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月下の踊り子

作者: 夜久野 鷯

 月下に貴女と花影が映る

 くるくる貴女は舞い踊る


     ◆


 僕は、とある女性の行動を陰から監視している、しがない泥棒だ。いきなり罪を二つも告白してしまったように思われるが、一つは生活のためにやっていることだから、どうか許して欲しい。もう一つの方は、単なる趣味だ。軽蔑してくれてかまわない。どちらが「仕事」でどちらが「趣味」かは、言うまでもないだろう。

 一応仕事の方には相方がいるにはいる。こんな言い方になるのには理由が二つあって、一つ目が現在は別行動をしていること、二つ目が相方と呼ぶには、あまりにも能力に欠けているということだ。多分、僕一人の方が能率はいいが、教育のためと半ば自分自身に言い聞かせてペアを組んでいる。

 二週間前に、僕は数十メートル先にいる女性と運命的な出会いを果たした。それから、今日に至るまで殆ど視界の中に彼女をおさめてきた。とても美人なので目の保養になる。ずっとこうしていたい気もするが、生憎それは叶わない。僕と彼女の立場を考えれば、それは明らかだ。

 二週間、ずっととまではいかないが彼女をストーキングしてきたことで、分かった点がこれまた二つある。一つは、彼女はフリーターであること、もう一つが毎晩、十時頃――ちょうど今頃になると、近所にある高台の紫色の花(夜は花が閉じている)が咲く丘で、なにやら舞を踊っている、という理解不能な行動をしている点である。理由は分からないが、相方――男で、名を藤井昂太ふじいこうたという――にはピンときているらしい。推理は教えてくれなかった。どうせ、嘘をついているのだろう。

 しかし、二月という、この寒い時期の夜に外で舞うとは、常識では考えにくいことだ。理由があってしていることだろうし、その理由はやはり二週間前のできごとに起因していると思うのだが……。

 暫く想像を巡らせていると、果たして彼女は来た。予想通りの動きを彼女がしてくれていることに、思わず笑みが零れる。

 月明かりの下でも分かる、胸のあたりまで伸びた艶やかな黒髪。肌は透き通るように白く、陶器のような美しさを秘めている。襟元にファーの付いたコートを脱いで足元に置くと、ふわりと裾の広がった黒いワンピースが見えた。彼女はいつも、ここに来るときは黒い服を着ている。闇に紛れる黒は、きっと追悼のためなのだろうと思っているが、それでも彼女の行為を理解できない。ただ、漆黒の着衣は彼女に酷く似合っているとだけ、思った。

 彼女はゆっくりと天を仰いでから、音も立てずに、静かに舞い始める。くるくると、可愛らしくもどことなく切ない、追悼の儀式。胸の中の想いが、彼女が巻き起こす小さな風に乗って波動のように広がっていく。彼女は悪魔だ。なのに、どうして。どうしてこんなにも、苦しそうなのだろう。

 闇夜に細い手が眩しく輝いて、三日月が彼女と、一面に咲き乱れる小さな紫の花の影を伸ばす。冷たく澄みきった夜空の下には、まるでただ一人、彼女しかいないかのような錯覚に陥る。僕は所詮、ただの傍観者なのだから。

 月下で踊る彼女を、僕は黙って見つめるほかない。今彼女に接近しては、すべての努力が水泡に帰すからだ。無能ながら藤井も僕の指令に従っている。自分の役割を果たす方が優先事項だ。

 月が光る。風が騒ぐ。花が揺れる。風が凪ぐ。彼女が舞う。

 ぜんぶ、ぜんぶ。僕はただ、見ているだけだ。



 入念な下調べは行ったはずだった。が、すでに何十件とことを成功させてきたことで、若干の気の緩みがあったことも確かかもしれない。ともかくその日、僕は泥棒のもっとも恐れるシチュエーションに出くわしたのだ。

 岡崎紗奈おかざきさなが買い物に出かけたことを確認してから、僕は玄関の扉をピッキングし、するりと中へ侵入した。家の主、そして彼女の恋人である日高洋太郎ひだかようたろうは普通の会社員なので、この昼の時間は出勤しているはずだった。

 が。彼は出勤していなかった。否、できる状況ではなかったのだ。金目の物を漁ろうとまず寝室に忍びこもうとした瞬間、時が止まった。ベッドに、彼は寝ていた。呼吸が止まっていることは一目瞭然だった。胸に、包丁が刺さっていた。仕事から帰った直後にやられたのか、ワイシャツを着たままだった。シャツもシーツも、元は白かっただろうに赤く染まっていて、もう黒ずみ始めていた。鉄っぽい臭いは、悲しいことに慣れきってしまっているため、気にならなかった。念のため方や腹を触ってみると、死後硬直の具合から殺害された時刻は半日前、昨夜十時頃だと分かる。一夜を死体と共にしておきながら警察を呼んでいないのだから、彼女が犯人であることは明白だ。

 真っ先に思ったのは、警察に電話をしなくてはならない、ということだった。携帯に手を伸ばしかけて、慌てて思いとどまった。自分は泥棒なのだ。下手したら、犯人にされてしまうかもしれない。まあ流石にそれはないか、とはすぐに思ったのだが、どちらにせよ通報はできない状況だった。

 匿名で人が死んでいる、と伝えてもよかったが、応答する相手によっては自分だとばれてしまう可能性もあった。警察の中では、僕はエリート刑事――『捜査一課の次期課長候補』とだけあり、かなり有名な方らしい。皮肉なことに。

 僕は迷った。まさか忍びこんだ先で人が死んでいるとは思いもしなかった。この瞬間、仕事と趣味が交わったのだ。決して交わることはないと思いこんでいた、この両者が。

 この迷いが、結果として僕を苦しめることになった。

 後から気づいたことだが、彼女の様子がおかしかった、気になって会社に連絡したら、無断欠勤しているという、だから思いきって突入した、とでも言えばよかった。彼女は当然なにか言うだろうが、『問いつめる側』と『問いつめられる側』の差は大きい。自分の警察内での立場も利用すれば、泥棒をしていたという事実はもみ消せたかもしれなかったのだ。

 迷っている間に、紗奈が帰ってきた。驚いて時計を見ると、五分そこそこしか経っていない。ベッド脇に、ピンク色のスマートフォンが置かれていた。彼女のものだろう。携帯を忘れたことに気づいて、取りに帰って来たのだ。

 恐ろしいことになった。自分は警察だ、この死体はなんだ、とは言えなかった。頭脳明晰と称えられる僕だが、この状況では自慢の思考回路も働かなかった。僕が選んだのは、押し入れに隠れる、というなんとも幼稚な行動だった。

 押し入れを開けられた瞬間、僕の人生は終わる。殺人鬼と対峙してもたいして緊張も恐怖も感じなかった僕が、泥棒に入った女性の家の押し入れでただただ、震えている。客観視してしまえばなんとも情けなく感じられるが、そのときは自分の運を信じて、危機が去っていくのを待つしかなかった。

 幸運にも、彼女は目的のものを取ると再度外出したようであった。押し入れの中から玄関の扉が閉まる音を聞くと、どっと汗が噴き出た。知らぬ間に止めていた呼吸が再開して、一気に息苦しさを覚える。それでもすぐには姿をさらす気になれなくて、何度も無人(死体はカウントしない)であると言い聞かせてようやく戸を開いた。季節が冬であることも幸いし、死体の腐乱は進んでいない。血の匂いが充満しているだけだ。常人なら吐き気を催すだろうが、前にも述べた通りすっかり慣れてしまっているので、ひんやりした空気が美味しく感じられた。そんな自分に、乾いた笑いが漏れた。

 とりあえず僕は、押し入れの中を元に直してからじっくりと金品の物色を始めた。向こうは向こうで殺人の罪を犯しているので、通報はできないという弱みを利用する。箪笥、ジュエリーボックス、ある程度的を絞って調べていけば、当初の目論見以上の額のものが手に入った。住居の割には、高価なもので、道具を換金すればざっと十万にはなるか。現金も合わせれば、二十万近くの臨時収入だ。これだから、泥棒はやめられない。ばれずに侵入し、気づかれない程度のお金を掏る。なくなったような気がするが、今一つ確信が持てないがために通報はしない。その僅かさの匙加減がなんとも面白く、危険と隣り合わせのスリル感が僕の心を高揚させるのだ。僕の一番の趣味だが、残念なことに他人には教えられない。誰も知らない、エリート警察の秘密だ。今回のようにあからさまに盗ったのは初の試みだが、これはこれで大胆不敵というか、満たされるものがある。

 常に犯罪者、即ち悪と関わる警察官は自分自身を正義だとでも勘違いしがち――特に、藤井はそうなのだ――だが、僕はそうは思わない。それは、驕りでしかない。そもそも、人によって正義の基準は違うと思っている。正義と悪のラインは一概に引くことはできないだろうし、視点を変えれば正義は悪にもなり得る。そういったことを、警察官としての僕は嫌というほど見てきた。

 目的はなんとか達成したわけだが、一端の刑事として殺人を見過ごすことはやはりできない。泥棒のくせにと思った方、それは正しい。改めて、己のクズっぷりに呆れる。

 とりあえず、スーツの中から名刺を一枚抜き取っておくと、今度こそ僕は彼女の家を出た。そこから自宅に帰るまでに、不審に思われるようなことはなかった。刑事としても盗人としても、僕は一流なのだ。



 この一面に咲き乱れる紫色の花は、どうやらクロッカスというらしい。自生はあまりないというから土地の所有者が育てているのだろう。彼女の舞を視界の隅で見届けながら、ざっとスマホで検索したのだった。花の色、大きさ、花弁の数、生息地を入力すると、同じ形をした花が画面に映し出された。他にも黄色や白の花を咲かせることもあるらしい。この辺に来るまでに白い花も咲いていたが、色が違うだけで、同じ種類の花であったようだ。わざわざ遠くの紫の方で舞うには、やはり相応の理由が必要だろう。そしてその理由も、僕はようやく理解した。

 あのできごとの後、僕は名刺に書かれていた会社と連絡を取った。日高洋太郎という人物が、会社を無断欠勤しているかどうかを調べるためだ。果たして、彼はやはりそうしていたが、会社は彼の解雇をすでに決定していた。どうも日高という男、遅刻は当たり前、欠勤も珍しいことではなく、社内での態度にも、いささか問題があったようだった。次休んだらクビにする、という勧告を出されていたとかで、遂に彼は職を解かれたのだった。ろくでもない男だ、同情の余地はないが、まさか会社の社長も最後の欠勤は自らの意志でないとは思いもよらなかっただろう。

 真面目な会社員が突然休んだ、事件に巻き込まれた可能性がある、というシナリオは駄目になってしまった。こうなると、彼女の行動を見張って、怪しいところがないかを徹底的に調べるしかない。どうせなら、窃盗でもしてくれれば逮捕状が出せるのだが、と思うが、この二週間、彼女、紗奈はごくごく普通の生活を送っていた。死体はまだ家にあるはずだ。流石に異臭を放っているだろうが、大丈夫なのだろうか。

 しかし、犯人にここまで付け入る隙がないとは思ってもみなかった。だから、僕は最後の手段に出ることにした。きっと、警察内では僕にしかできない荒技だと思う。

 ――この辺りのマンションを狙った泥棒が出没しているらしい。住民に、注意を促す勧告を出してはくれないか。

 これは、課長が僕と藤井を呼び出して言った言葉だ。まさか、僕自身にその役回りがくるとは、と多少の驚きを感じたが、顔には出さない。そもそも一課の刑事に行わせる仕事ではないだろうとも思ったが、ここ最近物騒な事件も少なく、一課の人手が余っていたことで回ってきた仕事だろうと推測する。勧告のために家を回っていく過程で死体を発見してもよかったが、僕はあえて藤井一人にその仕事をさせることを選んだ。僕には、紗奈を見張るという別の仕事があるからだ。

 これも経験だと適当なことを口にして課長に納得させ、早速藤井をマンションに送り込んだ。昼間は注意を促しに。夜間は泥棒が来ないかを見張りに。もう泥棒は来ないので、夜の方は完全に無駄な業務だ。すまない、藤井。

 もう察しているとは思うが、この泥棒とはまさしく僕のことである。死体を見つけた日の、大胆に盗んだ快感が忘れられず、同様の罪をと考えたときにこの作戦を思いついた。そこで僕は、マンション――特に、彼女の部屋の付近でこれでもかとばかりに盗みを働いた。警察にマークさせるのが狙いである。予測通り、藤井を遣わせることに成功した。それが二日前。そろそろ、彼女の家にも藤井が向かう頃だろう。今日はもう遅いので、明日辺りになるか。

 乾燥した夜空には、すっかり細くなってしまった三日月が浮かんでいる。彼女を初めてここで見たときは、満月に近かった。月はじわじわと侵食されていて、彼女の平穏の崩壊も目前に迫っている。

 紗奈の舞は、いよいよ激しさを増して、終わりを迎えようとしていた。指先は婀娜やかにうごめいて。乱れた黒髪が月に光る。静かな月のスポットライトを浴びて、おそらく最後になるだろう彼女の舞を、遠くから見届ける。

 突然、藤井から電話がかかってきた。静寂の夜をバイブ音が駆け抜ける。ヒヤリとしたが、存在がばれた気配はない。


「どうした」

『あ、原口はらぐち先輩ですか』

「僕以外が出たらおかしいだろ」

『うっ、そうですよね。あのー、いま日高って人の家の前なんですけど……』

「留守なら明日もう一度行けばいいだろう」

『そうじゃなくて、なんか、最近異臭がするって話を聞いて』


 死体があるのだから、当然だろう。そのままひとまず事件を放置して、異臭で突入するという手段もあったのか、と今更に思う。わざわざ、危険を冒してまで盗みに入る必要は皆無だったわけだ。臨時収入は嬉しいが、リスクも高かった。捕まる気配はないから、そこまで不安には思ってないが。


「ほう、異臭か」

『はい。この日高って人も最近姿を見ないとかで……まあ、もともと引きこもりがちな人だったらしいんですけど。会社もクビになっちゃったらしいですし』

「異臭、消息不明……気になるな。部屋には誰かいるのか」

『いえ、留守みたいです。女の人……岡崎さんって人と同棲しているらしいんですけど、彼女フリーターなんで、なかなか捉まらないかもしれないですね』

「この短期間でそれだけ調べたのか、見直したぞ」

『お隣さんが教えてくれました』

「…………」

『あっでも、彼女の居場所なら分かってるんです! これはちゃんと自分で調べました』

「ん?」

『えーっと、あのマンションから二十分ほど歩いたところの高台、分かりますか? すごい花が咲いているところです。岩とか木もいっぱいあって。いま自分は白い花のところにいるんですけど、その先の紫エリアにいるんです、彼女』

「高台か、場所は大体分かる。彼女の様子は?」

『踊ってます。まあ、その理由、自分は分かってるんですけどね、ふふふ。原口先輩分かりま、』

「要するに、彼女の近くにいるってことか」

『…………。ええと、どうしますか? 話を聞きますか?』

「お前はどう思う。彼女は、白か、黒か」

『真黒です。イカ墨みたいですね』

「なら、聞いてみろ」

『分かりました!』


 困ったことになれば、僕が助けてやる。

 心の中で、付け加えた。



 暫くすると、クロッカスの花を踏まないように気を配りながら、藤井が現れた。紺のスーツに、ネクタイの色はおそらくモスグリーン。それとグレーのコート。歳は僕より五つ年下の二十六歳。若い割に、地味な格好をしていると思う。理由を問えば、顔がいいから地味でも大丈夫、などと言いそうだ。

 彼女が、藤井に気づいた。訝しんでいる。当然だろう。


「あのー、ここで、なにをされているんですか?」

「え?」

「あっ。いやぁ、そのー」

「失礼ですが……どなたですか?」

「藤井です」

「はあ……私は、岡崎です」

「はい、知ってます」

「…………」


 疑問が恐怖に変わる瞬間を、はっきりと確認したところで僕は飛び出した。やはり、藤井一人に任せるべきではなかったのだ。僕の判断ミスだ。だが……飛び出しながら、彼女の顔にほんの一瞬だけ安堵が走ったのは、見間違いだっただろうか?


「あの、ちょっといいですか……っ」

「え、原口先輩?」


 新たな登場人物に、いよいよ紗奈の不安が爆発しかけたところで状況を説明する。


「驚かせてしまって申し訳ありません。僕たちは、この辺りにクロッカスの花を見に来たんです。そうしたら、貴女が踊っていらしたので……。ところで藤井、どうして彼女の名前を知ってんだ?」

「あー……」

「あ、そうだ。もしかして、アルバイトとかしてましたか? こいつ、その店員の名前覚えるの得意なんですよ」

「ああ……。はい、コンビニは何件も働いて回ってますけど。そうですか、……お客さまだったんですか」


 いまひとつ腑に落ちない様子だったが、あり得なくもない話だと思ったのかそれ以上深くは突っ込んでこなかった。

 その代わりに、彼女は別の質問を投げかけてきた。


「花の名前、よくご存じでしたね」

「ああ。綺麗な花ですよね。初めは知らずにこの花畑を見に来ていたんですが、名前を知りたくなって調べたんです。だから、他の花は全然分かりません」

「そうですか。でも、この花は、私にとっては特別な花なんです」


 そう言い微笑む彼女は、笑っているのに泣きだしそうな表情で、それを見つめる僕も、心が締め付けられるかのようだった。知らず彼女に肩入れをしてしまいそうで、慌てて考えを改める。彼女は悪魔なのだ。恋人を殺していながら平然としている冷酷な女なのだ。


「私には……ずっと一緒に暮らしていた恋人がいるんです」


 目線は、遠くの白いクロッカスの花畑に向けられていた。暮らして、の部分は過去形なのに、いると現在形で締めくくっている部分に、違和感を覚えた。彼女自身、家にまだ死んでいるとはいえ彼の、彼だったものがあることで、彼女の中でも気持ちの整理がついていないのだろう。


「彼と一緒に暮らすことになった日に、彼が私にクロッカスの鉢植えをくれたんです。白と、黄色の二色が植えられていて……クロッカスは紫もあるでしょう? って聞いたら、紫の花言葉を知ってる? って逆に訊き返されて。それも、すごく笑顔で」

「紫……花言葉は、なんだったのですか?」


 僕は答えを知っているが、知らないふりをして問うた。


「白や黄色には、信頼、堅実、歓喜……それから、私を裏切らないでって意味があるんですって」


 彼女は、なぜかずれた回答をした。

 しかし……彼を殺した彼女は、結局彼を裏切ったのだ。


「それから一緒に暮らす生活が始まって――でも、彼はよく仕事を勝手に休んだり、遅刻したりで勤務態度が最悪で。私も何度も注意したんですけど、聞き入れてはくれませんでした。だから、私もアルバイトをして生活費の足しにしてました。でも……二週間前」


 彼女が視線を向けた。挑むようなものでも、熱のこもったものでも、縋るようなものでもない、諦めにも似た、虚ろな視線を。

 僕は、自分の乾ききった笑いを不意に思い起こした。いまなら、僕は彼女の気持ちを理解できる。理解できてしまう。


「お二人は、刑事さんなんでしょう?」

「ばれていましたか」格段驚きはしなかった。

「雰囲気が、いかにも警察の方らしいわ。特に、貴方。一見、そうは見えないけどきっととても優秀な方だと思うわ」


 そう言って、彼女は僕に微笑みかけた。その艶やかさに圧倒されそうになりながらも、「ありがとうございます」と返事をする。三日月の下で優雅に佇む姿は、映画に出てくる女優のようだと、ぼんやり考える。


「私がここで舞を舞っていた理由……分かるかしら?」


 紗奈は悪戯っぽく、さながら歌でも歌っているかのように言葉を口にした。僕は、藤井を試すことにした。


「そういや、お前、その理由分かってんだったよなぁー」

「えー……そんなこと、言いましたっけー」

「口笛を吹いて横を向くな」

「うぐっ、……分かりましたよ、言ってやりますよ、自分の名推理を!」


 迷推理だろ、と胸の内で呟く。とりあえず藤井の推理を聞いてみることにしよう。


「まず、岡崎さん。貴女はその恋人の男性、日高さんを殺害したんです」反応を藤井が確かめる。

「それで?」彼女は表情を変えない。

「それで……岡崎さんは、毎日十時頃になるとここに来て踊ってましたよね、十時頃になると」時刻を藤井が強調する。

「ええ」彼女は普通に同意した。

「でー……それは、彼を殺した時刻なのでは?」藤井が笑う。

「そうだとしたら?」目立った反応はない。

「だから……えーっと、あの、ここまで当たってますかぁ?」


 当たっているが、僕はそうとは言えない。ひとまず後輩に「自分の推理に自信を持て」とだけ言った。しかし、死亡推定時刻を言い当てるとは、たいしたものだと藤井の成長に僅かながら感動を覚える。有能な上司の部下は優秀になるのか。


「自信を持ちます。続けますね」一呼吸置いて、「この舞は、殺した時刻になると急激に襲ってくる、殺したときの恐怖や怒り、そして後悔を忘れるために行っているのでは?」


 いよいよ推理の全貌を明かした藤井、自らが考えた動機が正しいのか、その結果を、息をのんで待っている。

 彼女はゆるりと頬を緩めると、無言で首を横に振った。藤井が項垂れる。とんとんと背中を叩いてやった。まだ、甘い。


「どうやら藤井の推理は違ったようですね。では……折角です。僕の推理も、聞いていただけますか?」

「ええ」彼女は少しだけ、笑みを見せる。

「藤井が言っていた推理を一部そのまま利用します。死亡推定時刻、すなわち犯行時刻ですが、それはやはり二十二時でしょう。彼を殺していた時間に、貴女はここへやって来て舞を舞っている」

「それで?」心持ち冷淡な返答だ。

「ただ、その理由を彼は間違えた。貴女は、自分の犯した罪の重さに耐えきれずに――ある意味では、そうかもしれませんが、ともかく、激情を忘れるために踊っているのではない。むしろ、逆なのです。自分が何をしたのか。それを忘れないためにここへ来ている。そうですね?」

「……それで?」

「先ほど教えていただけなかった、紫のクロッカスの花言葉。それは、愛の懺悔。愛したことを、後悔する……簡単に言えば、そんな意味です」


 冷静だった彼女の顔に感情が戻ってくる。安心感だ。先刻僕が感じた気配は、やはり間違っていなかったのだ。

 罪を暴かれることで、彼女は救われようとしている。警察に出頭することも、かといって我を忘れて狂いきってしまうことも、そして彼を忘れることもできず、鎖で何重にも拘束され身動きが取れなくなっていた彼女に、僕はそっと手を差し伸べる。たとえ行きつく先が冷たい牢獄でも、彼女は後悔しないのだろう。彼女が唯、後悔するのは――。


「駄目人間の彼なんて別れてしまえばいい。でも、そうやって簡単に割り切れるものでもなかった。貴女は、彼を愛していたから。ろくでなしだと知っていながら、それでも彼を愛していた。だから、離れることができなかった。でも、不真面目で、自分が汗水垂らして稼いだアルバイト代が彼のために消えていくこともまた、プライドが許さなかった。大方仕事のことで、彼と揉めたのでしょう? 遊びで夜遅くに帰ってくる彼と口論になり、それでつい殺してしまった。でも、殺してしまって気づいた。大切なものを自ら葬ってしまったことに。愛するというのは、本当に罪なことだ。愛の恩恵を受ける相手が駄目人間なら、尚更。貴女は心の底から後悔したはずだ。殺してしまったことを?」


 月影が彼女の顔を照らす。固く閉じられた唇がなにかを言いかけるのを制して、僕は言葉を継ぐ。


「……そうじゃない。彼を愛したことだ。憎い相手を殺しても、さして心を苦しめられることはない。貴女は、そういうタイプの人間だ。しかし、殺めた人間が心底愛おしく想う人ならそうはいかない。愛していなければ、殺してしまったとしても自分は苦しまずに済んだ。愛していなければ。愛してさえいなければ。だからあなたはここで舞っている。愛の懺悔。その言葉を、思いを、忘れないために」

「愛の懺悔……愛したことを、後悔する。本当に、……あんな人でも、どうしても離れることができなかった。でも、やっぱり許せなかったのよ。自分ばかりが苦労することが」


 彼女が自嘲気味に呟く。推理に対する同意の意味だ。端正な顔立ちに、ふと黒く闇が差し込んだように見えた。やはり、彼女に黒は酷く似合っている。

 刃のように鋭く光る三日月を仰いでから、彼女は黙って両腕を差し出した。手錠は掛けず、足元のコートを拾って渡す。彼女は瞬間微笑んで、それを受け取った。


「もう、終わりにしましょうか」


 紫のクロッカスを背に、僕らは歩き出す。

 風が花を揺らして、それきり、凪いだ。

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