくりとした何かが部屋を満たす。
指先ひとつ動かせないことに、私はそのときやっと気づく。
からからに乾いた喉を震わせることもできず、私は息を殺す。
何も見えない暗闇の中を、何かが這いずっている。
それは、まるで――――
「死のバトン?」
「そうそう!」
級友の何気ない言葉から、それは始まった。
もうすぐ夏だね、なんて典型的な暇つぶしの雑談。
肝試しなんてどう、なんて安易でつまらない提案。
「そういえば、44人に今日中に送り付けなさいっていう典型的なチェーンメールが今日送られてきたんだけど」
そう言って彼女が遊びで送りつけてきたメール。
気味の悪い、不快感を煽るような文字化けした呪詛のような文面が延々と続くそれ。
「ふうん、死のバトンっていうなら、それでこれを受け取ったら死ぬわけ?」
「それじゃ普通でしょ? これの面白いところはね――――」
暗闇の中、また何かの気配が近くなる。
指先一つ、動かせないのに、歯の根が合わずに音を立ててしまいそうな顎を必死に止めている。
もう、何時間経ったのだろう。
あの気配に見つかってはいけないと、必死に息を殺し、目を見開いて。
断続的に耳朶を震わすその音は、彷徨いながらも確実に私に近づいてきていた。
脳みその中を蛇が這いずりまわるようなその音に耳を塞ぐことすらできず、喉を延々と爪でゆっくりと引っかかれるような不快感に気が狂いそうだった。
このまま、<それ>に見つからず、朝が来ることを願うのに、時計の針の音はいくらたっても朝を告げない。
――――――ずるり。
すぐ、そこにいる。
芯が入ったように動かない体がそれでも震えだす。
叫んだほうがまだ、気が楽なはずなのに、声が出せないことがもう限界だった。
少しずつ、少しずつ、音は近づいてくる。
浅くなった呼吸はもう殺せない。
――――その音は、まるでずたずたに引き裂かれた死体を引き摺るような音。
そして、その音は私の眠るベッドのすぐ下で止まった。
もう、時計の音は聞こえなくなっていた。
ぎいと、ベッドが軋む。
ぼたりとその高低差に何かが零れ落ちる音が響く。
まるで、臓器が零れ落ち、床に沈んだような、音。
<それ>の気配が吐息も触れるほど近づいた瞬間、
「ああぁぁぁぁぁああああ―――――――――――っ!!」
私は枕元に置いてあった、スマートフォンに手を伸ばし、タッチパネルを叩いた。
暗がりの中、ぼうとした光が私の周囲を微かに照らす。
起こした体でその光を振りまくように必死で腕を振り回す。
――――数十秒後。
部屋の空気は、いつの間にか元のじっとりと汗ばむようなものに戻っていた。
背筋を汗が伝い落ちていく。
肩で息をする私の周りには何もいなかった。
時計の針だけが部屋の静寂に落ちていく。
金縛りにあっていた体も、もう自由に動かせる。
胸にじわりと滲んだ安堵に、吐息が零れた。
ぼうっと光るスマートフォンが一段階その明度を落としたので、そっとタッチしようと指を伸ばしかけ、
ぶつり、と電源が落ちた。
光を失い、闇が広がる。
それでも反射的に画面を叩いた指先に呼応するように、蛍のような細切れの光が瞬き、
焼け爛れた血まみれの級友の貌が、目の前でにたぁと嗤った。
「ねえ、死のバトンって知ってる?」
「あぁ、あの受け取ったその日中に44人に回さないと死んじゃうってやつでしょ?」
「それ、ただ死ぬわけじゃないって知ってる?」
「どういうこと?」
にぃと、少女は嗤う。
「次の犠牲者を探して、死体のまま這いずり廻らなきゃいけないんだって」
お題「死のバトン」