妹に婚約者を奪われた姉ですが
お互いに愛があったか、と聞かれればきっとその時はなかったのだと思う。
家同士で結ばれた婚約。互いの家の利益を追求した結果の言ってしまえば政略結婚。
けれどもそれでも互いに歩み寄っていけば、いつかは恋をしなくても、愛か情か、ともあれ何かは生まれるのだと思いたかった。
……のだけれども。
エウラリア・フォルマーテの婚約者であるケネット・オルバスは、エウラリアの妹であるモルネアと恋に落ちた。
「ごめんなさいお姉さま……悪いとはわかっていてもこの想いをどうしても抑えきれなかったの……」
「モルネア、悪いのは僕だ。婚約者がいながら君を愛してしまった……」
(はいはい茶番茶番)
目の前で繰り広げられるそれを、エウラリアはしらーっとした目で眺めていた。
昔からモルネアはエウラリアの持ち物を羨み、欲しがってばかりだった。
同じような物であってもエウラリアが一度手にした物の方がより良く見えるものなのか、なんでも強請った。
母が何度も窘めていたけれど、結局一向に改善はされなかったし、その母は三年ほど前に流行り病に罹った事で亡くなってしまった。
悲しみに暮れるモルネアに、父は一層彼女の心の慰めとなるように……と甘やかした。
母が何度も矯正しようとしていたけれど効果がなかったのは、モルネア本人の性根もあるが、父が馬鹿みたいに甘やかしたのも大きいとエウラリアは思っている。
エウラリアは長女で、いずれこの家を継ぐ存在だからこそ甘やかす事なく厳しく育てられた。
対するモルネアはいずれどこかの家に嫁ぐ事から、いつか別れると思ったのだろう。
父の愛情の比重は誰が見ても明らかにモルネアに偏っていた。
確かにモルネアは見た目は可愛い。愛嬌もある。
エウラリア以外の人間には、という言葉がつくが。
エウラリアからすれば見た目は可愛くとも中身がこれっぽっちも可愛くないし、本当だったらぶん殴ってやりたいわ、と思う事もしばしばあったがそれを実行すると間違いなく怒られるのは自分なので我慢していただけだ。
脳内ではもう何百発殴ったか、既に憶えてすらいない。
娯楽小説にもこんなんあったわね……なんて目の前でごたごた言ってる二人を見ながら思ったものだが、しかし娯楽小説と異なる点が一つあった。
「そこまで……そこまで二人は想い合っていたというのか……」
父がいる。
普通、こういった場面では当事者の姉と妹と婚約者、という女二人と男一人の図である事が多いのだが、この場には当たり前のように父がいた。
父は二人がまさかそこまで想い合っていたとは思わず、想い合う二人がそれでも結ばれない状況に胸を痛めたらしい。そのまま心停止しないかしら、とエウラリアは思ったが、まぁそう都合よくこの場で父がぱたりと倒れる事はなかった。とても残念である。
「そうかわかった、そこまで想い合っていたというのならこうしよう。
モルネアをこの家の跡継ぎにしよう。モルネアの代わりにエウラリアが嫁げばいい」
モルネア可愛さに目が曇りまくった愚かな父は、愚かにもそうのたまった。
(馬鹿なの? あぁ、馬鹿でしたわ)
声には出さない。
言ったところでこの馬鹿どもは反省しないし、ましてやどれだけおかしなことを言っているか、自覚さえしないだろう。それどころか自分たちの愚かさを棚にあげて馬鹿とのたまったエウラリアを悪者にするに違いないのだ。
既に何度かそういった状況になっているので、エウラリアの想像は決して間違ってはいないはずだ。
モルネアの本来の婚約者は、この国の貴族ではない。
隣国のフォリアルト公爵家だ。
家格で言えばあちらが上。しかしモルネアはこの婚約に乗り気ではなかった。
それというのも、モルネアの婚約者はモルネアよりも年上で、向こうが求めていたのは後妻なのだ。
この婚約は母が生きていた時に結んだもので、当時モルネアが泣いて嫌がっていたのを忘れる事などできるはずもなかった。
母はモルネアのためだと言っていた。そう悪い話ではないとも。
けれどもモルネアにとってその言葉が信じられるはずもなく、当時も父に泣いて嫌がって何とかしてくださいお父様! と喚き散らかしていた。
当時は結局母の冷ややかな態度に父が負けて、その話はそれきりだったのだけれど。
けれどもモルネアは諦めたわけでもなかった。
隣の国といってもモルネアは行った事がない。手紙でのやり取りすら嫌がってほとんどしていない。
本当にその婚約は結ばれているのか? という疑問が生じる程だが、向こうから一応最低限の手紙が届いているので、関係が完全に断ち切られたというわけではなさそうだった。
(まぁ、いいか)
エウラリアとしては、馬鹿も休み休み言いなさいとか、寝言は寝てからほざきあそばせ、とか。
言ってやりたい言葉は沢山あるけれど結局何も言わなかった。言うだけ無駄だと判断したというのもある。
むしろここで下手に抵抗したところで、じゃあお前も家にいていい、なんて言われてもモルネアの代わりに面倒な仕事だけをやらされて、美味しいところは全部妹とケネットの手柄になる、なんて考えれば。
多分この家傾くだろうけど、それに巻き込まれるよりは嫁ぎ先で自分の立場とか足元固める方に労力を費やした方がマシかな、と思ってしまったのだ。
多分もうちょっとしたらモルネアはその辺気付くとは思うけれど、どうにかしてエウラリアを手元に引きとどめておこうとしたところで、こちらの都合で隣国とはいえ公爵家との縁談を勝手にやめるわけにもいかない。
それなら恐らくはケネットをいいように転がして使う方が確実だと考えるだろう。
当主としてとてもじゃないけど自分にはできませんわ、なんて言おうものなら父が妹を当主に、なんて言ったところで無理な物は無理となるだろうし、であれば当初の予定通りモルネアが嫁ぐしかない。
けれどもそれは避けたいモルネアは無理とは言わないだろう。無理であっても、決して。
――というわけで、婚約者のすげ替えがしれっと行われた。
公爵家には話を通したらしく、向こうも特に何も言ってこなかった。
求めているのは後妻なので、別に結婚相手が姉エウラリアだろうと妹モルネアだろうとどちらでもよいのかもしれない。
嫁ぐ前に自分なりにフォリアルト公爵家について調べてみたけれど、正直よくわからなかった。
何というか意図的に情報を伏せられている感じはしたが、伏せられているというのも本当にそうだと断定できない。
わかった事は、エウラリアが嫁ぐ相手は自分の父よりも年上であるという事だけだ。
そこだけ見れば確かにモルネアが嫌がるのも無理はないと思うのだけれど……
すっかり泥船と化した家にいつまでも残るわけにもいかない。
そうでなくとも隣国だ。気軽に行き来するのも難しい。
なのでエウラリアはさっさと出て行く事にした。
モルネアが結婚できる年齢になってから嫁ぐという話ではあったし、実際それはあと少しだったのだけれど相手がエウラリアに変わったのならばその『あと少し』を待つ必要はない。
なので荷物を纏めたエウラリアは、本当に素早く、未練など一切ありませんとばかりに家を出たのである。
隣国までの道のりはそこそこ長いものだったけれど、とても爽快だった。
何故って、婚約者であるエウラリアを蔑ろにして妹といちゃいちゃする不誠実な元婚約者の顔を見なくて良くなったし、物乞いみたいになんでもかんでも欲しがる妹の顔を見る必要もなくなった。
妹ばかりを溺愛する父の顔もみなくてよくなったし、声も聞く事がない。
エウラリアにとって大切な家族は母だけだったのだな……と今更のように実感したのである。
つまり、それ以外の存在はいくら家族だろうとなんだろうとエウラリアにとってただのストレスでしかなかった。
公爵様がどんな人物かはまだわからないので場合によってはまたストレスが爆上がりするかもしれないが、相手が望んでいるのは愛人ではなく後妻。
多分体裁を整えるためだけの存在で、社交を精力的にやる必要もないと思われる。
そうでなければ母がモルネアの嫁ぎ先に選ぶはずがない。
モルネアのためだ、と言っていたのだから彼女の能力的な面を考えても、無茶な事をする必要はないはずだ。
自分の能力でどうにもできないようなところに嫁いだところで、モルネアの評価が下がって婚家での立場が悪くなるのを考えれば、流石に母がそういった家を選ぶはずもない。
母が隣国の公爵家と関わりがあった、というのも少しばかり不思議ではあるが、いくらモルネアが困った娘であったとしても母とてモルネアを死地に送り付けるような事はしないはず。
そんな風に考えて、それでも最悪の可能性も考慮しておく。
そうしてたどり着いた公爵家で出会った夫になる相手は。
エウラリアと同年代に見えるくらい若々しかった。
「いえ、若々しいっていう限度を超えておりますが!?」
「ははは、それはどうも。これでももう齢は三桁に突入しているのだけれどね」
「三桁!?」
しれっととんでもない情報を落とされて、エウラリアは驚きのあまり声が裏返っていた。
「エルフの血を引いているからね、長寿なんだ」
エウラリアとそこまで年齢的に差がないように見える美丈夫はなんて事のないように告げてくる。
けれどエウラリアにとってはとんでもない爆弾情報だった。
エルフ。
そのほとんどは森の奥で暮らしている、魔法に長けた種族である。
人間の目から見てその容姿は男女どちらも相当な美しさをしていて、人間とは比べ物にならない程の長寿。
――とまぁ、それだけ聞けば悪い人間が捕まえて奴隷にしてやろうと目論んだりもするのだが、一説によるとエルフは神の使いとも言われていて、彼らを害そうとする者たちが今までそれはもう手酷い目に遭ってきたこともあるらしく、奴隷に落とされたエルフは今のところいない。
大体魔法が使える相手を魔法が使えない人間が捕まえて好き勝手しようとすれば、相当な労力が必要になる。愚かな悪党だけが夢を見た結果で終わったに過ぎない。
そんな神の使いとも言われている種族の血を引いているのが、目の前の公爵様らしい。
「社交の場には滅多にでないけれど、それでも人前に出なければならない時というものはある。
そういう時にね、この見た目だろう? 勝手に夢を見て是非妻に! なんて言い出す相手がそれなりにいて、それがもう鬱陶しくて鬱陶しくて。
貴方の母とは昔少しだけ親交があったから、その伝手で名前だけの婚約者をと望んだのがこの婚約」
あっさりと告げる公爵にエウラリアは「成程ね……」と言うしかなかった。
「流石に年齢三桁は公表しちゃうとエルフって暗に伝わるから、年齢だけはギリギリ人間を装ってサバ読んでるけど」
「そうですわね、てっきり高齢のおじいさんかと思っておりましたわ」
「国内では暗に知られてるから今更ではあるけれど」
「その情報が他国に漏れなかったのってやっぱり」
「そうだよ」
国内で彼の妻の座におさまろうと狙っている相手がそういった情報を広めるはずもない。
この国で貴族やってるだけでも秘匿すべき情報ではあるけれど、広まれば広まっただけ彼の妻になりたいという相手が増える可能性の方が高まるのだ。
そうなれば国内で自然と暗黙の了解のように口を噤む者が現れて情報が他へ流れる事もなかった……と。
つまりはそういう事だ。
「それでもとりあえず今までは婚約者がいる、で押し通していたんだ」
それでも狙ってくる相手がいたから困ったものだね、なんて笑う。
「いっそ第二夫人でも愛人でもいいから、なんて言い出す人たちも出始めてね。そろそろ結婚式を挙げておかないと牽制も難しいなと思い始めていたところだ」
公爵家と縁付けばそれなりに利はあるのかもしれないが、それにしたって必死すぎる。
エウラリアが住んでいた国も、この国も第二夫人だのというものは認められていなかったはずなのに。愛人はまぁ……いるにはいるけれども。
「どうしても参加しないといけない社交の場だけ顔を出すだけでいい。
それ以外は好きに過ごしてくれていい。まぁ、制限がかかる部分はあるけどね」
「制限?」
「屋敷に愛人引き込んで爛れた生活送られるのだけは困るかな。そうなるとほら、こっちにも飛び火して愛人でもいいからって相手がやってくるから」
そういうのを避けるための婚約・結婚であるというのに、それが機能しないのであれば意味がない。
そう言われてしまえば納得しかなかった。
ちなみにこの公爵様、エルフ年齢では三桁突入しているが、人間年齢に換算するとまだ二十代くらいだった。若い。
成程なぁ、とエウラリアは内心で納得するしかなかった。
母がモルネアの嫁ぎ先にここがいいと言っていたのは、まったくもってその通りだったようだ。
面倒な社交はほぼしなくていい。
家の中の事もほぼしなくていい。
毎日男遊び以外なら好きにしていいし、お金もたっぷりあるのでやりたい事の大半はほぼできる。
毎日遊んで暮らせる、となれば確かにモルネアにとって最適でこれ以上の婚姻はなかったはずだ。
たまの社交で美貌の夫を伴ってちょっと顔を出せば優越感に浸る事もできただろうし、大して優秀でもないけれどプライドだけは高い妹にとって、お手軽に優越感をくすぐる事ができる。
大した苦労もないままに公爵夫人の肩書がついてきて、そのくせ面倒はほぼゼロ。
もしあの妹がこんなにいい条件だったと知っていたら、わざわざエウラリアの婚約者を奪うような事はなかっただろう。
「一応聞きますが後妻、というのは?」
「表向き。公表年齢が年齢だからいるって事にしてあったんだよ今まで」
それでもいい加減再婚しろとせっつかれるようになって、周囲のごり押しが大変になってきたので若い娘と婚約して、婚約者がいるので……と国内の婚姻の話をぶった切ってきた、というのが真相だった。
身分良し、ツラ良し、財産ガッポリ。更に他の女を遠ざけるためとはいえ、結婚後に顔見せした時に周囲に入り込む余地なし、とするだろうから溺愛しているように思わせる事もあるわけで。
考えれば考える程、モルネアの優越感とか心を思い切りくすぐられるような展開になるはずだったのね……とエウラリアはますます合点がいった。
てっきり甘ったれた性根を叩きなおそうという強めの鞭かと思った婚約は、しかし本当にどこまでもモルネアのためだったのだ。
(じゃあなんで年上の相手の後妻についてモルネアにきちんと説明しなかったか……なんだけど、それも想像がつくわ)
普通に考えたら若い娘には絶対お断り案件な婚約だが、もしモルネアに相手がエルフであると告げていたのなら。
多分、黙っていられなかったでしょうね、と思う。
隣国に嫁いだ先で悠々自適な生活ができるといえど、自国でそれを大々的に言うわけにもいかない。エルフ相手の結婚など、望んでできるものでもないのだ。自慢するためにモルネアがそれを言った時点で、自分が成り代わろうと目論む者が現れたかもしれない。
隣国との友好のためとか何とか言って王家が横やり入れてくる可能性すら浮かんだ。
公爵は間違いなくこの国の王族の血は引いていないだろうけれど、それでもこの国の王家も彼を留めておきたかったのだろう。そうまでして……と思うかもしれないが、神の使いというイメージと魔法の力はいざという時を考えると捨て置くにはあまりにも惜しいもの。
そのあたりを言えば、きっと彼はまぁ人生長いからね、なんて言うのだろう。
母の交友関係どうなってるの……? と今更のように戦慄したが、既に母はいないので真実は闇の中だ。
「まぁそういうわけだから。好きにしてくれていいよ」
「わかりました。それでは遠慮なく好きにさせてもらいますね」
思えば今の今まで面倒ばかりしょい込んできたのだ。
夫となった相手がこうまで言ってくれるのだから、だったらお言葉に甘えようという所存である。
――さて、姉の婚約者を奪い、自分が姉の代わりに次の当主となった妹・モルネアであるけれど。
人生の絶頂はここが最高潮だった。
当然だろう。姉のように家を継ぐための勉強など今の今まで必要ないとやってこなかったし、モルネア自身面倒な事はやりたくないという性質だった。そんな彼女がではこれから姉のようにやれとなったところで、そう簡単にできるはずもないのだ。
面倒な事は姉に丸投げして、自分は美味しいとこだけ味わう。そうやって今まで生きてきたモルネアが、急に姉のようになれるわけがなかったのだ。
面倒な事はこれから先ケネットに任せればいい、と思ったモルネアは、それ故に勉学にそこまで身を入れなかった。
最初は頼られていたケネットも、でれでれしながらそれを受け入れていたけれど、しかし当主としての仕事のほとんどを押し付けられるようになれば流石に疑問を抱いたようだ。
最初の頃は大変だからちょっとだけ手伝って? という話だったはずなのに、気付けば負担がどんどん増えていくばかり。こんなに大変なのか……と思いながらもケネットもケネットなりに夫として努力はしていたが、こんなに大変ならモルネアは今どうしているのだろう……? と思って確認すれば、彼女は悠々とお茶を嗜んでいた。
それどころか、出かけていて少し前に帰って来たばかりの様子。
どこへ行っていたのかと聞けば、気分転換に買い物だと言うではないか。
ケネットがモルネアのやらなきゃいけない仕事を肩代わりしているというのに、その本人は押し付けた事を悪びれるでもなく遊んでいる。
ケネットが面白く思わないのは当然だった。
こっちだってやりたい事もロクにできないくらい押し付けられて、それでも頑張っているというのに。押し付けた本人がのんびりしているというのも納得がいかない。
一度だけならまぁ、そういう事もあるだろうとケネットも思う事にしたが、しかし一度どころではなかった。
確かに婿入りをして、この家で妻を支えるつもりではいたけれど、何もかもを肩代わりするなどケネットとて思っていなかったのである。
すっかり退いて隠居気分で屋敷の中にいる義父の存在もケネットにとってはイラつく原因だった。
モルネアが女当主として不足ばかりであるというのだから、先代である義父はもっとモルネアに対して危機感を持つべきはずなのに、相変わらずの娘可愛さで甘やかし、面倒な事はこちらもすべてケネットに押し付けるのだ。
反論しようとすれば、愛する妻のためにそれくらいしたらどうだね、とまるでこちらの心が狭いかのように義父とモルネア、二人がかりで責めてくる。
そうして遅ればせながらケネットは気付いたのだ。
今までこの立場にいたのが、自分のかつての婚約者であるエウラリアだったという事に。
どこか忙しそうにしていたエウラリア。
そのせいで婚約者でありながら、中々お互いの時間がとれず交流もままならなかった。
お姉さまったら……なんて仕方がないわねとばかりに代わりに謝罪しますわ、とのたまったモルネアと気付けば交流が深まっていきそうして二人は恋に落ちたのだけれど。
今までは面倒な事全てエウラリアがやっていたから、自分たちはそんな風にのうのうとしていられたのだ、と気付いた時には完全に手遅れだった。
エウラリアを追い出したら、その代わりが必要になる。
ではその代わりはどこから、となれば。
本来のエウラリアの立場におさまったモルネアがするはずもないのなら、その伴侶となった相手に降りかかる事など一目瞭然ではないか!
ケネットがそんな簡単な事に気付けなかったのは、今までエウラリアがどれだけ苦労していたか知ろうともしなかった事と、今までは婚約者という立場の――所謂お客さんだったからだ。
だからそんな内部にまで踏み込む事もなかった。
だが表向きぬるま湯のような環境だったそこは、内部に踏み込めばとんでもない状態で。
婿殿が優秀で助かるよなんて何もかもを丸投げしてくる義父と嫁は何かあったらケネットが全てを解決してくれると思っている。
後先考えず、特に必要がなくても欲しいと思った高価な物を購入したりして、実に好き勝手やらかしていた。
おかげでフォルマーテ家の財政状況は、どんどん傾いていった。
今までエウラリアはこれらを防いでいた。
妹が高価な物を強請ったとしても、だったらお父様の予算から差っ引きますわと脅す事もあった。娘を甘やかしたいが、しかし自分が痛い目を見たくはない。そんなどうしようもない考えで、何度かは引いた父はしかし婿には強気な態度だった。
そしてケネットもまだ義父に対して強気な態度に出る事はできなかった。
防波堤が防波堤として役目を果たせなければ、あとは決壊するだけである。
フォルマーテ家が没落するのは、あっという間だった。
エウラリアが嫁いで一年。
その一年でフォルマーテ家は潰えたのである。
モルネアとその父だけでは一年でフォルマーテを潰すには至らなかった。
けれども、それ以外の者たちの手によってフォルマーテの崩壊は加速し、その結果が一年での滅亡。
姉から奪い取ってばかりだったモルネアは、それ以外の誰かから奪うような事はしていない。けれども、だから姉以外にとって清廉潔白な人間であったか、というと話は別だ。
姉の婚約者であったケネットの存在を、姉の友人たちやそんな友人たちと繋がっている他の人々は把握していたし、それがある日モルネアの婚約者となり、モルネアが家を継いでいるのだ。
その代わりとばかりにエウラリアが嫁いでいったが、しかしエウラリアが何か醜態を晒したという話は一切聞かない。
であれば、余程の馬鹿でも何があったか気付こうというもの。
今まではちょっと考えの足りない子、という認識だったモルネア。その段階では毒にも薬にもならないと思われていたけれど、そうではなくなった。害になる、と思われたのだ。
であればそんな相手と関係を繋ごうと思うはずもなく、モルネアがまだただの貴族令嬢でいたころの友人たちもやんわりと距離を置いたし、家によっては目障りになる前に潰しておきましょう、なんて考えで動くところもあったのである。
ケネットはモルネアにころりと落ちてしまった。可愛い可愛いモルネアが、まさか社交界でそんな風に嫌われているなど、すぐに気付く事もなかったために潜在的な敵が爆発的に増えたなんて知らなかった。
もっとあからさまにわかりやすい出来事があればケネットも多少対処は可能だったかもしれないが、モルネアがやるべき執務の何もかもを押し付けられてケネット自身余裕がなかった。それで気付け、は流石に無理がある。
余裕があれば思考に割く余力もあったが、目の前の事を片付けるだけで一杯一杯になった男には、水面下で密かにモルネアたちを失脚させようと企む者たちの存在を察知できるわけがなかった。
結果として気付いた時には既に手遅れというところまでフォルマーテ家は落ちた。
ケネットの生家はケネットを助けてはくれなかった。
そうでなくとも、エウラリアという婚約者を裏切った男だ。
エウラリアの妹と結ばれ、ケネット自身の立場は変わらずともケネットの家族たちは育て方を間違えたと嘆き、関係を断ち切った。この後その婚姻生活が上手くいかずに離縁したとなった時、のうのうと戻ってこられても迷惑でしかなかったからだ。
エウラリアと結婚していたのなら、ケネットの実家もそんな事をする必要はなかった。
その時は互いに良い関係を築けていけたはずだった。
だがその未来は消えたのだ。
婚約者と上手くやっていると思っていたらコレ。
うちの息子がそこまで馬鹿だったと思っていなかった事実を突き付けられた時の衝撃たるや。
いっそ殺してしまおうかと両親は苛烈にも考えたらしいが、しかしフォルマーテ家の方からケネットとモルネアを添い遂げさせてやりたいのだと言われてしまえば、殺すわけにもいかなかった。
だが、と今にして思う。
フォルマーテ家の結末がこうなるとわかっていたのなら、ケネットの事は早い段階で処分しておくべきだった……と。
多額の借金を抱え、貴族でもいられなくなったケネットは労働奴隷として売られていく形となった。
低位身分とはいえ、それでも人生の大半を貴族として生きてきたケネットには、今後の人生さぞ大変だろうとは思うけれど。
しかしケネットの家が手を差し伸べる事はやはりなかったのである。
周囲の貴族たちの手によって地獄への道が舗装されていた事など知らぬエウラリアとモルネアの父もまた、奴隷として売られていったようではあるけれど。
こちらはもっと長い年月を貴族として過ごしていた事もあり、労働奴隷となったところでその生活にそう簡単に馴染めるはずもなく。
最終的に少しばかり危険な鉱山へ送られたとされているが。
早々に離れ離れになったケネットやモルネアがその事実を知る事はなかった。
モルネアは見た目が良かった事もあり、娼館へ売られるところであったのだがしかしあまりの態度の悪さに店主が早々に見切りをつけた。
確かに気位の高い女を屈服させるのがいい、という男はいるけれど、しかし手間を考えたのだ。
客に躾を任せたとして、加減がきかずに早々に潰されても困るし、かといってこちらが教育を施すにしても今そこまでの余裕はない。
ある程度従順に己の立場を弁えているならまだしも、そうではないのだ。
余裕がある時ならいざ知らず、そうでもない時に面倒事を起こされても対処に手間取る。
だからこそ、店主は店で娼婦として使うよりは、と知り合いの奴隷商人にモルネアを売り払った。
その奴隷商人は国内ではモルネアの事が知られているので、わざわざ奴隷として買おうという酔狂な者がいない事を知っていた。借金のカタに商品となったも同然なモルネアなので、高値で売れなければこちらも損をする事になる。
モルネアが気に入らず嬲ってやりたいと思う貴族がいないとも言えないが、しかしただ甚振って最終的に殺すためだけに大金で購入してくれる家はない。
モルネアに多少なりとも価値があると思って、それなりに高値で買ってくれる相手に売り払わなければこちらとしても大損なのだ。
だからこそ、奴隷商人は商品を数名連れて隣国へと向かった。
隣国ならここよりは需要があるかもしれないし、ついでに商品の補充もできると踏んだからだ。
モルネアは確かに美しい娘ではあるけれど、しかし奴隷となってからは毎日身だしなみを整えるなんて事はなかった。したくてもできなかったし、できたとしてもモルネアが充分だと思える程の手入れはできるわけがなかったのだ。
それでも他の奴隷と比べて多少見目は良い状態だったので、磨けば光ると言えばまぁ、多少の値はつくだろうと商人も考えていた。
実際に隣国について早々に、モルネアを買いたいと言う者が現れたのだ。
思っていたより多めの額で売れた事で、奴隷商人としてはホクホクだったのだが、しかしモルネアは翌日返品された。それも、買われていく前よりも酷い姿になって。
買った客曰く、確かに見た目は良かったが中身が駄目だ、との事。
どうやら未だに己の立場を理解していなかったらしい。
結果として、一度は綺麗に磨かれたものの主の不興を買って容赦なく甚振られた。
髪はザンバラになっていて、殴られた痕もある。何より顔の一部に火傷を負って、治ったとしても残りそうな状態だった。
骨は折られたりはしていないようだが、見た目は大分落ちた。それでも返品してきた男は金を返せとは言わなかったので、商人としては大損というわけでもない。
ただ、まぁ、次に売るにしても、買い手がつかなそうなので維持費が少しかかるなぁ、とは思った。
生きていく上で人間ご飯を食べないといけないので。
粗末な食事であったとしても、タダではないのだ。
他の奴隷も売れて、新たな商品を補充するまでに少し時間があるから、とその間に商人はモルネアを躾ける事にした。
今までは見た目も良かったからそこを台無しにしないようにある程度加減をしていたが、こうなった以上そういったものは不要である。徹底的に自分が奴隷であり、主には絶対服従であると心に植え付けねばならない。
せめて買われた先で、従順にしていれば衣食住に困る事もなかっただろうに……買った男の見た目が醜悪だったといえど。
見た目も落ちた以上、気位の高さは不要。それどころか邪魔でしかない。
とりあえず己の立場をわからせるために、ボロボロだろうとなんだろうと、まずは街中を引きずり回す事にした。周囲の態度や反応から、既に自分の見た目は自慢できるものでもない事を理解させ、ついでに奴隷という立場をよりハッキリとわからせるために。
――どうして私がこんな目に!
モルネアの思いとしてはそれだけだった。
今までは好きに振舞っているだけで良かった。
父が自分を溺愛してくれるから、大抵の我侭は我侭と思われる事もなく自由に振舞えた。気に入らない事があれば姉に八つ当たりをしても、自分が悪いと父に叱られる事もなかった。
流石に外でそれをやるのは問題があると理解していたから、上手くやっているつもりだった。
いずれ自分は隣国の年上の男性のところに後妻として嫁ぐ、と母に言われた時は絶望しかなかったけれど、母が死んだ後父がその婚約を解消してくれるような事はなかった。
もしかしたら何らかの資金援助とか、そういうのがあったのかもしれない。
けれども、自分がそんな相手のところに嫁ぐだなんて考えただけでもおぞましかった。
そんな中、姉の婚約者であるケネットの存在は自分が助かるために丁度いいものだと思えた。
姉がケネットと会う日に、ちょっといくつかの妨害を仕掛けて二人が会う時間を減らし、その間に自分がケネットに取り入れば思った以上に彼はこちらに靡いてくれた。最初からそういう目的で関わりにいった、と思われれば警戒もされるが、しかし最初はあくまでも時間がとれていない姉が、ケネットの所に来るまでのつなぎとして。
不自然に思われないように注意して、そうして親密になっていき、やがてケネットは姉に会うよりモルネアに会うためにやって来るようになった。
そしてモルネアの目論見通りに彼との婚約が成立した時、これで自分の人生は安泰だと思っていたのに。
面倒な事はケネットに任せればいい。
父は相変わらず自分を甘やかしてくれる。
小言を言ってくるような姉はもういない。
社交界ではモルネアの存在は取るに足らないものであったとしても、それでもフォルマーテ家の中だけならば。
彼女は頂点に君臨していたのだ。
だがその生活が終わるのはあっという間だった。
気付けば借金が膨大に膨れ上がっていて、しかもその借金は性質の悪いところからもしていたらしく、爵位や財産全てを売り払ったところで到底返せるものではなかった。
知らぬ間に奴隷契約まで結ばされていたらしく、あれよという間にモルネアは奴隷に落ちた。
案外役に立たなかった父とケネットも奴隷として売られていったようだが、使えない相手の事などどうでもよかった。
大事なのは、この先どうやってこの状況から抜け出すかという事だ。
最初は娼館に連れていかれたが、しかし自分の態度に問題があったのかすぐに別の商人に売り払われた。
不要な物と言わんばかりの扱いに憤りをおぼえたけれど、娼館に閉じ込められるより商人に連れていかれるのなら、その途中で逃げ出す機会があるかもしれない。そう考えていた。
けれども実際逃げ出す機会はあっても、実行に移せなかった。
おんぼろとはいえ馬車での移動。
食事や排泄の時だけは馬車から外に出る事もあったが、そこで逃げようにも現在地がわからなかった。
どっちに逃げれば町があるのか。それすらわからないのだ。
逃げたところで路頭に迷って野垂れ死ぬなんてごめんだったし、だったら町に着く直前で脱走しようと考えていた。
けれどもそういう状況の時に限って、逃げ出す隙がない。
結局そこそこの日数が経過して、気付けば隣国に来ていたらしい。
そこで早速自分を買いたいと言う男が現れたけれど、あまりにも不細工だった。
金は持っているようだが、しかしその見た目はあまりにもモルネアにとって受け入れられなかったのだ。
奴隷になった以上こちらが相手を選べる立場にないのだが、しかしそれでもモルネアはそれを理解していなかった。自分の見た目を駆使すれば現状を脱却できると信じて疑いすらしなかった。
だから、屋敷に連れていかれて使用人たちに丁寧に磨かれて、そうして男の元に連れていかれた時に態度と言葉に出した。
あんたごときが私を好きにしようだなんて、と。
思いつく限りの事を口にして、今までの鬱憤を晴らすかのように罵った。
その中のどれか、もしくは全てが悪かったのだろう。
相手の地雷を踏みぬいたらしい、と気付いた時には、既に頬を張られた後だった。
パン! という破裂音と共にきた衝撃。身体が宙に浮く感覚。次いで、床に叩きつけられた衝撃。
たかが奴隷の分際で! と言われたのはおぼえている。
けれどもそれ以外の言葉は降りかかる暴力によって記憶に残ってすらいなかった。
殴られて、蹴られて。
腹いせか髪を無造作に切り落とされた。
長さがバラバラになって不揃いになり、その姿が丁度鏡に映っていると気が付いて。
今の今までモルネアは明らかな暴力というものを受けた事がない。
だからこそ、理解が追い付かなかったのだ。
こんなに可愛い自分がどうしてこんなに酷い目に遭っているのか。
男はたまたま近くにあった火掻き棒を手に、それでモルネアを叩いた。
少し前に使われていたそれはまだ熱く、モルネアの顔の一部を焼いた。
殴られたり蹴られたりした時も充分に痛かったが、それとはまた違う系統の痛みに叫びのたうって。
その他にも色々と痛めつけられた翌日には、返品されていた。
怪我の手当てなんてほとんどされていない。おかげで身体中、じくじくズキズキとした痛みに覆われて、顔も思い切り腫れたせいでマトモに喋る事もできなかった。
殴られたりした割に、歯が欠けたり抜け飛ばなかったのは幸運だったのかもしれないが、その幸運に気付く余裕すら存在していない。
痛む身体をそのままに、商人はモルネアに首輪をつけて紐に繋いで連れまわした。
痛くてろくに動けないのに無理に引きずられていって、とうとう足がよろけもつれて転んでも商人はそれをただ見下ろすだけだった。
どうして自分がこんな目に……!
そう思っても声に出す事すらできなかった。
喉の奥で嗚咽が漏れる。
周囲のモルネアに向けられる目は冷ややかだった。
奴隷といっても大抵はそれなりの扱いをされると周囲は知っている。
酷い扱いを受けるのは、そのほとんどが己の立場を弁えない者たちだ。だからこそ、周囲はモルネアが反抗的であるが故にそういう扱いを受けていると思っていた。
急に奴隷の身分に落ちて受け入れられないという気持ちを周囲が理解できたとしても、だからといってその態度のままでいるのは得策ではないとも思っていた。
もし無罪なのに奴隷に落とされたというのであればまだしも、そういった可能性は思いのほか少ない。
故に周囲はモルネアを見ても同情を寄せるような事を言うでもなく、むしろ道端に落ちている石ころのような扱いしかしなかった。無関心、と言ってしまえばそれまでの話だ。
誰も優しく手を差し伸べてなんてくれない……とようやく理解し始めたあたりで、モルネアはのろのろと身を起こした。立って歩かなければ、これ以上時間が過ぎれば男はモルネアを文字通り手にしたリードで引きずって進んだ事だろう。
そうして立ち上がった先で、豪奢な馬車が止まるのが見えた。
モルネアが貴族だった時だって、ここまで立派な馬車は家になかった。
もしかして王子様かしら……? なんてぼんやりとした頭で馬車を見て、それからどうしてこんなところで……? と疑問に思い周囲を見れば、いくつかの店が立ち並んでいる事にようやく気付いた。
平民向けというよりは貴族向けだが、完全に貴族だけのもの、というわけでもなさそうだ。
富裕層であればそれなりに誰でも利用できそうな雰囲気の店。モルネアはそう判断した。
以前までなら、自分もこういった店を見て回るくらいはしていたはずなのに。
今はやけに遠い存在のように感じた。
店から視線を逸らすように向け、また馬車に視線が戻る。
そこから出てきた相手を見て、モルネアは息が止まりそうになった。
とんでもなく美しい男性にエスコートされて、幸せそうな笑みを浮かべて降り立ったのはエウラリアだった。見間違えるはずもない。
家にいた時はどこか野暮ったい印象があったはずだが、今はそんな気配もない。
高齢の男の後妻になったはずの姉が、一体なぜあのような若い男と――!?
疑問が生じたが、しかしそれを声に出す事はできなかった。
殴られたせいで口の中を切っていたのもあって、痛みでマトモに喋れないのだ。
気付いて。
気付いてよおねえちゃん!
早く助けて!
今更そんな風に思いながら、モルネアはエウラリアを凝視する。
助けを求めるように足が一歩、エウラリアの方へ向かいかけたが、繋がれたリードのせいでそれ以上は進めなかった。
早くいくぞ、とばかりに首が引かれる。後ろに引っ張られるようになった事で、モルネアの足はそれ以上エウラリアの方へ進むどころか後ろへ倒れかけたため、転ばぬようにとモルネアの足は後ろへ、とっ、と、とたたらを踏むような動きで下がっていく。いっそ向かう先が前方であればよかったのに、そうはならなかった。
「ぉ、ぇえぁ……」
痛みは引かない。けれどモルネアはこのままでは助からないと、痛みを我慢しながらも声を出そうとした。
だが――
「おいさっさと行くぞ。あと騒ぐようなら喉を潰すからな」
最早その見た目に価値はないと判断した商人が、冷ややかに告げる。
昨日までは愛玩奴隷にもなれるはずだった女は、しかし今日にはその愛らしさはない。殴られ腫れた部分はいずれ治るだろうけれど、火傷の痕は残るしそうなれば愛らしさからはかけ離れる。
この先高値で売れる見込みもない相手に金をかけて手入れをしてやるつもりなど、この商人にはなかった。最初にモルネアを買った男はモルネアを返品こそしたけれど、買った時の金を返せとは言わなかったし、その金で既に儲けが出ているのだ。商人からすれば、ではあとは高値で売ろうと考えるより、死ぬ前に二束三文でも売り払えれば死体の処分という手間も省ける。長々と面倒を見てやるつもりなどこれっぽっちもなく、加虐趣味を持つような相手か、人体実験をするためのモルモットを必要としている相手か……ともあれ売り払う先は選ばなければいくつか存在していた。
ただでさえ身体中が痛むのに、更に喉まで潰されてはたまらないとモルネアはしぶしぶ引かれる先へ身体を反転させ歩き始める。
「旦那様と一緒にでかけるなんて久しぶりね」
「最近は忙しかったからね。けれど私も妻と共に過ごす事ができなくて寂しかったとも」
背後でそんな言葉が聞こえてきて、モルネアは再度振り返ろうとした。
視界の隅にギリギリで映った女はやはり姉だ。間違いない。声だってモルネアの記憶の中の姉だった。
自分の父よりも年上の相手の後妻になるはずだったんじゃないの……?
なんでそんな若い相手を旦那様なんて言ってるの……?
疑問は尽きない。
もしかして、と思う。
もしかして嫁いだ先でその老人が死んで、息子か孫との結婚に変わったのかもしれない……と。
ずるい、と思った。
本当だったら自分こそがそこにいたはずなのに。
どうして姉が幸せそうに笑っているのか、モルネアには理解できなかった。
だって私はこんなにつらい思いをしているのに……!
姉なら、助けてくれたっていいんじゃないの……?
隣国へモルネアの代わりに嫁いでいった姉の事など追い出した後は思い出しもしなかったくせに、今更のように都合の良い事を考えているなんてモルネアは自覚すらしていない。
モルネアがこんな目に遭っていると知ったなら、姉なのだからきっと助けてくれる。
そしたら、こんな大変な目に遭っているのだから、姉はきっと後悔し、自分に対し罪悪感を抱え、その上で今までの償いのように自分を幸せにする義務があるはずで――
エウラリアがモルネアに罪悪感を抱く事などそもそもどこにもないのだが、痛みと今自分が置かれている境遇、加えてこの現状から抜け出す事ができるかもしれないという希望から脳内は支離滅裂な事を考え始めていたが、それもモルネアは気付いてすらいなかった。
このまま引きずられていけば、きっと自分にとってロクでもない事にしかならない。
そう思えたからこそ、モルネアは意を決して足を止め、振り返って姉を呼ぼうとした。
だが――
「ぁぐっ……」
姉を呼ぼうとした瞬間、ぐいとリードが強く引かれ、そのせいで首輪越しに圧迫感がやってくる。加減も何もなく勢いに任せたように引かれたせいであっさりとバランスを崩し、モルネアは地面にずしゃっと音を立てて倒れ――
「あぁああああああ……」
足を止める様子のない商人に、本当に文字通り引きずられていく。
首にかかる圧が強すぎて、痛みのせいで言葉にならない音だけが口から出る。地面と接している部分が擦れて更に痛みが増していくが、それよりも首が絞められていくような感覚に――
モルネアの視界は白濁し、意識は暗いところへ沈んでいった。
姉は妹の現状を知りません。夫は多分把握している。
次回短編予告
婚約者は言いました。
学生時代くらいは好きに恋愛したいのだ、と。
思うだけならまだしも本当に実行しようとしていると察した女はすぐさま行動に移る。
次回 いらないものを捨てただけ
貴方だけが唯一無二というわけではありませんので。




