憑かれた両足
今回初めて小説を書きました。プロットもほとんど決めずに取り掛かったので、相当読みにくいとは思います。それでも読んでくれた方はぜひ、良かった点と悪かった点・改善点、感想などを書き込んでくれるとうれしいです。
部活動が終わった後、森野正は部室にいた。夏の日差しは容赦なく照り付け、今日も陸上部員たちは皆、全身にびっしょりと汗をかいていた。既に汗で濡れたタオルで首筋や顔を拭うと、じめっとした感触に幾分か暑さが和らいだ気がした。
正はこの中学校の陸上部員に入部して、3年が経とうとしている。実力はあまりつかず、公式試合は一回も出場したことがない。年々入部してくる下級生よりもタイムが遅かった。自分が陰で何といわれいるのかを知っている。『万年補欠のランナー』、同級生が付けた渾名は、伝播して下級生たちにも言われる始末である。
だが正はそのような汚名にもめげず、陸上を続けてきた。それには理由があった。現在は大分感情が正常になったが、ときどきもやもやした黒雲のような感情がが胸を締めつけるときがある。トラックを走っているとき、授業中に窓枠に広がる青空を見たとき、道路の道路脇に献花されている花束をみたときなど、あらゆる場面で苦い記憶としてフラッシュバックするのだ。
正はタオルを鞄にしまい、他の陸上部員たちが、これから集まって遊ぶ計画を立てている話を背中越しに聞きながら、部室を後にした。
学校での休み時間、陸上部に所属する同じクラスの吉見浩が話しかけてきた。
「よっ、浩。今日も暑いな」
暑さに顔をしかめながら正の席の近くまできた。
近頃の節電意識の高まりから、クーラーの自粛が行われており、窓を全開にしても、うだるようなもわっとした熱気が教室内を包み込んでいる。
休み時間の教室は、生徒たちの話し声が飛び交い、まるでこの暑さに負けまいとする集団行動にも思えてくる。
「よう。なんだよ。どうかした」
暑苦しそうな態度で正は訊いた。
「今の授業あったろ。三限目ってどうしてこう眠くなるのかな。ついつい睡魔に負けてノート取り忘れちゃったよ。だから今日進んだ分のノート、貸してくれないか」
今日の言い訳は「睡魔に負けた」だが、ある日は「おなかの調子が悪くて」とか、またある日は「明日までに出さないといけない課題を授業中にやってて」などといって、休み時間になるとひょろりと席にやってきて調子よく本題を切りだしてくる。
ここは素直にノートを貸してあげるのが賢明だ。
「おっ、サンキュー。いつも悪いねえ」
差し出したノートをすっと取ると、自席の机の中に押し込んで、わいわい騒いでいる別のグループの輪へ入っていった。
正は特に何もすることがなく、腕を枕にして机に突っ伏した。
浩は正の同級生で陸上部で知り合った。お調子者でひょうきんな性格である。正は表面上は問題なく関係を維持しているように端からは見えるが、内心は穏やかではない。それは彼も同じかもしれないが、お互いそれを口に出すことはしなかった。少なくとも正の場合は――。
放課後、掃除当番だった正は箒で教室の床を掃いていた。教室内にまだ残っていた生徒が男女混じったグループになって、窓際で談笑していた。
「そういえばさ、こんな噂知ってるか」
眼鏡をかけた男子生徒が面白い話をするぞという顔つきでいった。
「なんだよ。何か面白い話でもあるのか」
短髪の男子生徒が興味津々で尋ね、他の生徒たちの目線もインテリ風の眼鏡に集まった。
「この近くに……あれが出るらしいぞ」
神妙そうな口調で眼鏡をかけた男子生徒がいった。
「出るって何が?」
さっきまで嬉々としていた男子生徒が急に不安な表情になり、その短髪を触った。
眼鏡をかけた男子生徒はにやりと唇を引き上げると、手を前に出し、両掌の指先を下に向けて、「幽霊だよ」と、小さく低音でいった。その声は人を怖がらせる響きを持っていた。
女子生徒が、きゃっ、と短い悲鳴を上げた。
眼鏡をかけ直し、してやったりとばかりに満足そうな顔を浮かべた。
「いったいどこに出るんだよ。その……幽霊が」
依然として引き締めたまま表情で短髪の男子生徒が訊いた。
「学校から自転車で十分ほど漕いだところにある洞窟らしい」
床を掃くふりをしながら近くで聞き耳を立てていた正は「洞窟」という言葉にぴくりと反応した。
「お前見たのかその洞窟で、幽霊を」
唾をごくりと鳴らして短髪の男子生徒は恐る恐る訊いた。
「いや、俺は見てない。この噂は隣の教室のやつから聞いたんだ。何でも最近たまたま洞窟の前を通りがかって、暑さ凌ぎと好奇心ついでに洞窟の中へ入ったらしい。ちょうど夕方頃で日も沈みかかっていた頃だ。洞窟内を進むと行き止まりに出くわした。少し座って休んだあと、引き返そうとしたら、その行き止まりから何か白い影がぼーと現れたみたいなんだ。夕日の光が差しているのかと思ったらしいが、辺りは真っ暗で光が差し込んでいるわけがなかった。地面から浮かび上がった光を見たといっていた」
皆、真剣な表情で話を聞いている。
「気味が悪くなって入り口に引き返そうとしたら、うまく聞き取れなかったそうだが何かを話しかけられたらしい。全身鳥肌が立って全速力で入り口へ逃げ帰ったんだと」
へー、と周りの反応と恐怖に怯える表情を見て、語り口の男子生徒は御満悦だ。
「じゃあさ、その洞窟に今度行ってみようよ」
素っ頓狂な声で女子生徒が右掌を広げて高く上げた。
「何言ってるんだよ。絶対アブねえって。涼みに入って幽霊と出くわすなんて、とんだ災難じゃないか」
男子生徒は首を交互に振り、短髪もその動きにつられゆさゆさと揺れた。必死の抵抗を試みる。
「確かに肝試し感覚でいったら、大けがをするかもしれない。幽霊に取りつかれてその後の人生が台無しになったという話を以前、聞いたことがある。むやみやたらに突っ込まないのが正しい判断だよ。」
自分で切り出したわりに早くこの話題を終えたいようだ。
「えー、何それつまんないの。あんたら度胸ないね」
再び男子たちが行かない方がいい理由や言い訳を述べ立てている。女子一人は男子連中の度胸のなさを悪気もなく揶揄している。
正はグループの輪の近くを離れた。掃除用具入れから塵取りを出し、埃を取った。前に出してあった机を後ろに並べ、机の上に乗せてある椅子を机の下に入れた。
先程話していた集団はいつの間にかどこかへ行ってしまい、教室は正と残りの清掃部員しかいなかった。掃除の終礼を簡単に終わらせ、正は廊下に置いてあった鞄を背負った。
部活動に向かう廊下を進みながら洞窟に行く決心を固めた。
六月に入ったある日、正は洞窟の入り口にいた。中を覗き込んでみた。入り口付近は外の光が差し込みぼんやりと明るいが、奥の方は光が全く差し込まない暗闇が延々と広がっていた。まるで魔界の入り口のように不思議な恐怖を伴った雰囲気だった。
正は思い切り地面を踏みしめ、その勢いのまま進んだ。ひんやりとした感覚が肌に伝わった。ここなら避暑地としてそうとう暑さを凌げると思った。正は腕時計を見た。時刻は午後一八時。幽霊が出た夕方の頃合いと一致する。さらに進むと、外の光が届かない暗闇に差し掛かった。辺りは真っ暗で何も見えない。手を前にかざしながら慎重に進むと、ごつごつした岩肌に触れた。どうやらここが行き止まりらしい。ごつごつした岩肌は長い年月をかけてここに存在していた貫録のようなものがあり、まるで四方を敵に囲まれている感覚に囚われた。触れた岩肌からひんやりとした感触が、手から全身に伝わった。何分かその場にしゃがみ込み、例の現象を待った。何分経っただろう、洞窟では何も起こらなかった。正は踵を返して入口へ引き返した。 すると急に彼の身に寒気が襲った。立ち止まり行き止まりを振り返ると、白い影が地面から浮かび上がっているのを目にした。正目を見開いた。今自分が見ているのは幽霊なのか。正は冷静だった。逃げることもなく、慌てふためくこともなく、何か話そうとしていた。
「あの、こんにちわ」
五メートルほど離れた白い影に向かって大きな声であいさつした。
幽霊と初めて対面して開口一番、違和感のある言葉がけだった。
あちらからの返答はない。
正は狼狽した。あいさつをしたはいいものの、どのように接すればいいのかがわからない。
すると、幽霊が正の方にすーと近づいてきた。手を伸ばせば届く距離に正と幽霊は対峙した。
「――ろうぜ」
幽霊が何かの音を発した。
「えっ?」
正は不用意に片耳を幽霊に近づけて、聞き取ろうとした。
次に聞こえた言葉に正は驚いた。
「正、一緒に走ろうぜ」
その瞬間、彼の中に何かが入り込んだ。目の前の白い影はもういない。
下半身の感覚が変だ。自分の意志とは関係なく両足が疼いた。勝手に足踏みを始めたと思ったら、両足が後ろに反転するのに上半身もつられ、入り口めがけて全力疾走していった。
「えっ、何? どうなってるの?」
必死に抵抗を試みたが、両足は全くいうことを聞かない。制御不能に陥った正は入り口を飛び出した。洞窟の外は日が沈み薄暗くなっていた。洞窟に隣接する歩道には人影がなかった。もう少し先に見える車道は両側から車が行き交っている。このままだとまずい、両足を叱咤するが、依然として走りっぱなしだ。歩道を駆け抜け、車道に入ろうとしたとき、視界の端で大型トラックを捉えた。大型トラックの荷台部分に正が十字にぶつかる目と鼻の先で両足がぴたりと止まった。エンジンと空気を切る轟音が耳元をかすめた。正は何歩か後ずさりし、その場にぺたんとしゃがみ込んだ。大型トラックが走り抜けた風で彼のTシャツがはためいた。
次の日、部活動後の部室のことである。
「おーい、正」と浩がやってきた。
「今日の練習も疲れたな」
正はにべもなく頷く。
「なんかさー、今日の練習でお前を見てて思ったんだけどよ。……フォーム変えた?」
制服に着替える動きをぴたりと止めた。
「いや……別に……そんなことはないけど」
動揺を悟られないようにごまかした。
「今日の正の走る姿見ていたら、武を思い出したよ。ほらお前ら顔も似てたし。まあ、速さは断然あっちの方だけどな」
そういって笑う浩の表情はどこかぎこちなかった。
「それは浩の思い違いだよ。いくら双子だからってフォームまで一緒になるなんてあり得ない。僕は僕だよ」
その間に着替えを済ませ、鞄を担いだ。
「じゃあ」軽く手を上げ、そそくさと部室から出た。
トラックと側面衝突しかけた昨日、間一髪のところで回避した。
両足が走り出したときも止まったときも、それは正の意思によるものではなく、何か別の力によるものだった。
トラックが通り過ぎ小さい影になって道路の奥へ消えるのを見届け、急に足の融通が利き自由に動かせるようになった。
すると、――正、とどこからか彼を呼ぶ声が聞こえた。
辺りを見回したが、誰もいない。
この声はさっき洞窟で聞いた声と同じで、しかも正には心当たりがあった。
――まさかお前と会えるとはなあ。
能天気な物言いを聞いて、懐かしさと困惑がこみ上げると同時にやはりあの噂は本当だったのだと確信せざるを得なかった。
――さっきから反応ないけど、正じゃないのか?
さっきとは打って変わって少し疑いの声色に変化した。
「いや、僕だよ。正だ。誕生日は1991年の1月28日の水瓶座。血液型はA型」
――おお、そうだな。うん、やっぱり正だ。
「……武も僕とまったく同じ生年月日、星座、血液型だ」
今話しているのは、2年前に事故で亡くなった正の双子の兄、武だった。
正の自宅は学校から徒歩十分ほど離れた場所にある。帰り道、正は心の中で武と会話をしていた。どうやら直接声を出さなくても武との会話は成立するらしかった。それはそれで変な感覚だった。
――今日のフォームは良かったぞ。といっても動かしているのは俺だけど。
少し笑いながら武は続けた。
――周りの視線もいつもの正を見る視線とは違ったんじゃないか?
確かに武のいう通りだった。いつもは部活動の練習で走り込みをしていても、すぐに他の選手に追い越されて、ほとんど最後尾に近かったが、今日の正は水を得た魚のようにトラック内を駆け抜けた。最後尾どころか常に最前列の位置で走り込みを終えた。正の激変ぶりを見て茫然とした皆の顔が忘れられなかった。
「武が両足を動かしてフォームを変えるだけであんなにも速く走られるんだな。まるで世界が変わったような気がしたよ。こんなに風を気持ちよく感じながら爽快さを感じるなんて」
走っている最中も後も体に纏まり着いていた以前の不快感は全くなかった。
――おれのおかげかな
武は上機嫌である。
正が周りを圧倒する走りを見せたのは至極当たり前だった。武は全国大会出場を逃したものの、それでも全国級のスプリンターであった。彼が正の両足に内在し、神経を通じて直接両足を動かすのだから、聞くには及ばず、百聞は一見にしかずの格言をも超越した直接フォームを体になじませる究極の指導法だった。
――タイヤはうまく回っても、肝心のエンジンが脆弱だからなぁ
武は情けないような声を出した。
「そこを突かれると耳が痛いな。僕が陰でなんて呼ばれているか知っていたか。『万年補欠のランナー』だぞ。あいにくその程度のしか持ち実力しか持ち合わせていない」
正は開き直るように道端の小石を蹴った。
―ーまあ、そこはお前の努力次第でどうにかなる。嫌なら俺が無理矢理走らせるまでだ。もうすぐ全国大会の予選が始まるだろ。それまでに間に合えばいいが。
一か月後には中学生活最後の中学陸上選手権の全国大会予選が行われる。
正には本来全く無縁の大会で、いつもこの頃になると急に熱が入る両親を煙に巻きながらいっしょに応援する側に回っていた。
正の家は父の卓郎。母のかおり。正の三人家族で現在は住んでいる。家の外観はさほど大きくない。分譲住宅地に立地している。
家に着くと、正の母が出迎えた。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
――家に着いたのか。じゃあ今、目の前にいるのは母さんか。
武が色めき立ったように語気を強めた。
昨日の晩に家に帰った時には正の「ただいま」を聞いて、――か、母さん……と弱々しい声を出した途端、急に両足を操作され、思わず母親に衝突するところまで接近した。
母は豹変した息子を見て目を丸くした。「ど、どうしたの急に」
「いくら久しぶりだからって母さんに抱きつこうとするなよ。僕はほぼ毎日会ってるんだし、両手は僕が自由に動かせるんだからな。マザコンに目覚めた変態息子だと思われるだろ」
正は軽く窘めるようにいった。
――ああ、ごめん。なんせ一年ぶりに母さんに会えたから気持ちのコントロールができなくなったんだ。でも懐かしいのは思い違いだったかな」
「どういう意味だよ」
武の言い草にどこか引っかかった。
――正にはまだいってなかったけど、俺、見たり聞いたりできるのは正の両足や声だけみたいなんだ。あとは一切何も見えないし聞こえない。わかりやすく表現するなら、真っ白い背景に正の声が反響して両足だけが浮かび上がっているような感じだ
「じゃあ、なんで洞窟で会ったとき、なんで僕だとわかったんだ。そもそも僕に憑依した理由は何だよ」」
――それは、まだ誰にも憑依していなかったからまだ視界は開けていたんだ。、音も聞き取れてすぐに正の声だとわかった。今まで正ほど俺に近寄った人はいなかった。みんな俺を見るとだいたい大声で叫んで一目散に逃げて行ってしまったからな。それでなんとなく正の中に入ってしまった。これはたまたまだよ」
武は淡々と説明した。
「それなら、僕の体から抜け出すことはできないのか」
――何度か試してみたが、どうやら無理らしい」
」武は尚も冷静だった。
そうか、そうだったのか、と正は合点がいった。
洞窟で自分の名前が呼ばれたのは、姿や声で自分を判断する意識が武にはあったからだった。
密かな謎が一つ解けるのと同時に正は胸が痛んだ。一方的ではあるが、一年ぶりに対面した息子は母の姿はおろか、声すら聴くことができない。どれほど悲しいだろうか。
「で、でも母さんの姿はそんなに変わっちゃいない。ただ少し皺が増えたかもな。前の方がまだましに見れたぞ、ははは」
正は励ますつもりでいったが、武自身どう捉えただろうか。
実際、武が亡くなったと知った直後、両親はとても悲しんだ。特に母の受けたショックは計り知れず、勤めていた会社を一カ月も休んだ。ろくにご飯も食べられないほど衰弱した母を見るのは辛かった。今でこそ立ち直りかつての面影を取り戻してはいるものの、痩せぎすな体つきは相変わらずだ。
居間に入ると、夕食がすでに出来上がっていた。
「お腹すいたでしょ。冷めないうちに食べちゃいなさい」
母は台所で洗い物をし始めた。
テーブルに座ると、献立の先の開けっ放された障子の扉から仏壇が見えた。
仏壇の前には、遺影と白い煙の上がった線香、それに白い饅頭が供えられていた。正が帰宅する前に準備したのだろう。
屈託なく笑う武の遺影を見て、ふいに後悔の念が押し寄せてきた。
今でも頭をよぎる罪悪感。生前に武に伝えられたらどれだけ楽だったろう。
夕飯を食べながら、そんなことを考えていた。まさか心の中で武の意識が介在してこないだろうな、と正は不安に駆られ訊いた。
「おい、今僕が何考えているのかはわからないだろう」
夕食を食べながら心の中で訊いた。
――ん、わかるさ。
こともなげに武はいった。
正は慌てて頭に浮かべていた思考を消そうとした。
――全国大会出場に向けて、イメトレしてたんだろ。
あまりに的外れな返答に正は拍子抜けした。
武はどうやら本気で全国大会出場を目論んでいるらしい。そういえばさっきもそんなことをいっていた。
「あのなあ。僕がいけるわけないだろ。公式試合さえ一回も出たことない身分だぞ」
正は真っ当な意見として説得するつもりだった。
しかし、武の思いがけない返答に背筋が寒くなった。
――俺は全国大会に行きたい。俺の叶えられなかった夢を実現したい」
力強くかみしめるようにいった。
正は唾を飲み込んだ。
武の部屋はずっと手つかずのまま残っていて、その部屋の壁には、『全国大会出場!』とマジックででかでかと書かれた紙が貼ってある。
武は静かにいった。
――俺は死んじゃったけど、お前は生きている。たった一か月しかないが、俺が正の両足となりフォームを体で覚えさせれば、それに合わせて上半身の振りの無駄も矯正されて、理想的なフォームが出来あがる。俺は正を全力でサポートするから正も努力してほしい。そして一緒に全国大会にいこう。今年がラストチャンスじゃないか」
正は次に発する言葉が出てこなかった。
今年がラストチャンスじゃないか、武の言葉が胸にずしんと響いた。
武が生きていたなら、それこそ死に物狂いで練習に取り組み、中学二年のときに潰えた夢を掴みとるため必死に練習しただろう。今は肉体を離れ、正の両足にいる。筋肉にいるのか直接神経に組み込まれていのかは定かではないが、彼のサポート無しには全国大会出場なんて夢のまた夢だった。武の夢を完結させたい、と身体が疼いた。
夕食を食べ終えると、正は台所で洗い物をしていた母に向かって、「ちょっとランニングしてくる」と言い残し、部屋に戻り制服からランニングウェアに着替えた。玄関を開けると暑苦しいもわっとした外の空気を吸い込んだ。辺りは真っ暗で街灯がぽつぽつと暗闇に光を浮かべていた。部活動で疲弊した身体を叱咤して、街灯の光を頼りに夜道を颯爽と駈けていった。
武が憑依してから二週間が経過した。今日は全国大会予選に出場する選手が顧問から告げられた。
正は選手の一人に選ばれたのだ。
部室に引き上げるとき背後から正を呼ぶ声が聞こえた。
浩である。
「すげえじゃねえか。大会のメンバーに選ばれるなんてよ。あり得ないな、今までの正なら。なんかあったんじゃないのか」」
隣に並び、浩は顔をにやけさせた。
「いや、別に何も……」
ぎこちなく返答した。
「そんなことあるかよ。正は400メートルだよな。その種目は俺を含めて出場選手中一番速いタイムじゃねえか。顧問も「もしかしたら全国大会を狙えるかもしれないな」って太鼓判を押していたぞ」
確かにここ一か月の正の練習に対する姿勢は、周囲の目を見張るほどだった。練習は誰よりも早く来て、先に走り込みを何本も行う。練習中は部内でも有数のスプリンター、浩よりも好タイムを叩きだし、もはや部内では敵無しである。
浩はしみじみといった。
「タイムが伸びたのはいいが、俺はどうも引っかかるんだよな。」
正はできるかぎり平静を装った。
「何が?」
浩はまじまじと正を両足を見ながらいった。
「正がまるで武に見えるんだよ」
正は鳥肌が立ち、その場で立ち止まった。
浩もつられて立ち止まる。
「な、何変なこといってんだよ」
正は必死に取り繕ろうとした。
すると、その様子を見て浩が噴き出した。
「ぷっ。冗談だよ、冗談。武のわけないなじゃいか。何を根拠に焦ってるんだよ。でもそう思えるぐらい正のフォームは武に近づいているぞ。全然無駄がなくて理想的なフォームだったからな、武は」
武は試合先で何度も他校の先生からそのフォームを絶賛されていた、と浩は続けた。元々全国大会に行ける素質を身に着けていたのだ。
武の直接の死因は交通事故だ。だがその前に足を捻挫してしまい、打ちどころが悪く、松葉づえの生活を余儀なくされた。
全国大会出場が決定していただけにどれほどショックを受けたことだろう。武はリハビリしても本大会には間に合わず、出場は絶望的だった。全国大会に代わりに出場したのは浩だった。全国大会予選、決勝戦で武に次いで二位だった浩が、繰り上がりで出場することになった。
浩が思い出すようにいった。
「俺は全国大会に行ってもさっぱりだったよ。あのざまじゃあ武に申し訳が立たなかった」
部室にはロッカーが並んでいる。二人が戻ったあとは部員はだれ一人いなかった。廊下で話している間にみんな帰宅してしまったのだろう。
浩はつかつかと歩いていき、武のロッカーの前に立った。
そのロッカーは今は誰も使っていない。
扉をゆっくりと引くと、がこん、と締まりの悪い音を立てて、開いた。覗くと中はもぬけの殻だった。
「俺が全国大会であんな不甲斐ない走りしかできなかったのなら、何事もなく武が全国大会に出場するべきだったよな。本当に馬鹿なことしたなって今は後悔してる」
浩は声のトーンを下げて静かにそういった。
一年前、武の全国大会出場が決まり、両親は喜んだ。ケーキを買って家族みんなで祝福した。
「おめでとう、よく頑張ったわね。あなたは自慢の息子よ」
母は泣いて喜んだ。
「よくがんばったな。全国大なんて選ばれた人間しかいけない場所だぞ。めいいっぱい頑張ってきなさい」
父は自分の息子を誇りに思っただろう。
そのお祝いから数日後、武は練習が終わったあとに全国大会に向けて走りの調整をしていた。
顧問からは「あんまり無理するなよ」と釘をさされていたが、「大丈夫です。怪我をしない程度に走るだけですから」と言い残した。
自主練習を終え、部室に戻った。着替えを済まそうとロッカーの扉を開けたそのとき、中から大量の箒がなだれ込むように飛び出してきた。咄嗟の事態に、武は練習の疲れもあって、避けきることができなかった。箒の束に押され、後ろ向きで倒れた。その衝撃のまま右ひざが床にぶつかった。「うぅ」と唸り声を上げた。体に激痛が走った。膝の痛みと、一瞬の出来事を理解するのにしばらく動けなくなった。学校の保健室から近くの病院に搬送された。
診断の末、医者から告げられたのは『半月板損傷』だった。右ひざに強い衝撃がかかったことにより、膝関節のクッション機能を持つ半月板が損傷が原因だった。。
医者から怪我した理由を訊かれ、「階段を踏み外しました」と嘘とついた。
同伴した母はパニックを起こしていた。「先生、武は三日後に陸上の全国大会を控えているんです。それまでにどうにか――」
医者は視線を床に向けて、鷹揚に首を横に振った。
「こんな状態じゃ、走ることはおろかまともに歩くこともできませんよ。残念ですが、大会は諦めるしかないです」
母は顔を覆って、その場で泣き崩れた。
浩はただ虚空を眺めていた。
着替えを終え帰ろうとして、ふと浩の方を見た。着替えもせずに武が使っていたロッカーの前で呆然と立ち尽くしていた。正は何もいわずに部室を後にした。
帰り道、――なんか深刻そうな話をしていたな。相手は浩か?」と、武が真剣な声色で訊いた。
正は静かに頷いたが、それでは伝わらないことに気づき、短く「ああ」と答えた。
――浩はいい選手だった。俺と同じ400メートルの種目で、お互い切磋琢磨して頑張っていた。ただ、陸上選手としてはいいかもしれないが、それ以外はいい加減なやつだった。正だって何度あいつにノートを貸したか数え切れないだろ。しかも気に入らない子がいれば何遍もちょっかいをかけるんだもんな」
浩はあきれるようにいった。
中学一年のとき、正と浩は同じクラスだった。クラスメートに田中君という男子がいた。彼は休み時間に浩に何度か絡まれていた。おとなしい物静かな風貌から浩に好き放題言われていたのだろう。田中君はある日を境にぱったりと学校に来なくなった。一限目の授業が始まっても、田中君の席はぽっかり空いたままだった。無遅刻無欠席を継続していた真面目な彼が学校に来なくなった理由は明らかだった。そのあと田中君が転校した噂は同学年のほとんどが知る事実となった。
――浩のせいで転校したんだよな。俺はそれを聞いて浩を許せなかった。浩に「なんであんなことをしたんだ、責任を感じないのか」と詰問したら、「なんのことだよ、意味わかんねえよ」ってはぐらかしやがった。いじめを知っていたら俺が止めたさ。ただクラスも違うし、いじめられているのを知ったのは、彼が転校してからだった。人をいじめるなんて最低の人間のやることだ。」
声を荒らげて浩を非難した。
正は武の言葉を心の中で反芻した。
「最低の人間――」
武は松葉づえ生活を余儀なくされた。右足にギブスを嵌め、ぎこちなく松葉づえを動かし歩く姿はとても不憫に思われた。学校の行き帰りは、初めは正が付き添ってあげた。その間に全国大会が千葉県の総合スポーツセンター陸上競技場で開催された。正と武はアルプススタンドで観戦した。武が本来出場するはずだった400メートル走は、緊張でガチガチになった浩の出場選手中最下位という惨敗の結果に終わった。松葉づえ生活が一週間を過ぎた辺りで、正の補助もなく身の周りの生活を一人で行えるようにまでなった。
正はしばらく無言で歩いた。夏の夜はまだ明るく、夕日が斜めから光を差し込んでいた。辺りの家々や歩く人たちはオレンジ色に染まっていた。ちょうどこの時間帯かもしれない、とあの日を思い出した。
武が定期的に病院へ訪れた日の帰り道だった。その日の診察で専門医から、「この調子ならあと一週間もすればギブスも松葉づえも無しで歩けるようになりますよ」とにこやかにいわれた。あまりのうれしさに興奮した面持ちで帰路に着いた。また練習ができる、それだけで頭がいっぱいだった。自然と早足になっていた。車道の後方から大型トラックが走ってきた。いつもは地面を見ながら慎重に松葉づえを操っていたのだが、このときは注意力が散漫し、これからの希望に頭がいっぱいになっていた。近くに誰かがいればよかったのだが、あいにく歩道にいたのは武一人だった。松葉づえの先が石ころの上に乗っかって、ぐらぐらとバランスを崩した。武はそのまま車道側に倒れ、腰を強打した。身体に電気が駆け抜けたような痛みが全身を貫き、その場でうずくまった。左手をついて身体を起こそうとしたが、身体がいうことを聞かなかった。後ろからクラクションとブレーキが混じった甲高い音がけたたましく鳴った。武は目を閉じた。背中は夏の夕日のオレンジ色に照らされていた。
事故の知らせを聞いた両親、正は武が搬送された病院に駆け付けた。手術中のランプが灯る廊下のベンチで静かに待った。これほど時間が長く感じることはなかった。母は両手を結んで祈るような姿勢でベンチに腰掛けていた。父はそんな母の双肩を抱きかかえるようにしていた。ぼくは立ったり座ったりを繰り返して手術中のランプが消灯していないか何度も確認した。一時間ほど経って手術中のランプが消灯し、手術室の扉が左右に開いた。中から緑色の手術服を来た執刀医が現れた。
「先生、武は、武は助かったんですか」
真っ先に駆け寄ったのは母だ。手術服を両手で握りしめている。
執刀医は無念そうに口を真一文字に結び、語りかけるように話しだした。
「全力を尽くしましたが……残念ながら――」
その言葉で母はその場で泣き崩れた。父は拳を握りしめ、下を向いていた。正は呆然として何も考えられなかった。
「事故により腰と頭部を大きく損傷していました。特に頭部は出血がひどく、最善を尽くしましたが――」
執刀医はそれ以上は口にすることなく、「御愁傷さまです」と言い残し、その場から去っていった。
母のすすり泣く声が聞こえた。
――この夕日を見てる思い出すよ。あの瞬間を。目の前がトラックの車体でいっぱいになるんだぜ。走馬灯が駆け巡って、時間が何倍にも長く感じられた。スローモーションってやつだな。道端の石ころに気づかないなんて、本当に油断してたよ。膝の怪我がもうすぐ直るとわかって心が躍っていた。油断大敵って、逸る気持ちの俺に誰かがいってくれてたらなあ」
正は最後の方は努めて明るくいった。
大型トラックの運転手の証言によると武は、松葉づえを出したまま歩道でふらふらと揺れていたそうだ。そして車道に倒れ込んだときにはすでにブレーキをかけても衝突が避けられない距離にいた。
そもそも怪我さえしなければこんなことにはならなかったんだ。正は何度が逡巡したのちいった。
「じつは……あの日ロッカーの細工をしたのは浩だったんだ」
しばしの沈黙が流れる。
憤慨しているのかと思ったが、「ん、ああ、ロッカーってあのことか」と半ば忘れていたかのように武はつぶやいた。次に予想だにしない返答がきた。
――やっぱりな、そうだと思ったよ」
武はあっけらかんとした口調でいった。
「なんでだよ、驚かないのか?」
正は虚を突かれ、驚愕の声を上げた。
――だって、俺が怪我をして一番得するのは浩だからな。俺が全国大会予選一位で全国大会出場。浩は二位で全国大会に行けない。俺が怪我をすることで繰り上がって浩に出場権が移る。単純な理屈さ。」
一旦言葉を区切って続けた。
――全国大会予選の一か月ほど前から原因不明のいたずらをされていた。靴箱に入れてあったスパイクが無くなったり、ロッカーの中身がぐちゃぐちゃにされてたり、陰湿な扱いを受けていた」
当時武は陸上部のキャプテンを務めていて、必要ならば部員を集めて全体会議を開くこともできた。持ち前の正義感と前向きさでそれらの悪戯に対して意にも介さず武はいつもと変わらず振舞っていた。なによりも全国大会予選に盛り上がる部活動の雰囲気を壊したくなかった。おそらくその頃にはすでに浩の仕業だと感づいていたのだろう。全国大会出場を決めた武を襲ったロッカーの事件は武自身はらわたが煮えくり返る思いだったはずだ。
―ーなんで俺がこんな目にあわなきゃいけないんだって思った。あの事件が起こった後、浩をぶん殴ってあいつを二度と走れない体にしようかとも何度も考えたよ。嘘で通していた顧問に相談しようかとも悩んだ。でもできなかった。」
武以外にもう一人、全国大会出場を決めた部員がいた。小林である。彼は亡くなった武の後を継いで今はキャプテンとしてチームを引っ張っている。
もし武が暴力行使や顧問に相談するようなことがあれば、問題は学校側や教育委員会側に伝わっただろう。陸上部は活動停止に陥って、そうなれば全国大会出場を決めた小林にも悪影響が及ぶ。最悪の場合、全国大会への出場権はく奪の可能性もあった。
――小林も頑張ってたからなあ。一年生のときにそれぞれの目標を皆の前で宣言するときも「全国大会出場」っていい放ったもんな。あいつの夢を邪魔する権利は俺にはない」
武は過去の思い出を懐かしんでいた。
――俺には来年があった。今年は駄目でもまだ一年間陸上がやれる、全国大会出場を狙えると思えば、自然と怒りが収まった。怪我を直して頑張ろうと思った矢先だったよ。あんなへまをはずしてしまって。情けないな、ははは」
辺りはすっかり薄暗くなり、家々には明かりが灯っていた。空を見上げると満天の星たちが濃紺の空に瞬いていた。このきれいな眺めを見られない武に哀れさを感じた。
――そんなことより早く家に帰ろう。フォームもだいぶ固まってきたから、今がさらにフォームに磨きをかける大事な期間なんだ。家に帰って少し休憩してから走りに行くぞ。
そういうと、両足が勝手に動きだし、正の帰宅を急かした。走り出したフォームは相変わらず完璧だった。
この時期は学校中の生徒が皆鬱屈した表情になる。夏季中間テストだ。事前に勉強するもの、一夜漬けで乗り切るもの、テスト勉強以前にテスト日程さえも頭に入っていないものなど個人の性格がここまで如実に表れる行事が一年に計四回も行われる。先生たちも工夫を凝らした問題や点の取りやすい問題を作るのに四苦八苦しなければならない。その点では、もはや誰も得しない行事にさえ思えてくる。
運動はもちろん成績も優秀であった武の力を借りようとして、正がわからない問題を聞いて武がテスト中に答えを読み上げるというのを不当な手段として断固反対し、試験結果に一抹の不安を抱えながらも、試験全日程を終えた。
部活動ではすでにエース級の扱いを受けていた。同年輩たちは「正の実力なら全国いけるぞ、頑張れ」と、数か月前にはあり得なかった激励を送られた。後輩たちはこぞって、「正先輩!今回の大会が終わったら僕たちにもフォームの指導をしてください。お願いします」と影で『万年補欠のランナー』と揶揄された正の姿は今は微塵もない。顧問に至っては「正、あとで職員室に来てくれるか」と、目を見て会話をした記憶が三年間でも計一,二分そこらだったのが、全国大会予選の個別ミーティングと称して、しっかり目を見て一時間熱心な指導を受けた。正はこれらの現状にあまり清々しい気持ちを感じ得なかったが、彼等の熱い声援を大義名分に掲げ、部活動の練習と夜間の走り込みに注いだ。
そして迎えた全国大会予選、その日である。
学校の近くの陸上競技場で行われた。正の出場種目は四〇〇メートル走だ。トラックには全8レーンが設けられ、走者に公平になるように、内側にいくほどスタートラインが後退している。正は一番後方に位置する第1レーンに決まっていた。会場は県内各地から観客が詰めかけ、なかなかのにぎわいをみせていた。7月上旬のからっとした天気と容赦なく降り注ぐ日差しで気温は30℃越えという競技を行う走者にとっては過酷な環境が整っていた。
正の両親も会場に駆けつけた。本大会前日には、「武の分まで頑張れよ、きっと天国からお前を見守っているぞ」と父親に強く両肩を抑えられた。「あなたには武がついている。あの子と一緒に走っているのよ」と、母に妙に的を得た励ましの言葉をかけられた。ああ、頑張るよ、当たり障りもない返事をして、明日も朝早いからと、午後九時を回って部屋で就寝した。
観客席に両親、部活動の同級生、後輩、顧問らが見守る中、試合の時間が刻一刻と迫ってきた。
浩の姿はない。先日ロッカーの前に立ち尽くしていた姿を見て以来、彼は部活動を休んでいた。
正は自分の試合を控えて会場のトイレで用を足していた。
外からは観客の歓声と会場のアナウンスが漏れ聞こえてくる。多分競技スタート前の選手紹介をしているのだろう。
――ついにここまで来たな。今日一位になれば、全国大会出場決定だ。
武が鼻息荒くいった。
「そうだな」
正の反応は冷たい。
――どうした? 試合前なのにテンション低いじゃないか。もっと闘志をむき出しにしなきゃだめだぞ。
正は無視した。
――正、お前何かもやもやして集中できてないだろ。何か俺に隠していることがあるんじゃないのか。
すると思わず耳を疑うような言葉が正の耳に入った。
――お前だろ、浩をそそのかしたのは。全部知ってたよ。
何かの聞き間違いかと思い、「えっ」と訊き返してしまった。
――俺が膝を痛めたあの日、ロッカーに箒を仕掛けたのは浩だが、それを指示したのは正、お前だった。
正は頭が真っ白になった。なんで武が知っているんだ。あれは僕と浩だけの秘密だったのに。となると――
――浩を疑っているだろ。その通りだ。じつはロッカーで膝を痛めうずくまっていると、浩が俺の傍に現れたんだ。そして事の顛末を話してくれた。俺は信じられなかった。ショックだった。ついでに田中君のこともそのとき知った。」
正は黙って聞いていた。
――お前はいじめに加担していた。田中君と同じクラスだったお前は他のクラスのガラの悪い生徒数人を集めて、そこで田中君に対するいやがらせを提案した。しかも正当にいじめを働かせるため彼らに一万円を支払った。浩はいじめを止めようとしたが、自分に被害が及ぶのを怖れ、立ち向かえなかった。それで田中君を励ます作戦に出たんだ。何度も田中君の席に向かったのは田中君の受けた仕打ち少しでも軽減しようと考えた最善の策だった。最低な人間は俺の方だった。それをいじめに加担しているんだと勘違いいたんだからな。お前は全国大会予選の一か月前から浩に、俺に対するいやがせをそそのかした。「武の調子が狂えば大会で浩が有利になる」といってな。それでも全国大会が決まったあとはロッカー―事件の強硬手段に出た。浩も全国大会出場が何よりの悲願だったから、お前の口車にやむなく乗ってしまった。すべてはお前の指示だった」
まるで自分の心臓を直接殴られたかのように正の息遣いは乱れていた。
「ロッカー事件のあとはまるで何も知らないとばかりに振舞った。お前はどうか知らないが、浩の後悔はすさまじかった。俺に泣いて謝ったよ。土下座までしてな」
ひと呼吸置いて続けた。
「どうしてあんなことをしたんだよ。俺たちは仲良しの双子だったじゃないか。」
トイレ内はひんやりとした冷気に包まれていて、ふと初めて洞窟で会ったときを思い出した。「仲良し? 笑わせるなよ」と、正は武の代わりにトイレの扉をぎろりと睨んだ。
「僕は小さい頃から成績優秀、スポーツ万能な武と比べられて育ってきた。周りのみんなが武のことを褒めた。「勉強ができて、運動も上手ですごいねぇ」って。僕は昔から勉強も得意じゃなかったし、おまけに運動音痴で誰からも褒められたことがなかった。両親もいつも武、武で、僕のことは後回しだった。僕より武がかわいくてしょうがなかったんだ。特に優れた能力もなくいつも武の後ろを付いて回っていた僕に転機が訪れた。中学生のとき武が陸上部に入るのをみて、ここで武を追い抜いてやろうと一念発起して入部した。周りを見返して絶対に僕を認めさせようと思った。でも、練習してもタイムは全然縮まないし、そもそも走るフォームが間違っていたのかもしれない。内気な僕は誰にも素直に教えを乞うことができなかった。そのイライラを発散するために田中君を標的にした。一番いじめがいがあったのが彼だった。彼の苦しむ姿を見るだけで僕は少しだけ優越感に浸ることができた。武は当然のことながら練習するにつけ実力をつけていき、二年生の夏には全国大会出場の快挙を達成した。僕は許せなかった。激しく嫉妬した。結局何も変えられずにまた終わるのかって思うと、胸がきりきりした。そこである計画を思いついたんだ。400メートル走で武と競っていた浩を利用しようと。同じ全国大会予選で二位につけた浩を利用しようとね。武が浩から聞いた通りだよ。浩はあっさり計画に乗ってくれて実行してくれた。僕は武を絶望のどん底に叩き落としす優越感を得るため、浩は全国大会出場を果たすためお互いの利益は一致していた。作戦は成功したと、病院で診察していた浩を確認して心の中でガッツポーズをしたよ。そのあと浩が交通事故に巻き込まれたのは正直びっくりした。でも武が死ぬとは思わなかった。それは本当に悲しくて涙が出た。何に驚いたかというと自殺の可能性が否定できなかったからだ。事故当時の目撃証言は、事故を起こしたドライバーだった。車道に倒れてそれでも起き上ろうとしていた姿を見たという証言を聞いて安心したよ。自殺ならそんな子芝居はしないから。これで警察が自殺のセンで調査をする心配もなくなったと思ってほっとしていた。誤算は浩が密告していたことだな。それなら僕のしたことをすべて知っているのに、なんで何もいわなかったんだ」
観客の歓声が聞こえてくる。競技の終盤に差し掛かっているのだと思った。
武は静かに話しかけた。
――正と浩のせいで俺は全国大会出場の夢も途絶えたと思った。でも前にもいったが俺には来年があったし、騒いで問題になれば全国大会に出場する小林にも迷惑がかかったから何もいわなかった。自分が死ぬなんて、しかもこうやって正の中に入っていることなんて想像だにしなかったよ。でもそのおかげで俺は一つの答えを見つけた。。正に本気で何かに挑戦させたいと思ったことだ。。正が俺と比較されて劣等感を持ちながら生きてきたのは俺も感じていた。浩から話を聞いてより現実感を伴ってお前の心が荒んでるのを知った。だから俺はロッカー事件があっから自分のことよりも、なんとか正が前向きに自分を肯定して生きるにはどうすればいいかと模索した。俺が死んだあとも悔やみきれない気持ちに縛られ地縛霊となって事故現場近くの洞窟にいた。それから正を認めてあげられなかった環境を何で自分がもっと早く変えられなかったんだとずっと後悔していたんだ。そして正があの洞窟に現れた。千載一遇のチャンスだと思った。何とか話をしようと近づいたら偶然にも正の中に入り込むことができた。会話できる上に、正の両足を自由に動かす権利も得た。これは全国大会出場に向けて正を指導しなさいという神のお告げだと俺はおおげさだが感じた。正だってあの洞窟に来たのは俺だと確証があったからだろう。」
正はうつむいていた顔を上げた。
「僕は学校で霊が出る噂を偶然耳にした。事故現場付近に洞窟があったのを知っていたから、もしかして武に会えるかもしれないと思った。もし会えたらあのことを謝りたかった。正は全国大会出場をいつも口癖のようにいっていた。僕が浩をそそのかさなかったら、きっと浩も邪なことは考えず、僕の計画は頓挫していただろう。本来なら誰も傷つかなくて済んだんだ。田中君にも取り返しのつかないことをした。どうしても悔しかったんだ。このままどんどん武に置いてきぼりにされて僕はどうでもいい凡庸な存在になるんじゃないかって、ただただ怖かった。でも僕自身どうすることもできなくてどうしたらいいのかわからなかった。僕の身勝手な行動で全国大会出場の夢を台無しにしてしまったことを洞窟で会ったときに謝ろうとしたけど、急に走り出してタイミングを失った。そのあとも何度も謝ろうとしたけど勇気が出なかった」
正の瞳から涙がこぼれた。「本当にごめんなさい」と涙で掠れた声を絞り出した。
――ははは、もういいよ。ただ俺は正が謝ってくれるのを待っていた。全国大会に行く前にきっちりとけじめをつけたかった、それだけのことだ。あと正にもう一つ託したい夢がある。」
外では試合が終わり次の試合が行われる準備にとりかかっている。
――後輩を指導してやってほしい。俺は陸上で培った練習法や経験を一人でも多くの後輩に伝えることで俺のように全国大会を目標に頑張ったり、陸上に打ち込んでほしかった。正が俺の代わりに後輩たちを指導してくれないか。フォームは完璧だ。あとは陸上の楽しさを俺と過ごした中で感じたかどうかはわからないが、走る楽しさを伝えてやってくれ」
武はためらいがちにいった。
――浩のことは悪く思わないでやってほしい。事件の真実と裏の間で苦悩したんだ。今度会っても今まで通り接してやってくれ。それと浩にも今いったことを伝えてくれないか。多分浩は俺の事件をのことでまだ後悔が残っているだろう。浩に直接伝えることはもうなかった。俺は全く根に持っていないと伝えてくれ。二人に俺の夢を託すよ」
「ああ、わかった。僕と浩でなんとしてでも引き受ける」と涙を手で拭い力強く目を開いた。
そのときトイレの扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは小林だった。走り回っていたのか肩で大きく息をしている。小林は正をみると血相を変えて怒鳴った。
「こんなところで何してるんだよ。正の試合始まっちゃうぞ。どこ行ってもいないし、みんなで競技場内探してたんだぞ。さあ、早く行くぞ」
ぐいっと片腕をひっぱられた。トイレを出て、そのままトラックへと続く廊下を歩いた。
――いよいよ試合が始まるみたいだな。今日は正だけの力で優勝を勝ち取ってくれ。今までの成果を発揮すれば必ず優勝間違いなしだ。
「おい、正だけって何だよ。待ってくれ。行かないでくれ。いつもいっしょに走ってきたじゃないか」
「正、何いってるんだ。リレーじゃないんだから一人で走るに決まってるだろ。おまえ緊張のしすぎで頭おかしくなったのか」
小林はケラケラと無邪気に笑っている。
――きっと大丈夫だ。正と一緒に走ってきて確かにわかった。最初は殆ど俺が足を動かしていたが、ここ最近は俺の介在なしに正自身が理想的なフォームで走っている。俺でもこのフォームを習得するまで一年はかかったけど、正はたった一ヶ月の間に習得した。今までのやりかたが間違っていたんだよ。正は陸上の天才的な素質があると俺は確信した。もっと自分に自信を持っていけ。今度は正一人の力で頑張るんだ。俺はいつも正の近くにいる。それを忘れないでくれ。じゃあそろそろ行くな。ばいばい」
その瞬間、身体が軽くなった気がした。正は何が何だかわからなくなり「たけしー」と大声で叫んだ。
「おいおい、どうしたんだよ。武? 武はもういないだろ。しっかりしろよ。俺は正の次の試合で準備しなきゃならないからもう行くぞ」
陸上競技場のトラックの入り口付近まで案内して、小林は廊下をかけていった。
正はトラックの第一レーンに向かった。ほかの七選手はすでに各レーンにいた。正がトラックに現れると、背後の観客席から声援が上がった。
正は第一番レーンに佇んでいた。自分の名前が拡声器で呼ばれて会場内に響いた。正は大きく右手を上げ、おじぎをした。武と過ごした一ヶ月間、今思えばかけがえのない思い出だった。
いつか夜の走り込みのときに武が訊いた。
「おい、全国大会予選で最高に気持ちいい瞬間があるんだ。わかるか」
「どんな瞬間なんだ?」正は話の続きを促した。
「誰よりも先にゴールラインを越えて全国大会出場を決めた瞬間だよ」
経験者が嬉しそうにいうんだから、さぞかし快感なんだろうなと夜道を走りながら思った。
8レーン全員の紹介が終わり、「セット」という合図が聞こえた。
備えてあったスタブロは夏の日差しに照らされて熱を帯びていた。足をかけて歩幅を調整したあと、そのまま前傾姿勢を保った。
武がいない。しかし今も武が体の中にいる気がした。
スターターピストルの弾けた音を耳にして、正はスタブロを勢いよく蹴りだした。