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人生の逃げ道(抜粋)(後半)

人生の逃げ道(抜粋/続き)


 武男は、生涯を通じて優子の面倒を見ていたと言っていいでしょう。兄妹とはいろいろな形があるものとは言え、武男と優子の関係は生涯変わることがありませんでした。後に優子が惨殺され、手も足も失った姿で発見されたときも、ただ深く受け入れたのは武男のみ。父も母も嘆き悲しむばかりで(その時には二人とも痴呆と言える症状が出かかっていました)、一切を任されたのも武男。つまり、結局は父も母も兼ねていたということでしょうか。奇妙な関係について、武男が後に書いています。

「年も離れてないんだけどね。いつの間にか監督責任者になってたよ」

 武男はほとんど怒ることもなく、優子がどんなに荒唐無稽なことをしても見守っていました。優子が突然行方不明になった時も、武男だけは慌てることがなかったように思います。戻って来る確信もなかったはずなのですが・・・。

 優子は1999年に、突然重量挙げを辞めてしまいます。その後、死ぬまで重量挙げを再開することはないままでした。あいつなりに考えた末のことだろう、と武男はいらいらしながら自分に言い聞かせたのを覚えているはずです。全く時を同じくして、薫も女性運動から距離を置いてしまいました。いつも何でも武男に話していた薫ですが、この時は何も話すことがありませんでした。何も考えていないようにも見えるくらいでした。もしかしたら、優子も何も考えていなかったのかもしれませんね。とにかく二人はロウソクの炎のように姿を消してしまいます。ちなみにこの時火消しに追われたのも武男で、武男は血の涙を流しながら東奔西走させられたはずです。結局のところ、優子も薫も似た者同士のカップルということが言えるのでしょうか・・・二人とも、大学を卒業する頃からですが、自分のことを心配してくれる人達に対する配慮を失っていきます。優子の場合、本人以上に天真爛漫で常識がない親がいますので、実質の被害者は武男一人でした。他人事ながらとても可哀そうですが、こういった苦難は武男を大人の男へと成長させていき、結果として彼は非常に付き合いづらい、気を許せる友達がいない大人の男になります。武男は生涯独身のままでした。そして、彼にとって大切なのは家族だけだったのです。

 ある日、武男に優子から手紙が届きます。以下その内容の抜粋です。

 突然いなくなってごめんなさい。連絡が遅くなってごめんなさい。悪いと思ったけど(中略)、もちろん薫君も一緒だから心配しないでね!今、彼はね(中略)、とっても楽しくて毎日充実してるの!旅行って人間を変えてくれると思って、昨日もね(中略)、ここはリゾート地だから、人も穏やかで気さくで(中略)、時々どこかから見てる人がいるみたいで怖い(中略)みーんなハダカってすごいよね!でもね(中略)、自分探しの旅が出来て嬉しい!(中略)ところで、ここはどこだと思いますか?実は日本じゃないんです。ではまた。手紙はここで終わっていました。

(だからいつ帰って来るんだよ・・・)武男のため息が聞こえてきそうです。優子は一体何を考えているのでしょうか?


 実は二人とも、海外旅行は初めての経験でした。まず、優子が例の兄をからかった手紙を出す前までの話をしましょう。1999年、大学の卒業を翌年に控えていましたが、二人とも進路は決まっていませんでした。優子は夢見がちで現実的なことを一切考えない傾向に拍車がかかっていましたし、薫は就職活動の最中にも関わらず自分の未来について考えることをまるきり棚上げにしていましたから、当然結果は惨敗。まったく働くつもりのない中小のエステ会社の内定があるのみ。薫でなくてもやる気が失せる様な有様です。ちなみに、優子が重量挙げを、薫が女性運動を棚上げにした時期とは、少し時差があります。二人とも、自分の行く末について真面目に考え過ぎてちょっとおかしくなってしまったのかもしれません。あれほど青春をかけて(と、優子は思っていました)打ち込んだ重量挙げに対する熱意が完全に失せたのは、一つには優子の中で始まった自分に対する肯定感の変化があります。誰でもそうなのかもしれませんが、優子も20歳を超えたころから、やっと自分の性別を肯定的に見ることができるようになってきたようです。それまでは世界には2種類の人間しかなく(偏見を恐れる人と恐れない人)、今では、世界には男と女がいるのだと思っているらしいのです。

 そもそも、何で私は重量挙げを始めたのかしら?世間の話題をさらっていたとき、誰もが好き勝手に優子の内心について本人以上に詳しく解説したものでした。優子はそれが心底苦痛だったのをよく覚えているはずです。人間は理由をつけたがる、と優子が悟ったのもこの時期だったのかもしれません。理由づけと同じくらい優子が嫌っていたのは、レッテル貼りでした。「女性重量挙げ選手」「美人陶芸家」「殺人鬼」などがそれです。そうそう、女性重量挙げ選手という記号につられて近寄ってきた男性たちも何人かいました。彼らの目的が何だったのか優子は分かりませんでしたが、そのうちの一人と優子は関係を持ったことがありました。それは秘密の関係というにふさわしいもので、相手の男性は(日本画界の重鎮とか何かだったかな?)「このことは絶対に〇〇」と仰々しく釘を刺していました。と言っても、秘密の関係と胸をはって言えるようになる前に関係は消滅してしまったのですが。どうやって始まって、如何にして終わったのか?覚えていないというのは、つまりどうでもいいからなのね。優子は今ではそう理解しています。だったら、理由もなく重量挙げに別れを告げても何ら矛盾はありませんよね?ただ、その男性が優子を女性として扱ったことに彼女は感激したのを覚えています。欲しがられる、という感覚を自然にかつ好ましく女に感じさせるのに長けた人でした。薫とではなかなか得られなかった感覚に、優子はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ自我が揺らいだのを感じました。自分が変わって行くことにふと気付く瞬間です。もうその男性と会うこともないのですが、結果的には彼のおかげで薫との仲も深まりました。つまり何というか、セックスです。薫の方は性的には何の成長もなく、出したり入れたりするのに没頭しているだけでしたから。二人の就寝前の30分~1時間がどのようなものだったか、あまり詳しく語る必要もないでしょう。でも、確実に二人の力関係が変わっていく時でした。優子は薫よりもセックスが好きだと思えたのに、1日1回で満足できた以前と比べて、(下品ですが)貪欲になる自分を感じていました。薫は一生懸命なのに女性からすると経験不足が否めない、つまりヘタクソだった以前と比べて、今は慣れた分だけ手抜きが増えたタチの悪いヘタクソに昇格していました。その自覚がありますのでゴムを片手にベッドに誘うことも少なくなり、優子はいっそう不機嫌になるという悪循環です。要約すると、二人とも同時期に「もっと刺激はありませんか?」と思っていたわけですね。

 そこで二人が叩いたのが旅行代理店のドアです。愚かですが、若いということにしておきましょう。スタッフと散々言い争いをしながら決めた渡航先が、なんとオーストラリア。二人の愚かさもこの時はピークだったのでしょう。


 飛行機の中で薫はこんなことを考えていました。

「機内のアナウンスは、英語と日本語で内容が異なるのはなぜか?」

「ワクワクしていることと寝付けないことは本質的に異なっている」

 その間、優子はこんなことを考えていたらしいです。

「我慢できずに機内のトイレで大人の欲求を満たしたらどうなる?」

「アテンダントに見とがめられずにどこまでできるか?」


 飛行機内をいつまでもきょろきょろする薫の横で、優子は窓にへばりついて、何かを指さしては暗くなるまでぶつぶつ言っていました。誰かが見ている気がして何度か振り返りましたが、気のせいだったようです。二人で旅行に行けてよかった、と優子は思います。優子はどんなに頑張っても英語が話せるようになりませんでした。薫の方は完璧に近い流暢です。薫がよく優子に語っていました。「日本語で表現できることと、英語で表現できることで、直訳できるのなんてわずかだよ。あとは、ニュアンスの違いをただ楽しむだけなんだ」言葉を大事にする薫と、言葉にあまり関心がない優子の決定的な違いでしょうか。でも、アテンダントと仲良くお喋りしていたのは何故かいつも優子の方でしたが。優子は薫がこの旅行に連れ出してくれたと思っていましたが、薫は優子のおかげでこの旅行に来れたと心底感謝していました。ちなみに、旅行代金のほとんどは武男が生活費のつもりで振り込んだお金です。

 この旅行で特筆すべきことは、二人がほぼ初めて武男がいない生活に入るということでした。武男の助けもなく、愚かで若い(幼い)二人はこれからどうなっていくのでしょうか?


 海外へ拠点を移す若者について、優子が苦々しくこう評したことがありました。「アジアでもヨーロッパでもそうだし、きっとアメリカもそうなのかな。というか、世界中どこに行ってもなのね、そこが居心地良すぎて日本に帰れなくなっちゃった日本人たち。留学と言えば聞こえがいいから誰も止めないけど、糧にできてる人がどれくらいいるかな?住む場所を変えて解決するような問題だったら、きっと日本にいても解決できそうだよね。努力が足りないんじゃないかって思わないのかな?」

 優子はここで口を閉ざして、その後その話題に自分から言及することはありませんでした。多分、それ以上言うと悪口になってしまうと思ったのでしょう。優子が率直に述べたことの中には、怖いほど真実を言い当てている節もあります。ただ、まあ、青臭いですね。武男の一言:「自分がやっていることを否定されることは嫌なものだし、間違いを指摘されて、むきにならずにいられる人もいないだろ?」優子の場合は、自分を否定されることよりも他人を否定することの方が嫌いでした。ちなみに、薫の場合は優子ほど自分を肯定することができない期間に入っていましたので、他人を批判するのもされるのも大好きでした。オーストラリアでは薫の方が快適だったでしょうね。旅先での英語のやり取りが可能なのも薫だし、未知との遭遇(食べ物のことです)をより楽しめるのも薫、道に迷っても平気な顔をしていられるのも薫の方です。ただ、飛行機内では薫は苦しそうな顔をしていました。薫:「自分の上に空があるのは普通でも、下にあるのは落ち着かない感覚なんだ」優子がずっと頭を撫でてあげていました。2回目の機内食の食べ方についてちょっとケンカがあったようですが、食べ終わる頃にはいつも通りどうでもよくなっていました。優子曰く、「機内食というのは(異論もあるだろうけど)どんな旅行であっても全行程の中で1、2を争う程素晴らしく、行きでは異国情緒を盛り上げ、帰りは遠い祖国に思いを馳せさせてくれるもの」食べ物の好みが合わない二人もこの点については一致していました。給食であれ屋台食であれ型にはまった食事の唯一の良さは、独特の感覚を追体験させてくれることと言えるでしょう。そしてその場合、チープであればあるほどその効果は比例して高まって行くことが最近の研究で証明されています。

 飛行機を降りた直後に優子はまた誰かの視線を感じましたが、それは空港を出るころには消えてしまいます。ブリスベン国際空港に降り立ってから、二人はある取り決めをします。食べ物についてなのですが、「いつものように/現地の人の流儀で」いこう、というものでした。今回の1カ月の全行程の中で唯一賢い決定だったと言えます。1皿60ドルもするような名物料理を食べるのではなく、みんなが食べているものを食べよう!いつも食べているものを、現地の風味で味わおう!という趣旨でした。このだらしないルールがだらしない二人には最適の選択だったようで、事実二人とも、スシやミソシルが恋しくなることは一度もありませんでした。初日の食事は全部挙げていってもピザスタンド、サブウェイ、何が入っているか見当がつかないハワイアンファストフードだったのですが、二人ともこの上なく幸せそうでした。この後二人には、炎天下の中でバスが故障して下ろされたり、ホテルだと思って予約した部屋がオーナーの息子のイヤらしい「思い出の品」に埋め尽くされていたり、コンビニでカツアゲにあったりと心温まる出来事が続くのですが、そこの詳細は省いておくとします。今回の旅で、図らずも巻き込まれてしまったあの魔境についての話をしましょう。かの国は移民の国ですから、多様な人種、多様な文化、時に多様過ぎる価値観が混在しています。薫:「治安が決してよいとは言えない地域も多々ある。夜中一人で歩いていた女性が惨殺されることもあれば、時に男性も惨殺される地域だってあるのだ」※そのほとんどが旅行者で、この事実はあまり明るみには出ないようです。ダスティン・ホフマンが言うには「よくある安易な自己責任論を助長したいのではなく、当該国の文化・歴史を抑えた上でどこまでが許される範囲か?という線引きの基準を各人が持つことを推奨したい」二人の場合、それはちょっとした言葉の勘違いから全てが始まりました。

 ダスティンの言葉:「オーストラリアでは自然保護が盛んで、広大な国立公園と自然保護区が各地に点在しているんだ。同時に、地域住民の意識も高いことが多く(ナチュラリストと呼ばれているね)、また個人が所有する不動産がしばしば莫大なこともあって、「個人所有の保護区」というものが珍しくない。そういった場所では「持続可能な繁栄」という行動原理が据えられ、増えすぎたカンガルーの肉をレストランで提供し、観光客が使ったお金を保護に充てる、といった取り組みが行われているんだよ」優子は行きの機内でそのことを知って、しばらく鼻息が荒くなっていました。優子は薫と違って物事を一面的にしか見ることができませんでしたから、こういった活動を心底賞賛しているようでした。旅行の3日目、優子はヒマつぶしに買った電話帳の中に「ナチュラリスト」の項目を見つけて異常に興奮し、「ここに行きたい!」と言い出してしまいました。優子は以前からのめり込む傾向がありましたので、今さら薫が何を言っても聞く耳持たないようです。片端から電話をかけ(優子は英語が話せないのですが、会話を成立させることはなぜか薫よりも熟練していました)、相手を混乱させたり相手に怒られたりしていましたが、最終的にブリスベンから200キロ内陸に入った地域にある「テイラーウッド・リゾート」で働かせてもらう許可を取り付けることに成功します。これが全ての混乱と間違いの元なのですが、優子は大喜び、薫は呆れ顔でした。でもおそらく問題ないでしょう。人は間違いから学ぶことが最近の研究で証明されています。


 そのリゾートの持ち主はテイラー夫妻で、当日は夫のロジンが最寄りの町まで(フロントガラスにひびの入った)高級車で迎えに来てくれました。

「気にするな。ウチの車はみんなこうだから」「日本人が来るのは初めてだよ」「君たちのディナーを買って帰ろうか。好きなだけ積むといい」とてもにこやかで感じのいい、大木の精のようなおじいさんでした。(ロールスロイスだよ)と薫が優子に耳打ちしても、優子には何のことだかさっぱりでした。会話の内容もほとんど耳に入っていなかったようです。「今日は服を着てるよ、外出してるからね」・・・不穏な空気にも優子は気づいていなかったようですね。また誰かの視線を感じましたが、優子は気づかない振りをしました。

 後は察してください。薫はいつものように荒れ狂いつつも清らかな心で全てを受け入れ、優子は何を考えたのか分かりませんが、とにかく受け入れることにしたようです。二人用に十分な広さのあるキャラバンを提供してくれましたので、ありがたくそこに荷物を置いた上で服を脱ぎ、迎えに来たロジン氏と二度目のご対面です。「彼が性を感じさせないような年齢で、なおかつ新参者に対して配慮してくれたからこそ受け入れられた。優子もきっとそうだったはずだ」と薫は後に書いています。空は晴れ渡り、風はさわやかで、なんというかいろいろと余計な希望に満ちているようでした。優子はよちよち薫の後をついて歩き、なんとなく道端の草を触ったりしています。薫はこの時点で全てを諦めていましたから、堂々とぶらさげて歩いています。一刻も早く現状になじもうと必死な二匹の子猫でしたが、立派な体格のリンダ(奥さんです)を紹介された時はショックの余りキャラバンに逃げ帰り、その日一日そこから出てきませんでした。

 二人とももっと英語をよく勉強しておくべきでした。ナチュラリストという言葉は、「全裸のライフスタイルを送る人」を意味することがあります。とはいえ文化や歴史背景に対する認識の差もありますから、愚かで幼い若い二人が勘違いをしたのも無理はないのかもしれません。もはや二人にできるのは、運命の下品な流れに身を任せることだけです。優子はそのことで後世いつまでもぶつぶつ文句を言っていました。

 しかし、この偶然の出来事が二人の性生活に思ってもみなかった福音をもたらします。二人とも自分が思っていた以上に変態だったようで、日本では不可能だったこの楽しい生活に一筋の光明を見出したのでした。身体の露出は比較的一般的な性癖として市民権を得つつありますし、先進国に住む人間の8割以上に露出願望があることが最近の研究で証明されています。二人が日本にいた時には週末のみの悲しいお勤めだったのが、ここでは夜寝る前に1回、朝起きたらもう1回、余力があれば昼休みに早送りで、という過密スケジュールへと組み直されています。薫に創造性が足りないのもあって今は回数が増えただけですが、優子の顔色はどんどんつやつやになっていきました。武男にセクハラ紛いの嫌がらせを送ったのもこの頃のことです。そして二人にとって更に幸運だったのは、このリゾートの住民がいろいろと粒ぞろいだったことでしょう。

 現状最も新参の優子たちの少し前に、別々に到着した若い男性二人。このリゾートには優子たちのような「スタッフ」と「ゲスト」とがいるのですが、この二人はどちらも「スタッフ」希望だったので隣り合うキャラバンに放り込まれたところ、血を見る大喧嘩に発展。「彼が毎晩宇宙的な音楽を大音量で流すのが耐えられず」暴行に至った、と片方は認めています。殴られた方の男性はしばらくの間足を引きずって歩かなければならなかったのです。二人の衝突は収まらず、毎晩のようにののしり合う声がゲストのキャラバンにまで響いてくる程でした。そしてその後、二人は恋人同士になったようです。今では二人は一つのキャラバンを占有し、夜毎に宇宙的な音楽が響くようになっています。「宇宙的な音楽を流された状態で勃起できるのは僕にとって不思議だった」と薫は後に書いていますが、音楽で興奮した片方がもう片方を殴り、殴られた方が益々興奮するという好循環になっているようです。優子はこの二人のことが気になって気になって他のことが手につかず、音楽が聞こえてくると壁に耳をつけていました。

 そして、この二人のことが羨ましくてたまらない老け顔の青年フィル。ナチュラリズム愛好家にその手の性癖の持ち主が集まるのは偶然ではなく、彼もまた「月明かりの下で行う情熱的なスワッピング」に憧れてこの地のドアを叩いたようです。彼はいろいろと異国情緒溢れる小道具を持っていて、優子に使い方を逐一説明してくれました。優子は難しい顔をして聞いていましたが嫌悪感を持っていたのではなく、なまりの強い英語が聞き取れなかったのでしょう。ともあれ優子と薫の夜が一層意義深いものになったのは彼の貢献によるものと言えます。

 それから出生地不明のアボリジニ系、カカ。このリゾートで一番優子に影響を与えたのは彼だと言えるかもしれません。怪しげな魔術や宗教に精通していて、食事に一風変わったこだわりを持っていました。自然と人間の対立と調和という構図を強く標榜する彼は、この地で最も気高いナチュラリストです。ただ、「アボリジニというのは自称だ」とフィルが薫に教えてくれました。

 カカに傾倒している、環境先進国ドイツからやってきたセバスチャン。どうでもいい情報なのですが、透き通る目をした美青年です。彼は優子と同じようにカカの言うことを全て鵜呑みにしていて、優子と一緒に歩くカカの後をひょこひょこついて歩くセバスチャンという図がよく見られていました。彼はカトリック家の出なのですが、「欺瞞に満ちた教義に嫌気が刺した」とよく優子に言っていました。彼は中絶には賛成で、出所した性犯罪者にGPSをつける運動にも署名しています。

 セバスチャンと最も頻繁にケンカになっていたのが「カウボーイ」ビクター。ボーイという年齢ではなくなっていますが、ここでは最長老であるばかりかスタッフ用のキャラバンに滞在するゲストというちょっと近づきがたい位置づけになっています。実際に一人でいることが誰よりも多く、どこぞで調達してきた骨付き肉をあぶっている姿が何度も目撃されています。彼にとっては自然は征服するものであり、それは力づくであればあるほど達成感を伴うもの、ということでした。薫はちょっとだけ彼に憧れています。ビクターは冷徹なまでのカトリックなのですが、中絶については意見を決めかねているところです。中絶反対派の過激な抵抗運動のとばっちりを受けた苦い経験があるらしいのですが、詳しいことはなかなか教えてくれません。ちなみに1993年のシアトル病院爆破事件のとき、たまらず駆けつけていたそうです。

 孤立派のビクターに対して、人を選ばずいつでも誰かの側にいたい寂しがり屋がテディ。名前に惑わされそうなのですが、彼は生粋のジャーマン・シェパードですので決して油断してはいけません。彼はどんなに遠くからでも人の気配を察知して、彼専用のコテージの前で待ち構えています。ちなみに目が合うと顔を覚えられ、次に会うときには必ず挨拶をしないと鉄の制裁が下されることになります。矛盾するようですが臆病な寂しがり屋というのはいないもので、最高に甘えたいときのテディは無慈悲のタックルを食らわせてきます。一度挨拶を忘れて彼の機嫌を損ねた薫が後ろからぼこぼこにされたことがありました。彼の教義は、言葉にするならば「求めよ、さらば与えられん」的なものでしょうか。彼は過去に一度、フィルに対する強姦未遂の疑いがかけられています。

 テディと一番の仲良しはダスティン・ホフマン。彼は1年の内、撮影以外のほとんどをこのリゾートで過ごしています。この当時、彼は「ザ・ディーラー」の撮影終了直後でした。両親に違法麻薬での逮捕歴があり、自身も高校生の時に2度保護観察処分を受けているのですが、未だにここではコカインが辞められないようです。「日焼けしながら(打つ)のがいいんだ」当然、筋金入りのリベラルです。古き良きフットボールよりもバスケットボールの方が好きで、柔道はなんと専属のコーチが付いている贅沢ぶり。土地や建物にお金をかけるのが嫌いで、自己投資が最も回収率の高い投資だと常に言っています。それなのにワインよりもエールばかり飲む理由は?「僕は堕落した福音派だからね」とのこと。イラク派兵には反対ですが、アフガン派兵には真っ先に賛成していました。最近のお楽しみはカカをからかうことらしいです。妻と疎遠になっている理由についてこっそりと優子に教えてくれましたが、個人的な事なのでここに書くことができません。

 ナチュラリストリゾートにはフリーセックスの信奉者が多いのは証明するまでもない周知の事実なのですが、ロジン&リンダ夫妻はその風潮からは距離を置きたいようでした。ダスティンの場合、どんなに一般常識からかけ離れていようと「いいんじゃない?」の一言で全て済ませてしまうのですが、夫妻は「NOフリーセックス」を鉄の掟としていました。というより、それがここでの唯一のルール。あなたがもし隣のカップルとスワッピングをしたくなったら、頭を下げる他ありません。時々、「どうしたら彼氏/彼女に危険なプレイをさせることができるか?」という質問を受けることがありますが、実はこれは経験によって獲得していく技術なのです。優子は、「他人に自分の要望を受け入れてもらえるよう交渉するのは、誰でもが参加できる公平で楽しいゲーム」と言っています。自分用のキャラバンでやってきた中年夫婦(名前は忘れてしまいました)は、毎日のように「自分たちのネジまわしのようなワイルドなプレイ(※そのまま引用)を見てくれないだろうか」とお願いにまわっていました。薫も興味津々で拝見しに行ったことがあります。とても参考になったような気がしましたが、もしかしたら時間を無駄にしたのかもしれません。ともあれ、夫妻はリゾートのちょっとしたスターも同然です。あまりにも毎晩楽しそうにしているのでみんなが気になって周りに集まってしまうのでした。ただ、ちょっと声が大きすぎるのがたまにキズでしょうか。二人の声が聞こえてくると、ほとんど場合テディがそれに反応してわんわん吠えだすので、何が何だか収集がつかなくなります。誰に対しても劣情を催すテディでしたが、この夫妻を見ているときにはいつも以上に目がきらきら輝いていました。

 優子と薫が到着した夜にはロジン&リンダが歓迎のパーティーを開いてくれようとしたのですが、独特な空気とテディの傍若無人ぶりに怖気づいた二人は断ってキャラバンに逃げ帰ってしまったのでした。二人をにこやかに見送る人達の中に一瞬だけ、かすかに異質な視線を感じたような気がしますが、おそらく気のせいでしょう。

 その夜、キャラバンの中で優子も薫も何だか落ち着きませんでした。旅先での一夜というのは興奮も不安も各種混ざり合って独特な楽しさがあることが最近の研究で証明されているのですが、この時はちょっと違っていたようです。遠くからかすかに聞こえてくる、何をやっているか大体察しがつく声。接触の悪く、照らされ方が均等でない照明。味気ないベッド。焦げた匂い。普段から、そしてこの旅行中もありとあらゆることを逐一日記に記している優子でしたが、この夜に二人がどんな会話を交わしたかについては一切触れられていませんでした。その後手を握り合って眠った二人でしたが、実は眠ることができたのは薫だけでした。

 

 このリゾートに滞在している間、二人はプライバシーという概念について新しい発見をします。ロジン:「それは能動的なコミュニケーションと関係していて、自分に関わる全ての人との間で距離感を自由に設定し、また調節することが出来るものなんだ」例えば、ここでは朝は自由に起きることができます。当然ですが、誰も起こしには来ませんし、朝食も各自で勝手にとることが出来ます。この当たり前すぎると言ってもいい前提が、当時の優子には衝撃でした。彼女はこのコミュニティについて、どうも一方的な思い違いをしていたようです。閉鎖的な集団の中ではその構成員は全て密接に(主に精神的に)関わっているというのは思い込みで、少なくともここでは「集団生活」ではなく、たまたまそこにいた個人個人が時間と場所を共有すること、なのでした。このリゾートの存在意義である「全裸で過ごすこと」とプライバシーの保持を共有させる方法も、この距離の取り方に秘密がありました。なんとなく察しがつきませんか?

 優子と薫が中央のオープンキッチンに行くと、ロジン&リンダ夫妻が朝食を終えるところでした。「来たね。おはよう。朝食を用意しようか!」ロジンが巨大なボールを取り出して、そこにオートミール/バター/砂糖/水を入れてかき混ぜ始めます。「これをチンしてきたまえ」それで完成?呆気にとられた二人でしたが、そのあまりの美味しさにまた言葉を失ってしまったのでした。単純ですが、二人がメモに残した唯一のレシピです。「今日こそパーティーをするからね」「覚悟しておいてね!」嬉しそうな夫妻。後で分かったのですが、二人とも口実をつけてパーティーをしたいだけなのでした。リンダがリゾート内で収穫したマンゴーを搾って飲ませてくれました。「衝撃で身体が固まった」と薫は後に書いています。美味しいものを食べたこともあって、二人の肩の力が大分抜けてきたところを見計らってロジンが初仕事をしよう、と言ってきました。

「昼まで草刈りしてね」の言葉と巨大な草刈り機ともに、優子と薫は広大な敷地内を刈りはじめました。亜熱帯に位置するテイラーウッドは直立のヤシ科の木と様々な多年草に覆い尽くされているのです。ちなみに、サンダルを履くだけで当然通常のドレスコードのままです。近くで例のDVカップルが一緒だったので初め優子は胸を隠しながら作業していましたが、途中からどうでもよくなってきて、それと同時に作業そのものが楽しくなってきました。「いつの間にか身体に対する自意識が抜け落ちていた」と優子は後に書いています。「自然と一体になる感覚を覚えた。人間も自然の一部なのだと実感できた瞬間だった」などとお花畑な感想を残しています。この後優子は毒蛇に咬まれるのですが、自然の一部と実感できたかどうか聞いてみたいところです。

「君に大切な仕事を頼みたい」ロジンが優子をおいて薫を連れ出しました。敷地内の真ん中に位置する巨木の周りに、人が集まっています。「来たかい。これは大切な仕事だ。君にやってもらおうと思ってね」とビクター。「コイツは鶏を襲うからな。見つけ次第適切に対処しなきゃならないのさ」上、上というジェスチャーで見上げると、ヤシの葉の付け根の部分に黒いものが張り付いているのが見えて、薫は眼を疑います。これ、英語ではなんていうんだっけ?「黒イグアナだよ」大きさは柴犬ほどでしょうか。「害獣は処分しないとな」振り返ると、どこかに消えていたロジンが嬉しそうに散弾銃を手にしていました。「やったことないんだろ?」日本から来た若者に体験させてやろうということらしいですが、親切心なのかどうか薫は判断に迷いました。捕獲してどこかに放す、という選択肢についてセバスチャンとビクターが後ろで言い争っていましたが、「気にするな」というロジンの一言で薫は心を決めます。何事も心を決めるのだけは迅速な薫でした。もちろんこのリゾートでの正装のままです。ネクタイを締めておけば完璧だったでしょうね。ロジンがこの男らしい瞬間を写真に収めてくれていて、薫は大切に日本に持ち帰って来ていますが、友達に見せられるかどうかは判断が必要かもしれません。何か英語ではない呪文のようなものを後ろでごにょごにょ唱えていたカカの声が、撃つ瞬間に大きくなったのを薫は感じました。予想に反してポップコーンが弾けるような軽い音とともに、イグアナが落下します。周りで男たちが十字を切っていました。「何事も遠くから見ているだけで主体的に参加してこなかった自分にとって、それはまさしく初めての体験だった。命を奪うことについても具体的な実感が伴って奇妙に爽快だったのだ」と薫は後に書いています。実際は落ちたイグアナに近寄って、とどめを刺さなければなりませんでした。身体を裂かれて絶命したイグアナを持ち上げて記念写真を撮らされて、薫は死体の処理に出かけます。安置する場所はゴミ缶の中でした。カカが食べたそうにしていましたが、セバスチャンに必死に止められていました。テディが尻尾を振りながら後をついてくるので薫はずっとびくびくしていたはずです。イグアナもふと生き返りそうな気がして、薫の手に汗が滲んでいました。

 初日に二人に起こったこれらの出来事が、二人に少しずつ影響を与えていきます。優子は自然回帰の傾向が一層強くなり、どういう解釈か不明ですが肉を一切食べなくなります。肉を食べようとする薫を本気で怒るほどでした。カカの話を熱心に聞くようになり、一緒になってアボリジニのお祈りを毎朝唱える姿が目撃されています。そう言えば自転車でロールスロイスに並走しようとしていたこともありました。ところで、優子がやっていたこれらのことには全て誤解が含まれているのにお気づきかもしれません。彼女の浅薄な知識と情熱がなすところです。ビクター:「こういったことは真剣にやればやるほど周りの理解を得られなくなるものだ」薫は優子ののめり込みやすい危険な純真さに呆れていましたが、一過性のものであることもこれまでの経験からよく分かっていましたのであえて止めに入ったりはしませんでした。優子は(速度は亀の歩みですが)わずかながらも成長過程にありますから、いずれ本来の自分を取り戻すことでしょう。薫は人間としての完成度に関しては優子のはるか先を行っていましたが、それが彼に別の悩みをもたらしていました。彼の人生の中で少しずつ積み重ねてきた恐怖感が、時折顔を見せる瞬間があります。それはいろいろなものが混成された新種の恐怖で、一言で言えば「自分を変えることへの恐れ」というものでした。薫は、恋愛も友人付き合いも同時並行で進めることが出来る貴重な絶滅危惧種です。彼にとって優子が最初であり唯一の愛する女性となります。彼を可愛いと思う女性からのあからさまな誘惑が気になることもありましたが、浮気を繰り返しても彼の内なる恐怖感に対する特効薬にならないことは自身もよく分かっていました。周りがそれに気づいていたかどうかすら、今となっては怪しい・・・自分の気持ちを隠すのがとても上手い男だからです。実際、他人の目から見ると鼻もちならない人間に見えることすらありました。自信に満ちた態度と丁寧な話し方は男性も女性も問わず惹きつけることは最近の研究で証明されていますし、自分ひとりで何でもこなせるように見えるところもまた彼の魅力だったと思います。しかしその裏に、隠された感情があることは知っておいた方がいいでしょう。周りの人間と上手くいかなかったとき、彼は自分でもよく分からない理由でその恐怖に対処できないのです。このリゾートでの滞在が、薫の中に心境の変化を産むきっかけとなります。後に薫が自殺したとき、誰も(武男ですら)その彼の悲しみに気づくことはありませんでした。※優子が殺された時期とはかなり年月の差が開いています。薫の人生を振り返ると、そのほとんどが自分を取り巻く葛藤との戦いに費やされたのが分かります。その戦いに使われた武器は、日本だけでなく世界各国で今も心の弱った人間の命を奪っていることが最近の研究で証明されています。

 優子と薫の歓迎パーティーの夜、実にいろいろなことが起こりました。酔っ払ったダスティンが大騒ぎした揚句にガーデンのヤシに登ってヤシの実を投げつけ、2台のキャラバンが半壊し、キッチンの冷蔵庫とピックアップトラックのフロントグラスとリンダの大事なホームプレートが割れました。こちらも酔って激怒したセバスチャンとフィルが共同作業で木を切り倒し、ダスティンはプールに落ちて、倒れた木がパラソルとデッキとチェアを巻き添えになぎ倒しました。カカはアボリジニのかぶりものを被って火の周りを踊り、ビクターはその火でカエル(人面ガエルと呼ばれる巨大サイズです)を炙り、テディがその横でいつものように勃起していました。セックス狂の夫婦は働かないスタッフの代わりにいろいろと世話を焼いてくれて、奥さんが優子に皿を運びながら自慰の奥義について興味深い講義をしてくれていました。幸せなDVカップルは見つめあったまま動かず、今にも何か始めてしまいそうでちょっと近寄りがたい雰囲気です。ロジンとリンダは全身にペイントを施していました。これが趣味なんだと言わんばかりです。奇抜な色彩をアートと言えるかどうかは線引きが必要なところなのだと優子が強く思った夜でした。南国の極楽鳥夫婦がこちょこちょ歩き回っているのを見ながら薫は羨ましくてならず、ちょっと絵具をわけてもらいました。優子もバカで子供じみた振る舞いに関してはその道の権威でしたから、二人して無様なペイントをお互いに施します。薫は目の周りにメガネと、頬に水玉を描いて黒く塗りつぶし、優子は胸に(一度やってみたかった!)ニセの派手なビキニを描きました。二人が悪乗りするので全員におかしな気分が伝染し、結局全員でのペイント大会でその日は幕を閉じました。ちょっと可愛いですよね。

「気付いた?」と優子。「何が?」と薫。全員が幸せになって、全員が酔いつぶれて、世話好きな本能が開花したビクターによって全員が各自の寝所に追い返された後の会話です。そう、優子はまた感じていたのです。あの視線・・・少し斜め後ろから覗き見る好奇の眼差し。私が女で裸だからかしら?日本にいるとき、シャツから覗く胸の隙間に視線を感じることはよくあることです。でもその視線は無防備で遠慮がなく、優子が視線に気づくと相手は目を逸らしてしまうものです。今感じている視線はそれだけではなく、しかも明らかに、明らかに複数の人間が見ている視線なのです。優子は混乱しました。優子が混乱しているのはいつものことなので、薫はそんな優子のことを無視してしまいます。そのことを、薫は後で後悔することになるのですが。


 1989年の春、テイラーウッドが世間の注目を浴びたことがありました。クイーンズランド州プロサーパインで発生した通り魔事件の時のこと。小学生を含む15人に次々に切りつけ取り押さえられたのはその町に住んでいたメラニー・ビッカー。美しい女性だった、と誰もが口をそろえて証言しています。小学校教師だったメラニーの家からは彼女の娘の死体が見つかり、第二級殺人容疑で逮捕が確定します。しかし、送致中に彼女は脱走。その後の行方が今も不明なままなのです。

「被害者は耳や鼻を狙われていました。鴨の骨を断つのに使われる特殊なナイフで襲いかかり、切り落とした鼻や耳、唇の破片を拾い集めていたようです。彼女は、事件を起こす数週間前に同じナイフで自分の耳と左手の指を切断していました。自宅には誰のものか分からない体の一部がジャムの瓶に保存されて見つかっています」当時彼女を診察した精神科医のダニー・ミケルソン。

 事件が起きたのが3月7日。同日のうちに逮捕され、翌日にはウーンバルにあるクイーンズランド州立病院に運ばれ(右腕が折れていたため)、精神鑑定を受けています。4日後の11日、高等裁判所に送致されている社内で警務官の腕を折って逃走。全州に検問がひかれましたが、ビッカーが見つかることはありませんでした。当時は容疑者の護送に関する州法の規定がなかったため、警察の初動が大幅に遅れたことが指摘されています。

「ここに逃げ込んだんじゃないかって言われてるんだ」フィルが教えてくれました。「僕は当時いなかったから知らない。オーナー夫妻は何も言わないし、ビクターも何も言わないんだよ」実は当時、クイーンズランド州には「私有地での逮捕はできない」という州法がありました。この事件をきっかけに法律が改正され、ビッカー法と呼ばれるようになっています。「実は犯人はビッカーじゃないんじゃないかとも言われてる」とカカ。「当日、不審な人物が何人も目撃されてる。あそこは小さな町なのにな。持ち主の分からない青いトラックが残されて、中にはナイフが大量に隠されてたんだ」

 薫は、優子が「誰かに見られている気がしている」ことは知りませんでした。仮に隣のキャラバンに不審者が潜り込んだとしても、何も気がつかなかったことでしょう。女と男の違いではなく、これは優子と薫の違いなのです。薫の場合、結局のところ自分のことしか考えることができないのでした。いわゆる、「自分しか見えない」人にも自己愛が強いタイプと、自分がいつまでも好きになれないタイプと二種類いるものです。モーパッサンがいい例でしょうね。薫はどちらでしょうか?優子は、人のことよりもまず自分の利益を考える方ですが、それは自分しか見えていないのとは異なっています。実際、他人に積極的に関わっていくのは薫よりも優子の方でした。もしここで殺人鬼とか切り裂き魔に遭遇したら、自分はどうするだろう?と優子は考えてみます。重量挙げをやめてからも優子の身体は鍛えた鋼そのもので、例えば体力測定をやらせたらこのリゾートで誰よりも高いスコアを記録することでしょう。しかしスポーツではない、やるかやられるかの対峙だったら優子は誰にも勝てないはずです。彼女本人ですらそう思っています。なんだか苛々してきたところで、彼女はそう遠くない昔暴漢を取り押さえたことを思い出しました。あの頃の自分と比べて、何がどう変わったのだろう?自分はちゃんと成長してるだろうか?優子は考えているうちに、何に苛立ちを感じていたのか忘れてしまいました。薫は自分の成長が止まっていることを実感するといてもたってもいられない方なのですが、優子は自分がどう変わっても平気でいられるようになっていました。実際、中学生の時を頂点にして優子の性格も素行も悪化しつつあるような気がします。まるで外国為替のように小刻みな上昇を繰り返しながらも、全体でみるとやや下降線なのでした。もしナイフを持った殺人鬼/血に飢えたジャッカルに遭遇したら、今の優子は多分実家に電話するでしょう。ちなみに薫に聞いてみたところ、「逃げる。逃げる余地がなければ戦う」という男らしい答えが返ってきました。優子はそれを聞いてちょっとだけぞっとします。自分と薫の間の埋まらない溝を実感したような気がしました。以前の薫だったらけしてこんなことは言わなかったはずなのに、何があったんだろう?

 テイラーウッドには前科者がいるからな、と誰かが言っていました。でも・・・と優子は思います。今はみんないい人だよね?ダスティンは違法麻薬で2回の逮捕歴があるけど、今はあんなに立派だしよい映画を何本も撮ってるもんね。でも、後の人は知らないな。みんな、どんな人生を歩んできたんだろう?

 自分のことで頭がいっぱいな薫と、他人のことが気になって仕方がない優子が実に好対照ですね。優子は段々楽しくなってきて、暇な時にはカカがくれたアボリジニのかぶりものをかぶって歩き回り、薫をイライラさせていました。殺人鬼がいてもいなくても、なんだかどうでもよくなってきたようです。肉を口にしない点ではリゾートの誰よりも過激になりましたが、もう薫に草食を強要することもなくなりました。そして、この独特な食生活にもいずれ飽きてしまうことになるのですが、これは薫が予想していた通りですね。自分を自然の一部だと思ってしまう病気の方は少し長引いているようで、動物を見ると最上級の博愛の精神をもって近づいた結果、誰よりも多く毒蛇に噛まれた記録保持者になりました。リンダ:「オーストラリアは危険な毒蛇トップ10の内6種がいるのよ!」優子は何も言いませんでしたが、知らないうちに毒蛇に噛まれることが好きになっていたのではないでしょうか。それとも失敗の経験から学ばないのか、悩むところです。ある夜、言うまでもなくベッドの上でのことですが、「何も言わずに噛んで」と優子にせがまれて薫は冷や汗をかいたことがありました。痛みに性的な興奮を覚える現象はかなり一般的な感覚であることが最近の研究で証明されていますが、優子はちょっと変かもしれません。「ヘビで縛ってほしいというのはどういう意味か分からない」と薫は後に書いています。

 テイラーウッドにいると、各人の様々な性癖を間近に見ることができます。フィルは「オシッコが気持ちいいんだ。女の子も同じなのか?」と言っていますし、ロジンは耳の刺激だけで絶頂に達することが可能らしいです。セバスチャンは「腹筋中に射精したことがある」経験の持ち主です。彼を研究対象にして学会で発表すればそこそこの名声が得られるかもしれませんね。リンダは精液をソーセージにかけて食べることが大好きで、冷蔵庫の中にマイボトルが保管されているとのこと。ダスティンはテディに「アソコを舐めてもらってもイカないんだ」と悲しそうに打ち明けてくれました。将来有望ですね。ビクターは妊婦のヌード写真集が「墓場まで持っていきたい宝物」らしいですが、彼の宗教的な信条と反することはないのかちょっと心配になります。「強力すぎるセックスパワー(※そのまま引用)」を持つあの夫婦ですが、数日前に妻が病院に運ばれ、夫は殺人未遂で逮捕されてリゾートから退去して行きました。妻の頭がスイカに見えたのでバットで殴った、という疑いが持たれています。優子も「お尻がサッカーボールに見えたから」という理由でこの夫に蹴られてプールに突き落とされていますのでウソを言っているわけではなさそうです。薫がある夜酔ったカカにレイプされかける、という微笑ましい事件もありました。このとき薫は茫然自失状態で、キャラバンに帰った後泣きながらオナニーしたらしいです。優子はこの時テディの鼻にできた鼻くそを取ることについて外を歩きながら真剣に考えていたので、薫の無様な姿が見られることはありませんでした。優子が近くのキャラバンの側を歩いていると例の暴力カップルが公開オナニーの途中でしたが、どうやら彼女は気付かなかったようですね。

「やあ、こんばんは」「こんばんは。いい夜ですね」全身を金色に塗って斧と槍を持ったロジン&リンダ夫妻とすれ違いました。優子は振り返り、金色の光を放ちながら遠ざかっていく二人を愛おしそうに見つめたのを覚えています。その後、優子ははあはあしたテディに追いかけられるフィルとすれ違い、それから胸毛を三つ編みにしようと格闘中のビクター、ペニスにひもをちょうちょ結びに巻いて締めあげているカカ、新しい刺激を求めて腕立て伏せをしているセバスチャンとすれ違いました。どこからかダスティンがスペイン語でわめいている声がさざ波のように優子の耳に届きます。この夜優子が何を考えていたのか分かりませんが、キャラバンに帰ってきたときにちょっとだけ優子は泣きました。


 ナチュラリストが集うリゾートについて、「性的に奔放な生活スタイル」を追求する集まりだという認識が根強いようです。ロジン曰く「言葉の影響力を分かっていない無責任な報道」に踊らされて、今でもテイラーウッドには年に1度か2度は淫らで背徳的な集団を追放するべきだと信じているどこかの人権団体が列を作ります。時に無理矢理侵入してくる狼藉者に対して、ロジンもリンダも何も言わないようにしています(テディが迅速に弔いの鐘を鳴らしてくれることもありますが)。

「どうして?」と優子は聞いてみたことがあります。「彼女も見ている内に気付いたはずだ」と薫。そして、そんな優子に薫はちょっとだけ苛立ちを感じていたのでした。薫はあらゆる理不尽なことに対して、遠慮せずに怒りをぶつけるようになっていきます。武男なら「本能の開花かな」と言ったでしょうが、優子は内心いい傾向じゃないのと思っていました。自分のことを肯定的に見ることができるようになると、パートナーに対する理解もまた一段と深まることに優子は驚いていました。薫はおそらくまだ気付いていないし、だからこそ苛々しているのでしょうが、優子は段々と薫を母性のまなざしで見ることが多くなってきたようです。きっと薫もそんな優子に感謝するようになるでしょう。そして、優子はリゾートの仲間たちに対して感謝の気持ちを抑えられずにいました。当初、優子は自分の身体のことがどうしても気になって、男性と話すときには胸を押さえて俯きがちにぼそぼそしゃべっていたものでした。でも、顔を上げて話すようになって気付いたことは、彼らは胸を見るよりも顔を見て話してくれます。不意に劣情を催したときでさえ、「ごめんね」と礼儀正しく照れ笑いで済ませてくれるのでした。自分の方が認識が間違っていたのかと優子が思うほど、彼らは優子の身体に興味がないようなのです。

フィル「いや、興味はあるんだ。でもじろじろ見たりはしないよ!それってマナーって言うんじゃないかな・・・ちょっと違うかも」

 そう思う?

カカ「基本的には賛成だね。マナーではなくてルールかな。どの社会でもルールはあるだろ?」

 ダスティンが一番上手く表現していました。

「例えば足のないホームレスがいたとするよね。でも誰も彼らに目を向けたりはしない。でもそれは無関心っていうこととはちょっと違うんだ。それが社会的弱者と言われるような人の場合、じろじろ見つめたりするのは失礼だと思うね。自分に危害を加えるようなことがない限り素通りするし、関心があれば話しかけるさ」

セバスチャン「僕はただ女の子が苦手で恥ずかしいだけだけど」

リンダ「知らない女性と二人きりになったらどうしてる?」

フィル「話しかける!口説くとかじゃなくて、安心してほしいからね。だから天気のこととかどうでもいいことを話すんだ」

セバスチャン「僕は話さないかも。あ、でも笑いかけるくらいはするか・・・」

カカ「話さない方がいいこともあるだろ。話しかけて怖がらせることもあるし、変な誤解されたらお互いに不幸だ。日本では痴漢冤罪なんて言葉もあるんだろ?」

ビクター「口説くね。でも楽しくお茶でもできれば十分なんだけどね」

優子「なんか話がずれてない?」

 みんなで笑ってしまいました。そして優子は再びちょっとほっとしたような、異性として扱われることと異性として尊重されることの具体的な違いについて初めて理解できたような気がしました。特殊な性癖を持つことと特殊な行動に出ることにはかなりの隔たりがあることも優子には新鮮な驚きだったのです。誰もが異なる性的指向を持っていて、誰もが異なる意見や考えを持っている。そして大事なことは、それらをお互いが尊重している(というより、できている)ことによって、リゾート内という限定した範囲でありながらも人間同士が共に生きていくのに必要な要件すべてが満たされているということなのでした。おまけに、ここではみんな裸で生活するのが基本です。裸でいると根源的な欲求や願望、隠しておきたいどろどろした気持などが明るみに出ることが最近の研究で証明されているかどうかは分かりませんが、換言すると気持ちいいのです。何を隠す必要もなく、自分を殻で包む必要もなく、同時に人と人との距離はそれぞれのプライバシーが守れる程度に保たれている。これだけのことがこのリゾートの外ではほとんど不可能なのですから・・・まず裸で生活することに相当の障害がありますし。

 ナチュラリストに対しては根強い偏見があります。そして、攻撃することによって余計に相手のガードを固めてしまうことが古今東西絶えないのですが、ここでは誰もがみんなガードを外しているのでした。例え殺人鬼がいたとしても、ルールが守られていればここにいてよいのでしょう。性的なことについては話題にしてもいいし、あえて何も話さないことも可能です。ダスティンがとてもいい言葉を教えてくれたので紹介します。

 

他人の大切にしているものを尊重できない人間はここにいちゃだめだ。

  

 薫を恐怖感から解き放ったのも、優子の長年の疑問を解決してくれたのもこの言葉でした。同時に、優子がずっと感じていたあの視線・・・あれも、もしかしたら恐れる必要などないのかもしれません。正体が分からなかったとしても今の優子だったら対処していけそうな気がしています。

 このリゾートにいる間、みんなで色々な話をしました。イラク、コンゴ内戦、南米麻薬戦争・・・国内であれば移民問題、家庭内虐待、宗教の融和。どんな問題であっても、全員の意見が一致することなど一度もありませんでした。それでも、みんなが自分の意見を主張するのをやめたりしないし、他人の意見を否定することもありません。

優子「生きていくうえで一番大事なものって何だと思う?」

 この時だけ、この一瞬だけです。全員があきれ顔をしました。そして異口同音に言った言葉が、「自分も他人も自由に生きられることだ」・・・使い古された感のある言葉が突然別種の輝きを放ち始めた瞬間です。もっと何か説明したそうにもごもご言っていたセバスチャンがテディに後ろから襲われていました。それでもそこにいる全員が満足そうな表情を浮かべていたのは、説明もいらないほどお互いが感覚を共有できているからなのでしょう。そしてこの言葉を聞いた薫が久しぶりに照れたような笑顔を見せたのに、優子だけが気付いていました。

 自分を変えるのは難しいことだと言えます。しかし、「あの人が○○してくれたらいいのに・・・」などと思うことにはほとんど意味がありません。他人を変えるのはもっと不可能だからです。でも、自分が変わることによって他人に好影響を及ぼすことは十分にありうることです。実際、優子が変わってから薫も少しずつ変わりましたね。優子が殺されてから、薫はしばらくの間自分を見失ってしまいます。愛する人を失った悲しみは非常に生々しい上に、薫の場合は自分がどんな人間か分からなくなってしまうため、それを思い出したいあまりに優子に強く依存していたからです。そんな人のことを、あなたなら何と呼びますか?

 

 

 

 

 

 


 


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