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こうして王女アリエルはいなくなった

作者: 春樹凜



 開け放たれた窓の前に立つ青年の背に、淡い月明かりが差し込む。


 手足が長い、均整のとれた体つき。

 夜闇よりも更に深い漆黒色の髪を宿した青年は、今どんな顔をして見ているのだろう。


 彼がどう思っていたかは分からない。

 けれど彼女には――誰にも存在を認められなかったアリエルにとっては、たった一人の友人だった。


「悪いな」


 非情にも聞こえる冷たい、けれどどこか気を遣うような声で、ポツリと彼がこぼす。

 

 それでも、彼だけがアリエルと一緒に話をしてくれた。

 ここまで彼女を支えてくれた。


 ――それももう終わりなのだ。


 彼が腕を振り下ろす。

 その手には、鋭利に研ぎ澄まされた短剣があった。


 けれど恐怖はない。

 ああ、これでようやく解放される。

 それも、大切な友人の手によって。


 全てを受け入れたアリエルは目を瞑る。


 そして、ひゅっと空気を切り裂いて降りてくる刀身が、この身を壊す瞬間を待った。



 デリグラシア国の王と妃の間には、二人の子供がいた。  

 アリエルは王位継承権第二位の王女である。

 そして、彼女の五つ上にはゼリウスという名の兄がいた。

 彼はとても優秀で、ゼリウスがいればこの国は安泰だと誰もが太鼓判を押すほどの人物だった。


 風向きが変わったのは、ゼリウスが病で亡くなってからだ。


 必然的にアリエルの継承権は繰り上がり、次期女王となることが決まった。

 女王となるために、優秀だった兄に追いつくために、必死に目の前のことをこなそうとするアリエル。

 けれどもどれだけ優秀な成績をおさめようとも、アリエルは常にゼリウスと比較され、努力が足りないとなじられた。


 分かっている。

 ゼリウスはアリエルでは追いつけないほどに、王としての器を持った人物だったということを。


 誰からも好かれ、敵でさえもあっという間に取り込んでしまうような、そんな人で。


 何をさせても想像以上の成果を出し、できないことなどない天才肌で。


 容姿も、デリグラシア一の美貌を持つと言われる王妃の血を色濃く受け継いでいたゼリウス。

 あの美しい宝石のように煌めくエメラルドを模した瞳で見つめられた女性達は皆、恋に落ちていた。


 妹のアリエルにもとても優しく、困ったことがあればいつでも頼るんだぞと、事あるごとに気遣って頭を撫でてくれた。


 ゼリウスはどんな人も惹きつける特別な何かがあり、狂信的なほどに彼を支持する人々が多くいた。

 

 ――けれどそんな彼女の兄は、病という敵に攻撃され、そしてあっけなく死んでしまった。


 アリエルも悲しかった。

 兄のことが大好きだったのだ。

 涙が枯れ果てても尚、空っぽの体から、それでも絞り出せるもの全てを出して、泣いた。


 皆も同じだったのだろう。


 陛下も王妃も、彼を慕う友人も貴族も国民も。

 なんて尊い人を失ったのだろうと、神の先配に怒り、涙した。



 ――どうせなら、お前が連れて行かれればよかったのに。



 そんな言葉を、幾度聞かされたことか。


 王妃は元々娘を見ていなかった。

 彼女にとって世界の中心にいる子供はゼリウスだけで、アリエルは最初から、その代わりにすらなれない存在として遠ざけられていた。

 それでもアリエルは、ただの一度でもいいから抱き締めてほしかった。

 けれどその願いが叶うことは、なかった。


 王妃は、ゼリウスが亡くなってからは、アリエルがいなくなればよかったと何度も、何度も何度も、鼓膜にこびりつくほどに泣き叫び、遂に衰弱し、息子の後を追ってしまった。


 アリエルをゼリウスの足元にも及ばないと考えていた陛下は、愛しい二人の死以来、同じ場所にいても、アリエルをその瞳に宿そうとはしなくなった。


 周囲の人々にとってアリエルは、あのゼリウスと血が繋がっていただけの妹、という価値しかなく、兄に劣るくせにその血によっておこぼれで王位に就く王女と揶揄された。


 ゼリウスがあまりにも優秀過ぎた故に、アリエルは認めてもらえない。誰にも期待されていない。

 

 それでもこの先、女王になるのは決定事項であった。


 もしも彼女がいなくなれば、王位は陛下の実弟であり、現在は公爵位を賜るギルベルトへと移る。

 ギルベルトには王としての器がないことは明白だった。


 おそらくこの国の覇権を握りたい貴族達にとっては愚かで御しやすい人材だろう。彼らはこの国を喰い物にすることしか考えていない。

 

 そんな貴族達は予想通り、傀儡の王としてギルベルトを王座に座らせるために、彼へと接触したようだ。


 棄てられるものなら棄てたかった。

 けれどもアリエルがそれをしなかったのは、そうすればこの国がどうなるか、分かっていたからだ。


 ギルベルトが王になれば、間違いなく、その隙を狙い、この国は隣国の軍事国家ラスティスに侵略されるだろう。


 アリエルは、幼い頃からこの国の脆さを知っていた。


 今のところ両国はそれなりの友好関係を築いている。

 しかし、冬になると雪に閉ざされる土地を多く含むラスティスにとって、年中通して比較的温厚な気候と作物が育ちやすい肥沃な土壌に恵まれているこのデリグラシアは、喉から手が出るほど欲しいはずだ。


 生前のゼリウスはあらゆる貴族達をもうまく掌握しており、彼の才はラスティスの皇帝も認めていたほどだったそうだ。

 ゼリウスが王だったなら侵攻もなかっただろうが、いない今、その可能性は格段に跳ね上がっている。

 それすら理解できないほどに、この国の貴族は腐っているのだ。 


 それが分かっているから、アリエルは、どんなに蔑まれても、認めてもらえなくても、王族としてこの国と罪のない民を守るため、歯を食いしばって背筋を伸ばし、立ち続けた。


 しかし――。


「私は生きることすら許されないのかな」


 随分と前から、父がいる食卓には来ずに一人で食べるようにと言われていた。

 そして、いつものようにアリエル用に作られた小さな執務室に運ばれた昼食には、毒が入っていた。


 使用人も皆彼女の味方ではない。

 アリエルは誰も傍に置くことはせず、今もこの部屋には彼女以外誰もいない。

 そんな中で呟かれた独り言が、しんとした室内に、水面に落ちた水滴のように波紋を残し広がっていく。


 念のためにと、アリエルは、自分で銀製の食器を用意するようにしていた。

 スープに浸した銀のスプーンは、毒を示すように鈍く変色する。


 毒を盛られるのは初めてではない。

 はじめはそのことを報告し、犯人を捕まえようと奔走した。

 

 だが結局見つからない上に、誰も真剣にアリエルを心配していないばかりか、犯人を知っていても野放しにしている節があった。

 それ以来、彼女は犯人捜しを諦めた。


 そのことに犯人が味を占めたのか、二度、三度と同じ手で盛られると、さすがに気丈に振舞っていた心に影が落ちる。


 誰が犯人かなど、どうでもよかった。

 ただ、アリエルがいなくなれば喜ぶ人がいる。それだけ。


 王位継承権を放棄すれば、命を狙われることもなくなるのだろうか。

 仮に放棄したとして、兄の信奉者達はどうだろう。彼らはアリエルが兄の代わりに生きていることすら許せないのだ。


 なら、どうしたって彼女は生きていてはいけない存在だ。


 アリエルはゆっくりとスープの入った皿を見つめた。

 もう、逃げる気力すら湧かない。涙一つ出なかった。


 分かっていたことだ。

 分かっていてこの道を選んだのに。


 命の危険があることも覚悟の上だったが、いざこうして何度も毒を盛られると、自分の存在がそれほどまでに求められていないという事実を突きつけられ、心がぽきりと折れた。

 

 お兄様、ごめんなさい。

 私は……あなたのようにはなれなかった。


 そう心の中で天国にいるであろう兄へ謝罪をし、スープを掬ったスプーンを口へ運ぼうとしたところで、持っていたそれがいきなり吹き飛んだ。


「!?」


 何が起こったのか一瞬分からず、飲もうと半分口を開けた状態のまま、しばらく固まる。


 その後、床に落ちたスプーンと側にあった小さな石ころを見つけ、ようやく、これにぶつかりスプーンが手から飛んでいったんだと理解した。

 しかもお皿に入っていた分まで、一緒に床に転がり、絨毯に染みを作っている。


 原因と結果は分かったが、しかし石が飛んでくる理由が分からない。


 訝しげに思っていると、腰まであるアリエルの髪が、風のない室内にもかかわらず揺れている。

 アリエルが部屋を見回したら、閉めていたはずの窓が開いていることに気付く。


 はたはたと風に揺れるレースのカーテンの先を見たものの、代わり映えしない景色が広がっているだけ。

 

 けれど窓のすぐ傍にある木の枝に、一羽の真っ黒なカラスが止まっていた。


 もしかしてこの子が何かしたのか。

 思わず声をかけてしまったが、カラスは鳴き声一つ残して飛び立ってしまった。


 結局何も分からずじまいに終わった。

 この話を誰かにしたところで何かが変わるわけでもないことは予想できたので、この不可解な出来事はアリエルの胸にしまっておくことにした。



 それから二週間ほど経った頃。

 最近は自分で用意したものしか口にしないようにしていた。


 その日も、僅かな果物と水だけを持って執務室へ戻り、静かに昼食を取っていた。

 すると珍しく扉がノックされる。

 中へ入るよう伝えると、最近よく会話をする一人の使用人の少女だった。


「アリエル王女殿下、お仕事頑張ってください! 応援しております。あ、これはクッキーです。甘い物お好きですよね? よかったらおやつにどうぞ」


 立ち去った彼女を見送った後、アリエルは袋からクッキーを取り出し鼻先に近付ける。

 野草にも似た特徴的な、強烈な甘い香りが鼻を刺す。


 アリエルは王族として、毒に対する耐性をつけるために、少量の毒を口にして体に慣らしたり、知識もかなり有していた。

 今鼻先に香るそれもまた、毒の一種だ。


 そして理解する。

 あの少女もまた、自分の命を狙う刺客だったのだと。


 アリエルが一人でいる時にどこからともなく現れ、ふらっと会話をしてすぐに立ち去っていた少女。

 孤独なアリエルに近付き、彼女の信用を得て、これを口にさせる為に、誰かに雇われたのだと。


 初めから予想はしていたので、驚きはしなかった。

 ……それでも、わずかに心を許していたアリエルは、唇を噛む。


 アリエルを取り巻く状況は全く変わらず、むしろ悪化していた。


 最近はアリエルができる範囲でやったことがいつのまにか全て、あのギルベルトの手柄にされている。

 彼女はますます、無能なくせに王位を継ぐ痴れ者だと馬鹿にされるようになった。

 

 それは、アリエルが守りたいと思った民達にでさえもだ。

 彼らに咎がないのは理解している。上から与えられる情報でしか判断できないのだから。

 

 それでも、国民の前に立ち、挨拶をしただけで、ヤジが飛んで役立たずと怒鳴られれば、精神が削れていく。


 アリエルがもっとうまく立ち回れる人間だったよかったのだろう。

 それこそ兄のように。

 

 生まれた瞬間から兄のおまけでしか皆から見てもらえなかったアリエルは、今更どうすればいいか分からない。 


 自分には兄のように王としての器がないことも分かっていた。

 それでも国のため、兄のようになろうとただ愚直に、誠実でありたいと振舞った結果が、これだ。


 アリエルはため息を一つつき、窓の前まで歩くと、念のため鍵が閉まっているか確認し、再び席に着く。

 

 そして、毒だと分かっていても、捨てる気力すら残っていなかったクッキーを今度こそ口に運ぼうとして――。


「あんた馬鹿なのか!?」


 そんな声と共に突然何かに手を掴まれた感覚があった。

 あまりの強さに、彼女は思わず顔をしかめ、持っていたクッキーを落としてしまう。


 折角の毒がぼとりと床に転がり、アリエルは唐突に現れた来訪者に目を向ける。


 そこにいたのは――生きていれば兄も同じ年頃だったであろう――一人の端正な顔立ちの青年だった。


 肩につくほどの長さの無造作に下ろされた髪も、彼女を非難するように見つめる瞳も、星の瞬きも月の光も全てを飲み込むほどの暗闇色で。

 それなのに肌は対照的に白く、細身でありながら鍛えられているのが、ちらりと覗く服の隙間からでも分かる。

 

 明らかに怪しい侵入者に、普通なら声を上げ、彼を捕まえるように誰かに指示をするのだろう。

 けれど彼女の言うことなど誰も聞いてくれない。むしろ、そのまま放置すれば、次期女王という邪魔者が勝手にいなくなると思うかもしれない。

 

 それに、もしかしたら、彼はアリエルが妄想で生み出した人物かもしれないのだ。


「……だけど、妄想にしてはすごく現実味があるのね」


 こんなに人間の細部まで再現できるなんて。

 そういった方面に秀でた特殊な能力があることを、今の今まで知らなかった。

 

 そうアリエルが独り言をこぼしたら、イラついたように舌打ちをした幻の男は、


「なんでそうなる!」


 怒鳴って、彼女の手を握る。


 アリエルよりもひんやりとした体温がこちらに伝わってきて、その上、手の触感もある。


 触れられて温度も感じられる妄想かと一瞬思ったが、そういえば先ほど手首に触れた感覚はこれだったと思い出す。


 と、ふっと部屋の奥から吹き抜けてきた風から、先ほど閉めていたはずの窓が開いていることに気付く。


 そこからアリエルはある一つの答えを導き出した。


 まるであの時見た、しっとりとした質感を持った黒い羽根の鳥と同じ色を宿す彼は――。


「カラスの化身?」


 は? と言わんばかりに顔をしかめたので、違うようだ。


 ならば彼は一体誰なのだろう。

 彼女は当然の疑問に辿り着く。


 アリエルは素直に彼の正体について、本人に聞いてみることにした。


 手を離した青年は、リルと名乗った。


 この部屋への侵入経路は、やはりあの窓だそうだ。

 前回、石を投げて毒入りスープを飛ばしたのも彼の仕業らしい。どうもあの木の上からこちらを見ていたそうだ。


「あー、俺の正体は、その、なんだ、見張り……いや、そう、護衛だ」


 ばつが悪そうに頭を掻きそう答える彼を見れば、怪しいことこの上ない。

 しかも誰に頼まれたかも口を割らない。アリエルがお願いした、ということもない。


 とにかく彼が言うには、とある人物に頼まれて私を護衛しているらしい。


 アリエルは兄よりも幾分薄まった緑の瞳で彼をじっと観察する。


 手足は長く、筋肉はしなやかで、体の造りから騎士の類ではないことは一目瞭然だ。

 しかもやすやすと木の上から飛び移り、鍵のかかった窓からこちらに侵入するところからして、身のこなしも軽く、そういったことに長けているのだろう。 


 腰には使い込まれていそうな短剣が一つ差してある。

 彼からはわずかに、彼自身にこびりついた血の臭いもした。


 極めつけに、今は服で隠れて見えないが、先ほど風が吹いた時にほんの一瞬だけめくれた服の下――脇腹の辺りに、小さいが特徴的なタトゥーがあった。

 

 ――この国にはとある噂がある。

 曰く、金を払えばどんな依頼も請け負う集団がいる。

 ずば抜けた身体能力を持つ者達で構成され、中でも暗殺に特化していると。


 彼らは皆一様に、体のどこかにとぐろを巻く蛇のような特徴的な形の黒いタトゥーが入っている。

 目の前のリルのものは、まさしくそれと一致していた。


 ならば彼の雇い主はそういった理由からアリエルに彼をつけているのだろう。

 正直命を狙う人物の心当たりが多すぎて、相手を絞り切れない。

 

 おかしな話だ。

 であるなら、なぜアリエルはいまだに生きているのだろうか。しかも、彼はわざわざアリエルを助けるような真似までして。


 だが、これ以上尋ねても、護衛だから、としか言わないだろう。

 だから聞かなかった。


 ――そんな彼との出逢いが、不思議なことに、さっきまで消えかけていた命の炎を、ほんの少しだけ強めた気がした。


 誰にもいらないと思われているアリエルと、こうして目を合わせ、話をしてくれている。

 ……もう少しだけ頑張れる。


 完全に折れていたと思われた心をもう一度立て直し、彼女はこの国の為、自分にできることを模索した。



 やはり不思議な話だと、アリエルは彼に助けられるたびに思う。

 彼の本分は暗殺のはずなのに、やっていることは本当に護衛なのだから。

 

 普段リルの姿が見えることはない。

 が、彼はアリエルが危ない目に遭うと、どこからともなく駆け付け、そして誰かが来る前に消えるのだ。


 きっとずっと彼女をどこかで見ているのだろう。そんな気がしていた。

 彼とはアリエルの前に現れた時にだけ、一言二言交わす。


 暗殺者らしき男と、たったそれだけ顔を合わせ言葉を交わすだけなのに生きる希望が湧くのだから、アリエルは自身のことを単純なものだと思う。


 だからだろうか。

 今まではそんな風に思わなかったのに、彼が近くにいるかもと思うようになってから、誰かと無性に話をしたくなることがあって、その誰かを求めてしまう。


「ねぇ、リル。いるんでしょう?」


 その日、アリエルは試しに求めてみることにした。


 窓を開け、星の光が瞬く夜空に向かって名を呼ぶと、しばらくしてすぐ後ろに誰かの気配を感じた。

 振り返れば、薄暗い部屋の中で、こちらをじっと見つめる闇色の瞳と視線がかち合う。


 まさか本当にいるなんて。

 呼びかけに応じてくれたという事実から、顔をわずかに緩ませながら、アリエルは弾む声で話しかける。


「あら、そこにいたの。ということは、私が寝ている時はあなた、天井裏かそこのチェストの中にでも隠れているのかしら」

「秘密だ」


 愛想も何もなく、ぶっきらぼうに答えると、


「で? なんか用か」


 壁に寄りかかりそう尋ねた。


 出てきてくれる確率なんて微々たるものだと思っていたアリエルは、困ったように首を傾げる。


「いえ、その、特に用はないの。ただちょっとおしゃべりしたかっただけ、というか」

「…………」


 そんなことで呼び出すなと、無言の圧力を感じる。


 それはそうだろう。

 彼は彼女を監視し、いつか殺す役目を負っているであろう人物。

 それでも呼んだら出てきてくれたのは、アリエルを信用させるためか、彼の優しさなのか。


 ここは素直に謝罪しようと息を吸ったところで、闇の中からぼそりと声がした。


「……最近は、まあ、その、調子はどうだ」


 思わず目を瞬かせ、リルを見つめる。


 横顔からは彼が今何を考えているかは読み取れないが、出された声には、嫌悪も怒りも感じない。


 ……もしかしてリルは、会話をしようとしてくれている?


 そのことが嬉しくて、じんわりと温かいものが胸に広がっていくのを感じながら、アリエルは口を開き、


「いい感じよ」


 と答え。


 ……すぐに会話は終わってしまった。


 途端に訪れる痛いくらいの静寂に、やってしまったと後悔の念が募る。

 

 誰かとの会話は、それこそ兄が亡くなって以来、アリエルはほとんどしてこなかったのだ。


 一体どうやって話題を広げるのか、受け答えはどうすればいいのか、全然分からなかった。


 これではリルも呆れただろう。

 むしろ今度こそ怒らせてしまったかもしれないとアリエルがしょんぼりしていると、再び闇から声がした。


「まあ、飯は食えてるみたいだから、初めて会った時よりも元気そうではあるな」


 驚いた。

 リルは消えていなくなるどころか、アリエルの為に会話を続けようとしてくれている。


 確かに食事はあれ以来、果物以外を口にすることも増えたからか、以前よりも体力も気力もついている。

それもリルのお陰だ。

 なぜなら、もっと食べろと、わざわざリルが毒の入っていない食事をアリエルに運んできてくれるのだから。


 と、ここで食事という単語で、気になることがあった。


「ねえ、あなたは食事ってどうしているの?」


 細い体躯だが、呑まず食わずではないだろう。

 リルはすぐに答えてくれる。


「あんたのをかっぱらってくるついでにつまんでる」

「私を見ているのはあなただけなの?」

「ああ」


 その答えに、アリエルはかえって納得してしまった。

 

 例の集団に所属する暗殺者は本来、複数で動くと噂に聞く。

 だが——リルにはその常識が通用しない。

 彼は単独で任務を任される数少ない存在なのだろう。だからこそ、アリエルはいつだって彼しか見たことがないのだ。


 考えてみれば、毒を弾き、危険を察知し、窓から音もなく出入りする――そんな芸当を一人で平然とやってのける男なのだ。

 彼がつきっきりで監視していると言うなら、それを疑う理由などどこにもなかった。


 けれど一つ、よくないかもしれない可能性に気付く。


「……ねえ、私が入浴している時はどうしているの?」

「…………」


 返ってきたのは沈黙だった。


「っ、人の裸を見るなんて……!」


 生まれたままの姿は一番無防備だからこそ、狙われる危険度も高い。

 だからといって彼に見られていたかと思うと恥ずかしすぎて、アリエルは思わず手近にあったクッションを投げる。


 リルは難なく手で受け止めると、


「……なるべく、直接は見ないようにはしてる」

「もしかして着替え中も、み、見られていたり?」

「…………」


 リルが無言で顔を背けた。

 答えを言っているようなものだ。


 更に恥ずかしくなって、アリエルは堪らずベッドに潜りこむと、毛布を被る。


「……その、悪かったって」


 すこしだけ焦ったような声音が聞こえる。


 変な話だ。

 殺されるかもしれないと思いながら、裸を見られるのが嫌だなんて。

 そんな人間らしい感情が、まだ自分にあったなんて。


 アリエルはそのことに驚いていた。

 彼といると、どんどん自分が、存在しない置物ではなく、人であったと認識していく。


 それを感じさせてくれているのが、いずれ自分を殺すかもしれない男なのだ。


 しばらくしてアリエルが毛布から顔を出すと、リルはもういなかった。

 けれどどこかでアリエルの様子を伺っているのだろう。


「リル、ごめんなさい。怒ってないから、また今度お話ししてくれる?」


 返事はなかった。

 代わりにどこからか、コロンと包み紙に入った飴が彼女の手元に落ちてきた。


 これが答えなのだろう。

 可愛いピンクの包み紙に入ったそれは、偶然にも昔よくゼリウスがくれたのと全く同じ物だった。

 それを口に中で転がせば、やっぱりとても懐かしくて、優しい味がした。



 着替えや入浴の時は特に気をつけながらも、アリエルは王女として存在を認められない日々と戦い続けていた。


 合間には、時々リルを呼び出してちょこっとだけ会話をする。


 そのうちに彼は、ぽつりぽつりと、自分のことを話してくれるようになった。


 物心ついた時には孤児だったということ。

 手先が器用で、たまに料理もすること。

 空腹を紛らわせるために常にあの飴を持ち歩いていること。

 何もすることがない時は、木に登ってぼんやり空を眺める日が多いこと。

 

 どれも取り留めのない話ばかりだったが、アリエルにとっては宝物のような時間だった。

 リルは最後には決まって、ぽん、と飴をひとつ置いていく。


 その優しさをどんな顔で差し出しているのかは、いつも彼がすぐ消えてしまうせいで見えない。

 けれど、その飴はアリエルにとって、唯一友達と呼べる存在が確かにそこにいる証だった。


 リルとの交流のおかげか、アリエルの心は次第に強くなっていった。


 何を言われようとも、どんなに蔑まれようとも、兄の代わりではなく自分の意思で国と民のために立ち続けようと、胸の奥の小さな炎は消えずに灯り続けた。


 彼女が誠実に働き続けていると、ほんのわずかながらもアリエルを認め、支持してくれる者が現れてきた。

 もちろん、その数は兄ゼリウスの信奉者や、あの男を王位に持ち上げようとする貴族達には到底敵わない。

 それでも、アリエルは確かな手応えを感じていた。


 孤児院に足を運び、王都の人々と交流を持つことにも力を注いだ。

 昔からアリエルが続けていたことだったが、ゼリウスの死後は「兄の真似事だ」と冷たい視線を向けられるばかりだったが……。


 最近では、彼女の訪問を心から歓迎してくれる人々がいる——そう感じられるようになった。




 その矢先に。


 ――アリエルは全てを失った。



 その日、王都を含むデリグラシア国の中央部は、これまでに例を見ないほどの大雨に包まれた。


 ここ一カ月は雨が多く、王都を巡る川はすでに水面がぎりぎりだった。その空に、さらに冷たい雨雲が押し寄せてきたのだ。


 もしこれが日照り続きの年なら、恵みの雨として歓迎されたかもしれない。


 けれど、その日は違った。

 堤防はほどなく崩れ落ち、濁流が王都へと一気に流れ込んだ。


 建物は押し潰され、街の半分以上が水に沈む。

 ただ――奇跡的に、死者は出なかった。

 

 アリエルが、誰に頼まれるでもなく、いざという時のためにと作っていた水害対策の書類があったからだ。


 それを事前に数名の役人や民に渡し、目を通してもらっていたこと。

 そして彼女自身が、必死に避難誘導へ走り回ったこと。

 数々のアリエルの積み重ねが、確かに人々を救ったのだ。


 アリエルは、ずっと気にしていた。

 老朽化した堤防の綻びを。

 高さの足りなさを。

 例年より多い雨量を。

 「問題がないから」と一蹴され続けても、諦められなかった。


 せめて、備えだけでも――そうして一人で書き上げた書類だった。


 ゼリウスが生きていれば、堤防の作り直しはもっと早く行われていたはずだと思うと、胸が締めつけられた。

 それでも、民の命を守れたことは、アリエルにとって救いだった。


 ……だが、事態は思いもよらぬ方向へ転がり始める。

 

「偉大なるゼリウス王子の影に隠れ、王位を与えられたアリエル王女こそ、この未曽有の災害を招いた元凶なのだ!」

 

 ギルベルトが、王都中に響き渡る声でそう宣言した。


 彼は民衆の前で断言したのだ。

 堤防の再整備を皆が進言していたのに、アリエルが国王陛下を説得し、工事を止めさせたと。

 そのせいで王都に壊滅的な被害が出たのだと。


 そして――陛下には退位を。

 アリエルには継承権の剥奪を求める、と。


 アリエルには、理由が分かった。


 彼らは、彼女が毒で死なず、何度も危険から生還したことに苛立っていた。

 彼女を引きずり下ろす材料を、ずっと探していたのだ。


 もちろん、事実は違う。

 けれど、誰もアリエルの言葉に耳を貸さなかった。


 少ないながらも味方だと思っていた人々でさえ、対策書はギルベルトが作り配ったものだと証言した。

 睨まれたくないのだ、とアリエルは理解した。

 だから責めることもできなかった。


 さらに辛かったのは、彼女が手を差し伸べて助けたことを知っている民達でさえ、


「災害の責任を覆い隠すための見せかけの行動だ」

「あれは、自分をよく見せるための芝居だったんだ」

 

 と嘲笑したことだった。


 ギルベルトの手によって無理やり広場に引きずり出されたアリエルは、怒号と罵声、石を浴びた。


 命が助かっても、家を失った者達の悲しみは痛いほど分かる。

 守れなかった責任が自分にあることも、理解していた。


 だからこそ、アリエルはただ立ち尽くした。

 王女として、すべての怒りと嘆きを受け止めなければならないと思ったから。


 だが、石が頬をかすめた瞬間。

 アリエルは悟った。


 ――ああ。


 自分は、本当に誰からも必要とされていないのだ。


 兄のように、誰かの心を動かすことなど一度もできなかった。


 彼のおまけとして生まれ、期待されず、愛されず、存在してはいけない人間なのだと。


 やっぱりあの時、兄の代わりに自分が病に倒れていればよかった。

 そうすれば皆、幸せだったのに。


 そんな思いが胸の奥で静かに崩れ落ちていくのを感じる。


 その時だった。


 ——いくつかの石の軌道が、ほんのわずかに逸れる。

 人の手ではあり得ない、不自然な角度。

 風が吹いたわけでもないのに、アリエルの体に届く寸前で弾かれ、地に落ちていったものがあった。


 気のせいかもしれない。

 視界の向こうに友人の姿はない。


 けれど確かに、どこかで彼が守ってくれている気配だけが、絶望の中でふっと胸を温めた。

 ……まるで暗い嵐の中に差した、かすかな灯火のようで。


 それを胸に、アリエルは最後まで王女として立ち続けた。



 陛下の退位とアリエルの王位剥奪についての判断は、一旦保留となった。


 隣国ラスティスから、急ぎの使者が到着したのだ。

 もちろん偶然ではないはずだ。

 王都が水害で混乱しているという噂を聞きつけ、この国の揺らぎを探るために、彼らはあえてこの時期を選んで訪れたのだろう。


 表向きは見舞いと援助の申し出。

 けれどその実、弱ったデリグラシアをどう扱うかを見定めに来たにすぎない。


 陛下は、ゼリウスと王妃を相次いで亡くした心労に加え、今回の災害の衝撃もあって寝込んでしまったらしい。

 ギルベルト曰く、もはや退位を命じるまでもなく、王としての務めは続けられないだろうとのことだった。


 自室へ戻されたアリエルは、茫然としたまま床に座り込んだ。

 

 このままいけば、自分は次期女王でなくなる。


 少しだけ、この国の未来を考える。

 彼らが正しく導けるのなら良い。だが——おそらく、そうはならない。


 分かっていた。それでも今の彼女は、もうどうすることもできなかった。

 

 次に思い浮かぶのは、自分の未来だ。

 追放されるのか、他の問題が起こった時の処刑用として生かされるのか。

 あるいは、静かに消されるのか。

 

 そこまで考えた瞬間、もう、何もかもがどうでもよくなった。


 ——もし叶うのなら、彼の手で終わりたい。

 唯一、自分を見てくれた、あの人の手で。


 結局、誰の命で動き、なぜ自分を見張ってきたのかは分からない。

 今日のために生かされていただけかもしれない。

 でも、それでもいい。


 すべてが今日終わる——そんな予感があった。


 すると。


「よう」


 開け放たれた窓の前に立つ青年の背に、淡い月明かりが差し込む。


 手足が長い、均整のとれた体つき。

 夜闇よりも更に深い漆黒色の髪を宿した青年は、今どんな顔をして見ているのだろう。


 彼がどう思っていたかは分からない。

 けれど彼女には――誰にも存在を認められなかったアリエルにとっては、たった一人の友人だった。


「悪いな」


 非情にも聞こえる冷たい、けれどどこか気を遣うような声で、ポツリと彼がこぼす。

 

 それでも、彼だけがアリエルと一緒に話をしてくれた。

 ここまで彼女を支えてくれた。


 ――それももう終わりなのだ。


 彼が腕を振り下ろす。

 その手には、鋭利に研ぎ澄まされた短剣があった。


 けれど恐怖はない。

 ああ、これでようやく解放される。

 それも、大切な友人の手によって。


 全てを受け入れたアリエルは目を瞑る。


 そして、ひゅっと空気を切り裂いて降りてくる刀身が、この身を壊す瞬間を待った。




「がっ!?」


 けれどいつまでも痛みが訪れることはなく、なぜか後ろから知らない誰かの声が聞こえた。

 恐る恐る目を開けてふり返ってみると――。


「見るな」


 即座に目を誰かの手で塞がれた。


 彼女の手ではない。が、ひんやりとした体温に覚えはあった。


「リル?」


 いまだにアリエルが生きている理由。

 前を塞がれている理由。

 本当は聞きたいことが山ほどあったが、視界が暗いのはさすがに不便だった。


「離してくれる?」


 お願いすると、絶対に後ろを見ないという条件が吞めるなら、と言われたので、アリエルは頷いた。


「何があるの?」


 見るなとは言われたが、聞くなとは言われていない。

 

 とはいえ、大方の予想はついていた。

 鼻をつくほどの強烈な血の匂いが、部屋中に充満しているのだから。


 アリエルの予想は当たっていた。


「あんたを殺しに来た刺客の死体だ」


 いったん後ろへ行き、戻ってきた彼の手にあったのは例の短剣。

 きっと、あの時振りかぶった短剣は、その刺客に向けて投げたのだろう。

 暗殺者が暗殺者を排除したようだ。


 リルがそれを振って刃についた血を振り落とし、いつもの定位置にしまうのをぼんやりとした心地で見つめながら、さっきの「悪いな」という台詞はどういう意味だったのかを考える。


 少なくとも、日常会話をするような仲になったが殺すことになって悪いな、ではないようだ。


 すると彼の口から存外早く答えが出る。


「部屋を汚して悪かったな」


 ああ、そういうことだったのかと合点がいく。


「別にいいの。だってどうせ、私の血で汚れる予定だったから」


 だからリルが気にする必要はないと言わんばかりに微笑めば、彼の顔つきが途端に険しく歪む。


「その言葉で確信した。……なあ、あんた今、殺されてもいいって顔してたよな?」


 視線だけで射殺せそうなほどの険しい目で睨まれ、けれどアリエルはそれには屈せず正直に答える。


「だって、私にはもう、生きている理由も価値もないから。私は兄のようにはなれなかった。王女なのにこの国を守れなかった。誰にも存在を認められず、努力なんて無意味だった」


 そう言うとアリエルは、ふっと息を吐く。

 

「それならいっそ、唯一私を私として見てくれたあなたの手で終わりにしてほしかったから」


 だから殺して? と、アリエルはリルから目線を逸らさずお願いする。


 と、更に表情に鋭さを帯びたリルが屈み、彼女に触れられるほどの距離まで近付くと。


「あんたって……本当に底なしの馬鹿だなっ!」


 次の瞬間、強い腕がアリエルの体を抱き寄せた。

 あまりにも唐突で、息が詰まる。


 離れようとしたが、リルの腕がさらに強く締まる。


「いいから黙って聞け!」


 彼はそう一蹴すると、半ば怒鳴るように口を開いた。


「まず——あんたとゼリウスは違う。だからあいつになろうとするな。アリエルはアリエルだ。それを誰よりあんた自身が分かってなきゃどうする」


 言葉が、胸の奥に落ちていく。


「それにな、あんたが必死で頑張ってたのは知ってる。無意味なことなんて一つもなかった。少なくとも俺はあんたをちゃんと見てた。見ようともしないこの国の連中の方がどうかしてるんだ。だから……あんな奴らの言葉で、自分を捨てようとするな」


 冷たい体温なのに、抱きしめる腕はあたたかかった。

 その言葉が心の隙間にゆっくりと沁みていく。


 ——そうだ。

 アリエルはアリエルであって、ゼリウスではない。


 分かっていたはずなのに、いつしか兄の幻の背中ばかり追い、自分を見失っていたのだ。


 縛られていたのは、周囲だけではなく……自分自身の心でもあった。


 そんな彼女を、リルはちゃんと『一人のアリエル』として認めてくれていたのだ。


 胸のつかえがすっと溶けていく。


 けれど、それでも拭いきれない影はまだ心に残っていた。


「……ねえ、リル」


 アリエルは顔を上げると、そっと問いかけた。


「あなた、暗殺者なんでしょう?」


 抱きしめる腕が微かに跳ねる。

 しかし否定はしない。


「……いつから気づいてた」

「最初から。あなたの体のタトゥーとか、動きを見て。それに、私を常に一人で監視できるなんて、ただの護衛のはずがないもの」


 リルは小さく舌打ちしたあと、諦めたように視線をそらした。


「……孤児で、気づけばあの集団に放り込まれててな。殺せなきゃ殺される。そんな世界だった。……抗う術のないガキの俺は、殺すことでしか、生きられなかった」


 淡々と語っているはずなのに、その奥の痛みだけがまっすぐに伝わってくる。


 アリエルは静かに息を吸った。

 彼の言葉を胸で受け止めながらも、何も言わず、ただリルを見上げる。


 その沈黙を、リルは別の意味に取ったのだろう。

 少しだけ目を伏せて、ぽつりと続けた。


「……雇い主のことか。誰が俺にあんたを監視して時が来たら殺せって命じたのか、知りたいんだろ」


 アリエルが口を開くより早く、リルは言いかける。


「命令したのは——」

「……言わなくていいわ」


 アリエルはそっと首を振り、彼の言葉を遮った。


「もう、どうでもいいもの。それより……あなたの方が危ないんじゃない? 私を殺し損ねたことになるんでしょう?」


 その問いに、リルは一瞬だけ驚いたように目を見張り——ふっと笑った。


「問題ねぇよ」

「どうして?」

「全部片づけたから」

「……全部?」

「他の暗殺者連中も、俺を使った雇い主も。もう、あんたと俺を殺す奴は誰もいない」


 静かな声だった。怒りでも、自慢でもない。

 ただ重い現実をひとつひとつ手放すような響きだった。


 ふと、リルの体から立ち上る血の匂いが濃くなった気がした。

 ――まるでつい先ほどまで、闇の中で何人もの命を断ってきたかのような。


 アリエルは思わず息を呑む。


「……なぜ、そこまで?」


 問いを向けた瞬間、リルはわずかに目を伏せ、肩をすくめた。


「さあな。ただ――もう殺されるのが怖くて逆らえねぇガキじゃなくなったってだけだ。今は……自分で選べる」


 アリエルは小さく息を吸った。


「じゃあ……私を助けることを選んだ理由は?」


 そう言うと、リルは小さく息を吐き、言葉を探すように視線を揺らした。


「理由……ねぇ」


 苦いような、不器用なような笑みがこぼれる。


「……見てるうちに情が湧いたんだよ。それだけだ」


 何かを言い返そうとして、アリエルは結局言葉を失った。

 その温かさが嬉しかった。

 ……けれど、それだけではどうにもならない現実もある。


 過程はどうあれアリエルは王女としてまもなくこの国を導く立場を失うだろう。

 間もなく戦争が起こると分かっていながら民を守れないことは、やはり彼女の心にずんと暗い影を落とす。


 だが。


「おい、諦めるのか」


 思い悩むアリエルの耳に、リルの声が聞こえる。

 そっと顔を上げると、夜の光に照らされるリルの顔があった。


「俺はさ、正直言えば——」


 リルは低く息を吐き、アリエルを見下ろした。


「もうこんな国、放り出して逃げちまえばいいと思ってる。俺ならあんたをどこへでも連れ出せる。それに復讐したいってんなら、あんたを苦しめた貴族も国民も……やろうと思えば全員、黙らせられる」


 冗談めかした調子なのに、その奥の覚悟は静かで、揺るぎなかった。

 アリエルは目を見開く。

 けれどリルは続けた。


「でもな。あんたは、そんな道は選ばねぇ奴だ」


 その言葉は優しくも、鋭く胸に刺さった。


「傷つけられても、裏切られても……あんたはいつだって民を守ろうとしてた。今日までずっと、そうやって立ってきた。今も——そうなんだろ?」


 アリエルの胸が締めつけられる。

 唇を真一文字に結んだアリエルに、リルはふっと、呆れと優しさが入り混じったような苦笑を漏らした。


「そんなあんたが……ここで終わってどうするんだよ」


 ……そうだ。


 自身が王としての器を持たないと分かっていて、それでもゼリウスの意思を継ぎ、民のために国を正しく導こうとした。

 見返りなんて求めているわけではない。

 今回の水害も、結果的にはアリエルが矢面に立ったものの、民の命は救えたのだ。


 そして今、戦争の危機が国民に迫っている。

 今こうしてアリエルが座り込んでいる間にも、怒りに任せてその使者を誰かが斬り殺している可能性もある。

 そうなれば、降伏の道は閉ざされ、戦争一択である。


 ならば今彼女がすべきことは、ただ一つだ。



「失礼します」


 周囲の者の制止も聞かず、アリエルはとある部屋へと足を踏み入れる。


 そこにいたのは、陛下の代理を名乗るギルベルトと、彼を支持する数名の貴族達。

 彼らが二人の使者をもてなしているという話だったが——室内の空気は、もてなしとは程遠い、刺すような緊張で満ちていた。


「我々に、南部領土の割譲を求めるとは……! 弱みに付け込むにもほどがある! これだから軍事国家は——!」


 ギルベルトが怒声をあげると、その向かいに座る使者は微動だにせず、冷ややかな目で彼を見つめていた。


「……弱みではなく、必要な対価です。水害支援には、それだけの負担が伴うのは当然でしょう」

「ふざけるな! このデルグラシアを、どこの犬だと思っている!」


 ギルベルトが机を叩いた瞬間、もう一人の使者が、薄く微笑んだ。


 それは、張り詰めた空気の中に不自然なほど静かで、どこか底知れぬ笑みだった。

 

 アリエルは、その笑みを見た瞬間、息を呑む。


 顔は布によって、その正体を隠されている。

 けれどそれだけでは隠しきれないほどの、ただの使者が持つはずのない威圧感。

 姿勢ひとつ、呼吸ひとつが隙なく整い、まるでその場の空気そのものを支配しているかのような存在感。


 そして彼が動く度に布の間から見える、本来なら誰もが気づくはずの、特徴的な虹色めいた黄金色の瞳。

 加えて微笑む時無意識に片眉がわずかに動く仕草。

 

 ――それは幼い頃、数度だけ王宮で見かけたラスティス皇帝その人の癖。


 ……どうして、皇帝陛下が、こんな場所に?

 

 次の瞬間、アリエルの胸の奥で冷たい理解が広がる。


 この国がどれほど脆く、どれほど愚かな者に支配されているか——直接この目で確かめに来たのだ。


 おそらく皇帝は、ギルベルト達が感情に任せて剣を抜く可能性を視野に入れている。だから敢えて彼らを激昂させるような取引を持ちかけてきた。


 そして剣が抜かれた瞬間、『デルグラシアはラスティスの皇帝に敵意を示した』という開戦の大義名分が生まれる。

 

 ――ギルベルト達は、その何もかもを理解していなかった。


「貴様……何がおかしい!」


 怒声とともに、ギルベルトの手が剣の柄へと伸びる。

 抜き放たれる寸前、室内の空気が凍りついた。

 

 アリエルは最悪の事態を避けるべく、小声でその名を呼んだ。


「リル」


 その瞬間だった。


 アリエルの背後の空気がわずかに揺れたかと思うと、影のように従っていたリルがすでにギルベルトの懐へ入り込んでいた。


 金属音すら鳴らない。

 気づいた時には、ギルベルトの手から剣が消えている。


 次の瞬間、ギルベルトの身体は床に叩き伏せられ、剣はリルの足元で転がっていた。


 動こうとしても動けず、声を発そうとしても息だけが漏れる——ギルベルトはリルによって完全に制圧されていた。


 リルは一言も発しない。

 ただ無表情のまま、アリエルの後ろへ影のように戻った。


 室内がどよめきと恐怖で揺れ動く中、アリエルは迷いなく膝を折った。


「お見苦しいところをお見せしました。……ラスティス皇帝陛下」


 アリエルの言葉で、場が凍りついた。


「な……っ!?」

「皇帝……!?」

 

 貴族達がざわめき、ギルベルトは床に倒れたまま、顔を真っ青にした。


 皇帝はゆっくりと笑みを深め、変装のフードを払った。


「ほう、よく気づかれた。さすがはあのゼリウスの妹だ。聡明な王女だな」


 アリエルは深く頭を垂れた。


「陛下は……この国が一触即発になる瞬間を待っておられたのでしょう。ギルベルト様が剣を抜けば、それを開戦の口実になさるおつもりだった」


 皇帝は楽しげに眉を上げる。


「話が早い。愚かな者ほど扱いやすいのだよ。王位簒奪を狙うギルベルト殿など、まさに好例だ。だが」


 皇帝の黄金の瞳が、わずかにアリエルへ向けられる。


「……まさか、この国にまだ聡明な者が残っていようとはな。ゼリウスを失った時点で、すべて終わったと思っていたが……君がいるのなら、話は少し変わる。愚者ばかりの国などいかようにも料理できるが、賢き者が一人でも立つ国は、迂闊に踏みにじれまい」


 皇帝の言葉に、アリエルはそっとまぶたを伏せた。


 ——やはり、この人こそがラスティスの皇帝。

 その声に宿る理知、揺るがぬ王の威。

 ゼリウスと対等に語り合えたであろう器を、迷いなく感じ取った。


 だからこそ、アリエルは心の内に秘めていたある決意を固める。

 静かに顔を上げたアリエルは、皇帝の顔を正面から見つめ、口を開いた。


「……陛下。ひとつ、お願いがございます」


 皇帝は興味深げに、その黄金の瞳を細めた。


「ほう。自ら頭を垂れていた王女がお願いとは……。言ってみよ。今の私は機嫌が良い。耳くらい貸してやろう」

 

 アリエルは息を吸い込み、揺らぎのない声音で告げた。


「この国を——私から、あなたへお渡ししたく存じます」

 

 その一言で、部屋の空気が弾けた。


「な……何を言っている!?」

「正気か!?」

「王女が——!」


 醜く混乱した声が飛び交う。

 罵声をあげようとする貴族が数名立ち上がり、こちらへ指を突き立てて口を開きかけた——が、目にも止まらぬ速さで影が走った。


 何が起きたか分からないまま、騒いだ貴族達は次々に床へ叩き伏せられ、呻き声ひとつ漏らすことなく沈黙した。


 一言も発さず、音も立てず。

 彼はただアリエルの背後に戻り、再び影となる。


 静寂が落ちる。

 皇帝は興味を隠そうともせず、アリエルの顔をじっと眺めた。


「……実に面白い。理由を聞こう」


 アリエルは胸に手を当て、変わらぬ静けさで理由を述べた。


「この国は、内部からもう立て直せません。貴族は腐敗し、王は病み、私自身にも王としての器はありません。けれど民は……生きねばなりません」


 皇帝の瞳が、深くアリエルを捉える。


「続けよ」

「ラスティスが征した土地が、いずれも安定した統治のもとに置かれていることを、私は存じています。ならば——近い将来この国を戦火で焼くより、今のうちからあなたの庇護下に置く方が、民達は何千倍も、生きやすい」


 アリエルは深く頭を下げた。


「ですのでどうか……このデリグラシアを、無血でお引き取りください」


 誰ひとり声を発せなかった。

 恐怖と衝撃と、理解の追いつかない混乱が室内を満たす中、ただ皇帝だけが静かに椅子から立ち上がった。


 ゆっくりとアリエルの前へ歩み寄り、黄金の瞳で彼女を見下ろす。


「……王女よ。国を明け渡すというのは、すなわち自らの消失を意味する。君は——売国奴として民に恨まれ、歴史に汚名を残すことになるやもしれぬ」


 アリエルは一度も目をそらさず、静かに答えた。


「構いません。私は、民から称えられるために王女をしているのではありません。——王女として生まれた以上、彼らを導き、守る義務があるだけです」


 その声には迷いも虚勢もなく、ただひとりの王女としての覚悟だけが宿っていた。


 皇帝の目が細められ、わずかな驚きと興味が混じった色が走る。


「……自ら憎まれる道を選んでも、か?」

「私が消えた後、民が生き延びるのなら何を言われようと構いません。それに……」


 アリエルが静かに続けようとしたその時だった。


「ま、待て……!」


 床に倒れたままのギルベルトが、必死に喉を震わせ声を絞り出す。


「お、お前一人の判断で……そんな勝手が通ると思うな……っ! 王女風情が……この国の未来を勝手に——!」


 アリエルはちらりとギルベルトを見やった。

 怒りでも侮蔑でもない。

 ただ、長い夢から醒めたような静かなまなざしだった。

 

 そして、ふっと小さく微笑んだ。


「ギルベルト様。あなたもよくご存じでしょう?」


 アリエルはゆっくり皇帝へ視線を戻し、朗々と、しかし柔らかく告げた。


「陛下のご承知の通り、デリグラシアには古くから、王不在の際の掟があります。——国王が動けぬ時、第一位の継承権を持つ者に、全ての決定権が委ねられる、という掟が」


 室内が、水を打ったように静まった。


 国王は病床に伏し、政務不能。

 ギルベルトは愚かで、資格など論外。


 ゆえに——アリエルの言葉こそ、この国の『絶対』だった。 

 誰もそれを覆すことはできない。


 皇帝はしばしアリエルを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。


「……君は、実に厄介だな。ゼリウスとはまた違う意味で」


 侮蔑でも呆れでもなく、王としての敬意が滲む声音だった。

 皇帝はさらに一歩近づき、低く告げた。


「その身を捨ててでも民を守る王女……か。なるほど、確かに踏みにじるには惜しい人物だ」


 アリエルは深く頭を下げる。


「民が生き延びるのなら私はそれで構いません」


 アリエルの言葉に、皇帝の唇がふっとわずかに綻んだ。


「見事だ。……ならば、早急にことを片付けよう」


 皇帝が軽く手を振ると、どこからともなく彼の側近数人現れ、数枚の文書を静かに差し出した。

 その紙束は驚くほど整然としており、まるで事前に用意されていたかのようだった。


「これは……?」


 アリエルがわずかに眉を動かすと、皇帝は何でもないことのように答えた。


「戦になるにせよ、属国化するにせよ、最低限必要な書面は持ってくるものだろう?」


 その声音には驕りはなく、ただ王として当然の備えをしたまでという落ち着きが満ちていた。


 皇帝はわずかに口元を吊り上げ、机の上へ文書を広げた。


「——では、署名を」

 

 その日中にすべてが整えられ、皇帝とアリエルは、無血開城の文書にゆるぎない手で署名を交わした。


 ――こうして、その日、デリグラシアという国名は地図から静かに姿を消した。



 無血開城が成立した翌日、元デリグラシア国の広場には民が集められ、皇帝自らが朗々と告げた。


「本日をもって、デリグラシア王国はラスティスの庇護下へ入る。もはや国名は廃され、以後は我が国の属州として再編される」


 民達は戸惑い、ざわめき、怒りの声をあげる者さえいた。


「どうしてだ……!」

「あの王女が勝手に!」

「王女は何を考えて——」


 彼らの声に、皇帝はわずかに眉を寄せ、そのざわめきごと押しつぶすように声を響かせた。


「黙れ。民どもよ、貴様らがすることは、アリエル元王女への中傷ではなく——感謝を覚えることだ」


 その声音に、民衆は一瞬で静まり返った。


「彼女がこの決断を下さねば、貴様らごと、この地はとうに血の海だった。我が軍はすでに国境に展開していた。力ずくで奪い取るのは容易だったのだ」


 ざわ……と民の顔が青ざめる。


「だが——」


 皇帝は口端をわずかに緩めた。


「彼女は、愚か者どもに押し潰されながらもなお、この国の民だけは守ろうとしていた。その意思に免じて、私は彼女の提案を受け入れた」


 民達は言葉を失った。

 皇帝の声はさらに続く。


「恨むなら貴族を恨め。アリエル元王女ではない。……彼女だけが、この国で唯一、貴様らを真に導こうとする王であろうとしたのだから」


 皇帝の言葉は、静かに、しかし確実に民の胸へ落ちていった。


 その後、デリグラシア王家と貴族制度は正式に解体された。


 ギルベルト達の末路は明かされない。

 処刑か、幽閉か、あるいは……皇帝の命により誰にも知られぬ闇へと消えたのかもしれない。


 病床の国王は、皇帝の命により離宮で静かに療養させられることとなった。

 占領ではなく、ただ——王としての役目を終えた者への、わずかな情のようにも思えた。


 貴族達の生活は大きく変わり没落していったが、反対に民の生活は驚くほど速やかに安定へ向かい、街には新たな秩序が流れ始めていた。

 むしろ以前に比べて格段に生活はよくなり、ここで初めて民衆は、アリエルの判断が正しかったと心から知る。


 そして、アリエルを侮辱する者は——二度と現れなかった。



 王女アリエルは、その役目を終えたその日に、既に王宮を去っていた。


 腰まであった長い髪は、肩に触れるほどに短く切られていた。王女としての象徴を断ち切るかのように。

 その顔は驚くほど穏やかだった。

 まるで——生まれて初めて、自分の人生を歩き始める者のように。


 見た目には、もう誰も彼女がアリエルだとは分からないだろう。


 どこへ向かうのかも決めていない。

 ただ真っ白な道が目の前に広がっているだけだった。


「……これから、どこへ行こうかしら」


 そんな独り言が漏れた時——。


「よう」


 空気がわずかに揺れ、いつの間にか隣に黒い影が立っていた。


「……リル」


 皇帝と書面を交わした直後から姿を消していた男が、何事もなかったかのように戻ってきていた。


「あなたも自由になったんだから、好きなところへ行けばいいのに」

 

 アリエルがそう言うと、リルは肩をすくめた。


「いや、全部殺して自由にはなったはいいがよ。……行きたい場所ってのが、いまいち分かんねぇ」

 

 アリエルはふっと笑った。


「じゃあ……一緒に行く?」


 リルは驚いたように目を瞬かせ、それから拗ねたようにぼそりと呟いた。


「……いいのかよ。俺は暗殺者で、あんたが引くほどの人殺しだぜ」


 アリエルは首を小さく横に振った。


「ええ。でもあなたは、私を一度も殺そうとしなかったでしょう?」


 アリエルは小さく微笑むと、ふといたずらっぽくリルを見上げた。


「それに……私についてきたいから、わざわざまたここに現れたんじゃないの?」


 リルの目が大きく見開かれ、次の瞬間ふっと視線を逸らす。


「……ったく。全部お見通しか」


 二人の間に、穏やかな沈黙が降りた。


 恋人のような甘さではない。

 家族とも違う。

 ただ——互いを尊重する静かな絆だけがそこにあった。


 その時、リルがアリエルの短くなった髪をちらりと見て、ぼそりと呟いた。


「あんた、髪、切ったんだな」

「ええ。もう王女ではないもの。それに、軽くなって気分がいいわ」

「まあ、似合うんじゃねぇの」


 アリエルはくすりと笑い、逆に問い返した。


「あなたも切れば? その後ろの長い髪」


 リルは目を瞬かせ、それから肩をすくめた。


「……だな」

 

 そう言うと、リルは腰の短剣を引き抜き、ためらいもなく自身の長い髪を掴んで——。

 ざくっ。

 静かな道に、刃が髪を断つ音だけが落ちる。


 アリエルは思わず吹き出した。


「まさか今切るなんて……!」

「思いついた時にやるのが一番だろ」


 切られた黒髪はリルの手からふわりと離れ、風に乗って空へ溶けていく。

 まるで彼の過去が、跡形もなく遠くへ流されていくようだった。


 リルは短くなった髪を無造作に払ってから、アリエルを見た。


「……行くか」

「ええ。行きましょう、リル」

「ああ。どこへでもついていく」


 そして二人は肩を並べ、誰も知らぬ道へ歩き出した。



 ――こうして王女アリエルはいなくなった。



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― 新着の感想 ―
>こうして王女アリエルはいなくなった ただのアリエルが幸せになりますように。
王女を蔑むまでは「亡くなった兄王子より劣ってるのは王女も王も王妃も貴族共も同じやのにアホやな」と思うがまだ理解できる。民衆は学も情報も考える脳みそを育てる栄養も足りなさそうな、愚かさに自分の責任が少な…
     王女様の美しき滅美と二人の新しき旅路に祝福を。
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