提供者
「3100円、か…………」
とある雑居ビルの2階にある診療所の診察室にて、春永氷雨は椅子に座りながらそんな事を呟いた。
彼の視線の先にあるのは、医師免許証。
先日、虎杖によって切断されたため、再交付をしてもらったのだ。
(……命と同等に大切にしていた物の価値は、3100円か…………)
医師免許証の再交付には手数料として3100円が掛かる。
その値段がどうも、自分が大切にしていた物の価値に思えてしまう。
ゲームの敗退条件である、物の破壊によって氷雨はプライドに少しばかりの傷を負っていた。
(…………安い紙切れだとしても、一応は俺の誇りだったんだけどなぁ……)
そんな事をぼんやりと思っていると、どこからか鈴の音が鳴った。
診療所のドアに付けてあるものだ。誰か来た時に分かり易いように付けておいた。
「ちゃんと見ておけよ……今日は休診日だろぉが…………」
そんな事をぼやきながら、それでも自分がドアの鍵を開けていた事にも少しばかり呵責があると思い、仕方なく診察室から出て行く。
「あのぉー、すいませんが今日は休診日なんで―――」
面倒臭そうに頭を掻いていた氷雨は、途中で言葉を切る。
理由は簡単。
相手が面倒な屁理屈を立て並べる前に、脳に干渉して追い返そうと思っていたからである。
その干渉が、出来なかった。
氷雨は来訪者の姿を確認する。少女だ。
赤みを帯びた瞳に、髪型はポニーテール。まだ少しばかり幼い顔付きに、身長などの見た目からして中学生だろうか。
そんな少女に自分のコード《完全干渉》が通用しなかった。
となるとこの少女も、コード使用者か。
「―――何の用だ? 新聞の勧誘も、ゲーム関連の勧誘もお断りなんだが」
「勧誘じゃなくて提供してもらいたいんだけど」
「何をだ? 何にしろ断るが」
少女が自分を訪ねてきた理由は、おおむね察しがついていた。
わざわざ敗者である、もうゲームに参加していない自分に求めるものなど二つなどしかない。
一つは、先日来た《禁思用語》と同じ、ゲームを有利に進める為の協力。
もう一つは、とある四人のコード使用者についての情報提供。
そのどちらかだ。
「《無影無綜》についての情報提供をしてもらいたいんだけど」
「ムカつく野郎だった。俺から言えるのはそれだけだ」
そう言って、氷雨は指を弾く。
途端に無数の氷の針が出来上がり、少女へ向かって一直線上に突撃する。
しかし氷の針は、少女の身に触れる前に蒸発したように溶けて無くなる。
「やっぱりお前のコードは《干渉不可》か」
「そう。貴方とのコード相性は最高よ」
《干渉不可》のルールなど楽に検討がつく。
あらゆものからの干渉を拒絶する。
大方、そう言ったものだろう。故に氷雨のコードによる干渉の類は一切効かない。
氷雨からしたら、天敵のようなコードだ。
「はぁ……ゲームに負けたのを教訓に、隠居生活でもしようかと思ったのに」
《禁思用語》も《干渉不可》も何故、負けた自分などを構う暇があるのだろう?
まだ参加者は7人もいるのだ。そちらに構えばいいのに。
溜息を吐く氷雨の姿を見て、勝利を確信したのか、少女は歩いて近付いて来る。
「さぁ《無影無綜》の情報を――――」
「嬢ちゃん、生意気に俺に命令しようとしてんじゃねぇーよ」
そう言うと氷雨はもう一度、指を弾く。
そんな言葉も行動も気にせずに近付いて来ていた少女は、急に膝をつくことになる。
いきなり立ち眩みのようなものがしたのだ。
「あらゆるものを拒絶する、あらゆる者から観測されない。そんなルールがチートだと思えるのは高校生までだぜ。大人の世界はもっとシビアだ」
胸に苦しさを覚えながら少女は動揺する。
自分には、あらゆるものも干渉できないはずなのだ。コードであれ物理法則であれ、少女が拒絶してしまえば干渉できなくなる。
なのに、どういうわけか氷雨のコードによって今自分は干渉されている? そんなわけがない。
自分のルールは絶対だ。
その通り。少女の思考は一部分を除いて何も間違ってはいない。
「別にお前に干渉できなくても、他のものには干渉できるんだよ。バーカ」
ようは氷雨はこう言っている。
直接干渉が不可能な相手には間接的に干渉すればいい話だ、と。
《非観理論》の時は、どこに居るかが分からなかった為、いっきに全域攻撃をし油断を誘う事しか出来なかった。
しかし今回は違う。
コードを無効化する《否定定義》も居なければ、相手の姿だってしっかりと見える。
ならば相手の周りの環境に干渉し、相手に間接的にダメージを与えればいい。
例えば、少女の周りの酸素濃度をゼロにするように干渉する、とか。
そうすれば少女は息を吸う事はできず、息を吐けば、そこに含まれる幾分の酸素も除去できる。
「がはっ………けほっ…………ッ!?」
少女は首辺りを毟るように手を動かしながら、空気を求めるように悶える。
このまま行けば、窒息死……いや、それよりさきに脳死をしてしまうだろうか?
ともかくこのままでは少女は死んでしまう。
悶える少女の姿を見ながら、氷雨は干渉を解いた。
「かはっ………けほ、けほ、けほッ!」
咽るように咳をする少女。いきなり新鮮な空気を吸ったためかだろうか?
元から氷雨に少女を殺す気などなかった。そもそも殺す事すら許されない。
ゲームのルール上、敗者である氷雨が、参加者である少女を殺す事は適わないのだ。
「これに懲りたら、今すぐ帰りな」
そう言って、氷雨は診察室へ戻ろうとする。
だが。
「ッ!」
数秒で呼吸を整えた少女は、飛びかかる様にして氷雨の首を掴み、そのまま全体重を掛けて氷雨を押し倒す。
「拒絶!」
いきなりの事で流されるまま床にうつ伏せ倒れてしまった氷雨の首に、少女の手から押し潰すように圧力が掛かる。
それは人の体重を掛けて潰すものとは違う。
少女の手に触れられている部分が、無理矢理内側に押し込められるような感覚。
無理に少女の手から離れようと皮膚や筋肉が内側へ、内側へと逃げいるような感覚。
このままでは氷雨の首の中が変形してしまうだろう。
(…………このガキ……ッ!)
少女を退けようにも、直接干渉が出来ない上、この至近距離では間接的に干渉した場合、自分自身にも影響が及ぶ可能性がある。
そしてこのまま首に手を当てられていれば、愉快な首の形をした死体になってしまう。
氷雨は、少女に降るしかなかった。
《完全干渉》あっさり敗北。
まあ、ゲームのルールと、相性の問題が重なったからなぁ