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中華飯店

作者: 糸川草一郎

中華飯店の話ですが、店員は中国人ではありません。

 通院の日に必ず立ち寄るカレー屋がある。そこは年中無休で、どちらかと言えば、私の経済事情ではなかなか這入れない高い店なのだが、月に一度の贅沢のつもりで、いつも寄るのである。そこは日本へ来て十五年という、親日家のネパール人がやっている店であって、手製のタンドール窯で焼かれるナンが美味しいので、毎月楽しみにしている。

 今月もそのつもりであったが、今日は生憎の雨で、雨の日の通例としていつものように大きめの傘を差し、本降りの道をしばらく歩いて、やや遅く病院へ行き、診察と、薬を貰うのを遅くさせてもらって、お昼時に病院を出たのだが、例によってそのカレー屋の前を通ると、店の中は真っ暗で、入り口に「営業中」の札が出ていない。のみならず、準備中の札も出ていないので、妙だなと思った。

 朝から降り続いている雨は、カレー屋の、オレンジ色の日覆いから、雨の飛沫と軒からの滴をぼたぼたと零し、自動ドアの、いつもは小奇麗な玄関先の、大きな水たまりをさらに大きなものにしていた。

 しかし、日頃のこの店は、傍目から見ていても評判は上々で、客の入りはよく、遅く行くと行列ができているほどの店である。店の人とも話をしているが、儲からない話などはしていないし、「お蔭さまで」とオーナーはいつもにこにこ話していたのであるから、経営が傾くはずもない。もしかしたら身内に事情があっての、臨時休業かも知れないと思い、今日はやむなく、そこから少し離れた中華の店を覗いてみることにした。

 しばらく歩いている内に雨は小降りになって来て、十分ほどしてその店に着くころには、もうほとんど止みかかっていた。玄関には傘立てはなく、空っぽの植木鉢のようなものが置いてあったので、それが傘立てのつもりだろうと思い、立てかけた。まだ傘の客は一人もきていないらしかった。

 早めの時間帯で駐車場にも車がなかったので、これは空いているかと思った。中に這入ると意外なことに、どこのボックスもすでに客がいっぱいであった。照明は薄暗く、店内の席はほぼすべて赤いボックス席であって、それ以外は大きな座敷になっているのだけれど、そこも壁が赤く座布団も赤で、テーブルも血の色のように赤かった。辛うじて空いているボックスを見つけたので、そこへ行こうと歩くうちに、中にいたその大勢の客が、みな一様に、私の方を見ているような気配がして、嫌な気持ちになった。

 店内はかなりの広さであるので、相当たくさんの客がいるようであったが、にもかかわらずどういうわけか、水を打ったように静まり返っており、どこのボックスの客も、まだ食事はしていないようであって、客はみな生ビールのジョッキやら、アルコール類を昼間から飲んでいるらしく、ボックスを仕切っている玻璃越しに見る、各々の客たちの目はもう据わっていて、意地悪そうな目をしている者もおり、それらが、みなこちらを窺っているような気配であったので、私としてもあまりいい気分ではなかった。

 メニューのアルコールのところを見ると、大ジョッキが五百円とあって、さすがに安いなと思い、昼ではあったが、今日は仕事を休んだのでそれを飲むことにして、それから麻婆茄子定食を頼んだ。中華の店だが給仕は流暢な日本語を話す人のようであって、私の言う中国名の料理の名前も理解できたようなので、とりあえずほっとした。

 それはいいのだが、給仕が向うへ行ったきり、まだ水とおしぼりを持って来ない。手を挙げてもやって来ようとしないのでいらいらしていたが、席の傍らに呼び鈴があるのに気づいたので、それを鳴らしてみると、呼び鈴の音は静まり返った店内に大きく響き渡ったので、周りにいた客が一斉にこちらへ向き直った。それで私も一瞬身構えてしまったが、客はまた気を取り直したのか、正面を向いて飲みはじめたので、ほっと胸をなでおろした。

 一呼吸して、給仕がやってきたから、用件を告げたが、さっきの人とは違う給仕であって、言葉もよくわからないようだから、おしぼりを説明するのに随分骨が折れた。やっと理解して、しばらくすると持ってきたが、おしぼりはこの季節だというのに、氷のように冷たかった。

 しばらくして、大ジョッキが運ばれてきたから、さっそく飲んでみると、なかなか旨い。旨いからぐいぐい飲んでいると、周りの席の客もさらに酔って来たらしく、店内がだんだんざわつき出した。

 と、向うで食器が割れる大きな音がして、客が給仕を呼んでいる。どうも客の一人が気分を悪くしたらしく、抱えられて座敷の方の広いところに寝かされ、介抱されているようである。同伴の客が感情的になって大声をあげているから、店内が妙な空気になってきた。

 その客は何やら激昂しながら、私の方を指さして、叫んでいるようだったが、何を言っているのか聞きとれず、そのうちそれが飛び火して、あちらこちらでわけのわからない罵声が飛び交いだした。

 最初何を言っているのかわからなかったが、彼らはみな一様に私の方をちらちら見ながら、叫んでいるので、私も穏やかではなく、出来るだけそちらを見ないようにして静かに飲んでいると、給仕が来た。すると、それを合図にしたかのように、店内の客がみな一斉に声を上げるのをやめたので、却って私は吃驚した。給仕ははっきりとした静かな日本語で、私にこう言った。

 申し訳ございませんが、お引き取り下さい。代金はいただかなくて結構でございますから。

 どういうことかわからないので、彼に説明を求めると、向うは順序立てて話しているようであったが、日本語なのに何を言っているのか判らず、それは自分がおかしいのか、給仕がおかしいのか、どういうことか判断がつかなかった。大ジョッキを半分ほど飲んだだけだから私は大した酔いではないはずなのだ。

 ただ話しているうち、給仕の話し方はだんだん激してきて、なおかつ瞳がぎらぎらと光って来た。まるで火の玉のように思えてきた。恐ろしくなってきたので目を伏せると、向うから激しい笑い声が聞こえた。まるで猿のような高い声であった。吃驚してそちらを見ると、店の客たちはみな立ち上がって目を光らせ、私の方を向き、げらげらと笑い出した。店内は大きな笑い声に包まれていった。が、その光る目は誰一人として、ちっとも笑ってはいないのだった。

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