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『愛することはない』夫と、その後の彼女  作者: 莉央花


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本編

宜しくお願いします!



「君を愛することは無い」


空は青く、薔薇は赤い。女性たちが総力を挙げて施した刺繍が輝くウエディングドレスは、一点のシミもない純白だ。この世の多くの女性が迎える、ありふれたものでありながら、一生に一度の幸福な晴れの舞台。


その婚姻の日の夜、夫婦の寝室で冒頭の台詞を投げかけたのは、花婿のディック。カーヴィン伯爵家の嫡男だ。


「君を愛することはない」―――。美しく整えられたベッドの上でその言葉を受け取ったのは花嫁、ロレッタ。少し前までは、伯爵家の末娘としてヴェレミーの姓を名乗っていた。


初夜の席で花嫁に投げかけるにはあまりに無作法なその一言を受け、ロレッタは驚きも束の間、いかに返すべきかと思案した。


+++++++



貴族の令嬢であるロレッタが、困ったときに思い出すのは一冊の本だ。

『淑女の作法書』と題される礼儀作法の指南書(ハウツー本)には、さまざまな知恵と工夫が記されている。その『令嬢の心得』の一説にはこうあった。


『万事につけて相手のことを我がこととして考える―――これは貴族に必要とされる、共感(エンパシー)の原点である』


まずは聞こう。五人の兄姉を持つ末子のロレッタは総じて聞き上手だった。


「ディック様がどのようなお考えでそう仰るのか、伺っても?」

「そのままの意味だ。君を愛することはないし、情けをかけることもない。私には真に愛する人がいる」

「愛人がいらっしゃると?」

「そのような呼び方は不快だが‥‥ともかくヘレナこそが私の真実の相手なんだ。そのヘレナに、君を抱かないと固く誓っている」

「ヘレナさん‥‥。お二人のご関係を伺っても?」

「聞いてどうする?と、言いたいところだが、君にもしっかりと理解しておいてもらいたい」


ヘレナとディックは初等部からの学友で、領も近く幼馴染のような間柄だった。転機は、ヘレナの父子爵が事業に失敗し、爵位を返上したとき。平民となり学園も退学したヘレナを不憫に思い世話を焼くうち恋仲となり、二年前から交際中だ。今ディックは二十一歳であるから、十八からの付き合いということになる。


「そのヘレナさんとはすでに深い間柄でいらっしゃいますの?」

「あけすけなことを聞くんだな、君は。清い間柄だが、初夜はヘレナと迎えるつもりだ」


あけすけも何も、まっ先に確認すべき事柄だ。それにしても愛人と行う初夜を『初夜』と呼ぶものだろうか。ロレッタの胸の内に、追及の言葉は次々と浮かぶ。


「私と初夜を行わないということは、子についてはどうされるおつもりですか?」

「子はヘレナが産み、君が育てれば良い」

「まぁ、本気でそう仰っていますの?」

「馬鹿にするつもりか?本気でなかったらこんな場所でこんな話はしない」


ロレッタはガウンを羽織り、髪を下ろしたディックの顔を注意深く見つめた。こうして向かい合いじっくり言葉を交わすのは初めてだ。切れ長の目にしっとりとした金髪がかかり薄い唇はきゅっと引き結ばれている。小作りな顔立ちで、口を開かねばなかなかの美丈夫である。


しかしこの男はあまりに浅慮ではなかろうか。初夜の段になっていきなり愛人の存在を暴露するなど。ロレッタはこの男がどれだけ本気か計りかねていた。



――これは、相手をよく知るべき局面だろう。ロレッタは次なる質問を重ねた。


「―――それでは、生まれてくるお二人の子にはどのような名前をつけられますか?」

「名前?そんなことはまだ‥‥」

「あら、考えたこともないですか?おかしいですね。本気で子を持つおつもりはなかったのでしょうか?」


そんな理屈もないのだが、あたかもそれが当然であるようにロレッタは言う。


「いやいやいや、そんなことはない。ブリックだブリック」

「女の子であれば?」

「ミレナだ、いや、エレナでも良いかもしれない」

「そうですか。ミレナが良いかもしもしれませんね。ヘレナさんと聞き間違えることも少ないでしょう」


努めて冷静な声でロレッタが返す。結婚して二回目となる夫婦の共同作業だ。なお一回目は先ほど婚姻証書に署名したときであった。


「でもヘレナさんが産んだ子を私が育てるだなんて、ディック様はずいぶんヘレナさんに酷い仕打ちをなさるんですね?」


ロレッタは意味ありげな視線をディックに向ける。


「な、なぜだ」

「だって考えてもみてください。産みの母と育ての母がいたとして、子がどちらを愛するでしょうか?血が繋がっている母親を敬えと、子が素直に理解できると思いますか?‥‥そうだわ、ディック様はモリュ国立公園に行ったことはおありですか?

「あぁ、あるが。それがどうした?」


突然思わぬ話題に逸れてディックは虚を衝かれた。ロレッタは一息つくと視線を遠くに‥‥部屋の端に飾られた白とピンクのブーケよりも遥か遠くどこかへと彷徨わせた。



「考えてみてください。あのモリュ公園の芝で5歳になったブリックと私がお散歩をするのです。すると持ってきたボールを遠くに飛ばしてしまったブリックが慌ててそれを追いかけて‥‥ふと一人の女性がこちらを見ていることに気付きます。

『かあ様、あの方だあれ?』って。すると私は答えます『あら、ヘレナお母さまよ。この間もお会いしたでしょう?ご挨拶なさい』って。小さい頃のディック様に似て引っ込み思案なブリックは小鳥が鳴くような声で『ごきげんよう』ってなんとか挨拶すると私のスカートの後ろに隠れてしまいます。

『すみませんヘレナさん。たまたま機嫌が悪かったようですわ』と、私はヘレナさんに会釈します。するとブリックが『池に鴨を見に行きたい!』って私の手を引くから、そのまま挨拶をして別れるのです。ブリックは鴨に夢中でヘレナさんの事は忘れてしまいますわね」

「‥‥。」


長い。説明が長い。そしてなんと想像力が逞しいことか。この子はちょっと変わった子じゃないか?と、訝しげな目でロレッタを眺めるディックである。末娘ロレッタはお喋り上手でもあった。因みにディックが引っ込み思案で苦労した話は彼の母親が語って聞かせてくれたことである。


「‥‥男の子が生まれるとは限らない。女の子であれば、女親とは打ち解けやすいだろう。血を分けた親ともなれば、なおさらだ」


ロレッタの言葉を否定する糸口を見つけられぬディックは、なんとかそんな言葉を絞り出した。


「女の子も良いですね。ディック様は容姿が整っておいでですし、ヘレナさんも面長のお美しい女性でいらっしゃるからお顔立ちの優れた女の子が産まれるでしょうね」


ヘレナの顔立ちを知っていることに関して、ロレッタはここで強いて説明を加えない。


「四歳になったミレナは、私のワードローブからチュールのスカーフを取り出して、ごっこ遊びをするのです。スカーフを頭に被って廊下を駆け抜け、執務室の扉を勢いよく開けます。そしてディック様のところへ行き、『お嫁さんごっこをしたいの、お父さま!』とせがむのです。誰が花婿役かと聞けば『父さまに決まってるわ!だってミレナは父さまのお嫁さんになりたいんですもの!』と。そう言って貴方をハグするのです。貴方はミレナの顔にかかったスカーフをそっとめくり、頬にキスをしてやって‥‥」


ディックは五つ年下の妹が、その昔に似たようなごっこ遊びをしていた時のことを思い出していた。その時の妹も頭に布を被っていた。


「‥‥ですが、十四歳になったミレナはそんなことも忘れてしまいますわね。だって父親は、外に愛人を作って子を産ませたような人間ですもの。『汚らわしい』と、娘に言われてしまうかもしれません。ひょっとしたら自分の出自を嫌悪してしまうかも。初夜に『君を愛することはない』なんて言うような人間が父親と知って、ミレナはもう幸せな花嫁を夢見ることはできないでしょうね」

「あぁぁぁぁぁぁ!!!!!君は!君はどうしてそんなに悪辣なことばかり言うんだ!!!」



ディックが大声を上げたので、外では立会人が何事かとドアの傍まで来ていたが、ディックはそれに気づかない。


「大丈夫ですわ」 ロレッタは力強く言った。ドアの向こうにも聞こえるように。


「ディック様。そうであったとしても、この国では貴族が愛人に子を産ませることだって、全く無いわけではありませんもの。ブリックもミレナもしっかり教育すれば、ちゃんと一門の貴族に育ちますわよ」


悲惨な未来の話をしておいて、何が『大丈夫』なのかは分からない。しかしロレッタはそれ以上、空想話を続けるつもりはないようだ。


「でも愛人を持つからには苦労もつきものですわよ。私が三年経っても子を産まなければ、離縁の話も出るでしょうし」

「そのつもりはない。そのためにヘレナの子を君の子とするのだから」

「ですが焦げ茶色の目と髪を持つヘレナさんのお子を私が産んだことにするには無理がありますわ」


ロレッタは透けるほど薄く煌めく金髪である。瞳は緑がかったヴェレミー特有の色だ。金髪碧眼のディックと、ロレッタの間に茶髪の子は生まれない。先祖代々を遡っても辻褄が合うとは思えない。


「‥‥養子にしてもいい」


ここに来てようやく、ロレッタが事前にヘレナの存在を知っていたことを察し、ディックは気まずげに言葉を詰まらせた。


「縁者でもない平民のお子を?いずれにしましてもヴェレミー伯爵家としては白い結婚を成立させた方が利がありますわ。二、三年あればあの規模の事業の初期投資は済むでしょうし、カーヴィン伯爵家と血縁で繋がらないのであれば、そこで手を引くことになるでしょう。それから、遠縁のブライアン兄さまが奥方に先立たれたばかりなんです。子もないから、そちらと再婚してはどうかと打診されるでしょうね」

「再婚!?そ、そうなったら君は伯爵夫人としての地位も失うんだぞ。それで良いのか」


ブライアン兄さまがいかなる地位の男かは知らぬが、少なくともディックと歳の近い貴族ではないだろう。


「そうですね。まぁ商会を経営されている方なので不自由はないですし、私も自分の子を持ちたいですからね。逆に言うと、その状況でディック様の伴侶で居続けるメリットが、さしあたり見つからないということですわ」


率直すぎる言葉にディックは言葉を失った。コケにされているようで腹も立ってくる。


「カーヴィン伯爵家がその商会に圧力をかけることもできるんだぞ。伯爵夫人との再婚話が持ち上がること自体、不貞の画策ではないか」


今現在、不貞をしている人間がよく言ったものである。


「その場合は、うちの両親と祖父母がこちらの家と話し合いの席を設けることになるでしょう。婚姻にあたってこちらが希望したのは『誠実』なご令息との縁組ですから、始まりから不義があったともなれば穏便に済むはずがありません。我が家の関連商会に圧力をかけるなどは論外です。取引価格でどれだけ譲歩を引き出せるか、父と祖父が躍起になる様子が今から目に浮かびます。母と祖母は夫人会で有利に振る舞えるよう根回しも怠らないでしょう」


親戚の男の話が両親祖父母の話に移り、ディックはついていくのに精いっぱいだ。


「それでいえば、もう明日から折衝は始まりますわよ。カーヴィン伯爵家の花婿殿が結婚前に恋人との関係を清算できなかったって早速話題になるでしょうから。お義父様方は事業計画を練り直さなければならないでしょうし、お義母様方はお茶会で肩身が狭い思いをなさるでしょうね。当然ディック様もお叱りを受けるでしょうし、しばらく邸を自由に出られると思わない方が良いですわよ」


‥‥そうやって事も無げにロレッタが言うと、ディックは「うっ」とうめき声を上げた。ここ数カ月、口を酸っぱくして「大人しくしていろ」とディックに言い続けた両親たちの顔が浮かぶ。それにしても、誰がそんな口さがない話を話題にするものか、とディックは内心で反発した。


「それはもちろん貴族の多くが話題にすることですわ。カーヴィン伯爵家のご嫡男は平民の娘に夢中だって、そこかしこで囁かれていますからね。もともとこの縁談だって断るか破談にする話も出ていましたわ。それが、必ず結婚前に清算させるからってお義父様が頭をお下げになったから信用したのであって。まぁ、その信用もつい先ほどディック様に破られてしまったわけですが。皆さんさぞかし気落ちなさるでしょうね‥‥」


ディックは疲れてきた。放っておくとこの花嫁は際限なくこちらの気が滅入るような言葉を喋り尽くすに違いない。しかし今の話からすればこのまま初夜をせずに部屋を出た場合、厄介な問題が起こることをディックは理解した。


「先ほどの‥‥最初に言った言葉を撤回するつもりはないが‥‥」

「あぁ、『君を愛するつもりはない』ですわね」

「だが、初夜を行わないわけにはいかないだろう」

「だろうも何も、初めから初夜を行う前提があり、その前提を折ったのはディック様ですわ」

「君はいちいち余計なことを言わなければ会話ができないのか?」

「あら愛されない妻などこんなものですわ、所詮は名ばかりの妻ですから。ところで」


「本当に初夜をなさるんですか?」―――そうロレッタが尋ねたころ、既に若い夫婦であれば一回戦が済んでいてもおかしくないくらいの時間が経っていた。立会人は、さぞ待ちくたびれていることだろう。



+++++



ディックはたっぷり一分考えた。愛人への操を立てることと、家名に関わる不都合とを比べあっているのだろう。普通の貴族ならば、比べるまでもないことだが。


「あぁ、初夜は、する」


手厳しい言葉を重ねるロレッタであったが、緩やかなウェーブの髪を下ろし、薄いガウンに身を包んだ姿は扇情的だった。日中のドレスも彼女に似合っており、あどけない表情にどこか妖艶な雰囲気を合わせ持つ彼女の魅力を引き立てていた。外見に関しては秀でた部類にあると、ディックも認めざるを得ない。もっとも、彼女を品定めする資格などこの男には端からないのだが。


「そうですか。では覚悟はおありということですね?」

「何の覚悟だ。通常、心の準備がいるのは女性側だろう」

「身体的な負担で言えば女性の方が大きいかもしれませんが、初夜といえば男性にとっても特別なものですから。そうですね‥‥」


ロレッタはそこで言葉を区切って真剣な顔をした。彼女のガウンから覗く薄い下着と、ベッドに撒かれたバラの花びらが、なんだか場違いな対比をなしていた。


「初夜が済んだら明日、私は侍女達に身を清めて整えてもらいます。そしたらきっとジェンヌ姉さまとロタ義姉さまが最初に様子を見に来てくださると思います。『昨夜は素敵な夜になったかしら?身体は辛くない?』ってどちらかの姉さまが聞いたら、私は「えぇ、大丈夫です」と答えるんです。あるいは「恙無く済みましたわ」と。‥‥これがどういう意味か分かりますか?」


またもや唐突な話題に、ディックが答えを持つはずもない。


「どういう意味とは、どういう意味だ?」


するとそこで彼女は声を落として‥‥小さな声で打ち明け話をするように言った。


「初夜が『問題なく』『恙無く』済んだ、と言うことは、夫は子種を放つ役目()()()無事果たしましたよ、とそう言うことですわ。つまり他には何も褒めるところがないと言うことですね。

これを言われた付添人は『まぁ、そうだったの。どうか身体を厭うてちょうだいね』なんて声をかけて、さんざん花嫁に同情してから部屋を出るんです。それから、」


「それから!?」

まだ続きがあるというのか。


「世話焼き上手な姉さまの誰かが、こっそり自分の夫に耳打ちするんです。『決してお上手ではなかったみたいだわ』って」


まさか花婿の閨のことで、そんなに侮辱的なことを言うだろうか?本人の居ない所で??ディックが疑問を口にする前に、ロレッタが先んじて答える。


「いえ、馬鹿にしてるわけではありませんよ。意を汲んだ兄様方がそちらの男性衆の中から手近な人を見つけて、連れ立ってディック様の元へ行くのです。そしてこんな風に声をかけます。『調子はどうだい。まぁ夫婦生活は長い道のりだから、じっくりやっていけば良いさ。直に色々なことができるようになる。ところで女性は優しく扱った方が良いぞ?』……と、こんな調子で」


末っ子のロレッタは、上の姉たちや近所の娘たちが結婚する度に、様々な話を聞かされてきた耳年増であった。ちなみに初夜の感想を聞かれて『大丈夫』と答えた花嫁を実際に目にしたことはない。支度を待つ間のくだらないお喋りの話題(ネタ)にすぎないが、愛のある行為ならそれ相応の感想が出てくるものなのだろう。あるいは表情や仕草から、幸福な女の色香というものが発せられるのかもしれない。


「と、言うわけですので、そう言われた時のディック様はどうぞ愛人を侍らせた百戦錬磨の美丈夫の顔はおしまいになって、適当に目を泳がせてでも、ちゃんと聞いてるフリをなさってくださいね?『ええ』、とか『はい』、とか言っていれば終わりますから」


因みに、私が適当な嘘をついても姉さま達にはバレてしまいますわ。そうしたらもっとややこしい誤解が生まれますから。……とも、言い添えた。当然だ。「優しかった」とか「心地良かった」とか、そんなものは経験したことのない彼女が想像ででっち上げることはできない。実際に愛された花嫁にだけ言えることだ。



そこでまた、ロレッタはすかさず脈絡のないお喋りを再開した。


「そう、式の前にお会いしたディック様のお義祖母様が何度も仰ってましたわ。『ディックは困ったところもあるけれど、良い子だから見離さないでやってね』と。きっと明日また別宅にお帰りになる前にも言われるでしょうね。『あの子を見離さないでやってね』って」


ディック、困った子ねディック。見離さないでやって。

あぁディック、初夜で花嫁を抱くことすら上手くできないなんて―――。


現実的に考えるなら、初夜の話題は兄弟姉妹と両親を含むごく一部の人にしか知らされない。祖父母の耳にまであけすけな話題が届くことはまずないだろう。しかしこの時のディックには、あたかも結婚式に参列した全ての招待客が、彼の失態を知り同情と失望の目を向けてくるかのように思えた。


女性の上手な抱き方など経験のないディックに分かるはずもない。今日は何もしないつもりだったから、閨の教本もよくよく読んできていないのだ。いや、やるべき行為は大まかには分かってる。でももし途中で彼女が痛がったら?男が下手だと女性は痛がると聞く。「どうしたんだ」って立会人が飛んできたら?


それに仮に初夜を完遂しても、それで万事終わりではないなんて。初夜がどうだったか?そんなの話題に‥‥上るだろうな。下手くそディックと囁かれたらどうしよう。無能な男、一応、不能ではないようだが。―――そんな風に思われたら?


そこでようやくディックは理解した。自分の社会的信用や、将来設計や、男としてのステータス。彼の価値を指し示す物はことごとく、この新妻に依存しているということに。


妻が、彼の生命線を握っている。


「私はどうすれば‥‥」


ディックが急に萎んでしまった。部屋に入ってきたときの勢いはどこへやら。ガックリと肩を落としたディックは一回り小さく見える。ここにきてロレッタはようやく、お喋りが過ぎたかもしれないと自覚したのだが今更である。


しかし、そんな彼女のために指南書(バイブル)にはこんな記述もあった。『夫を励ますための心得』だ。今まさにそれを発揮する時だろう。


『万事につけて相手の満足や快適を優先する―――愛徳と共感があれば、他者に良きことがあるように願うのである』


このディックに良きことをもたらそう。そう彼女は決意すると、そっと夫の背を撫で、反対側の手で彼と優しく握手をして「大丈夫ですよ」‥‥と呟いた。


「ディック様、貴方はやればできる方ですよ。大丈夫ですよ。ちゃんとうまくいきますよ」


そうして彼女の励ましは様々に‥‥本当にさまざまな所へと及んだ。その優しさに包まれ、さらに滑らかなシーツが二人の身を包むと、長い時間の格闘の末、二人はなんとか本懐を遂げた。



果たして彼らの三回目の共同作業は、実りあるものとなったようだ。



+++++++



翌日。


心配げな姉たちがロレッタの様子を見に行くと、そこには夫のディックが、ベッドサイドにまるで張り付くように座っていた。床に跪き、ロレッタの手を握り続ける彼は、姉たちがそれとなく退出を促しても頑として側を離れようとしなかった。花婿殿はこんなに情熱的で、頑固な男であっただろうか?姉たちは思わず面食らった。


「大丈夫ですわ、姉さま方。ディックはこうして私を大切にしてくれるようです。どうぞ、ご安心なさって?」


ロレッタは緩やかに、そして満足げに微笑んだ。



==========



ディック・カーヴィン伯爵令息とロレッタ・ヴェレミー伯爵令嬢の縁談は、周囲を騒がせるものであった。カーヴィン伯爵が奔走して整えた婚約は、事業提携の条件、互いの学生時代の成績、どれをとっても申し分なく、双方の家に利がある話に見えた。


しかし問題はディックの素行にあった。二年にわたり、彼は平民の女性と親の目を盗んで交流、交際していた。この事実はくれぐれも周囲に漏れぬようカーヴィン伯爵家は腐心したが、完璧に隠し通すことなどできるはずもなかった。


婚約後のディックは、礼儀正しくはあるもののロレッタに趣味の一つも聞かない。エスコートはするが最低限の触れ合いにとどめ、目を合わせることもなかった。


そんな令息の様子に、ヴェレミー伯爵家側が何も気づかぬはずもない。調査により、彼が懇意にしている娘の存在、そしてその娘が元子爵令嬢であったこともすぐに知るところとなった。


婚約中に不貞を働くなど、なんと非常識な‥‥と、ロレッタの母は眉をひそめた。しかし、「隠し子がいるようでもなく、浮気程度だ」と父伯爵は言う。それがきっかけで夫婦喧嘩となり、「一体どうなさるおつもりですか?」と夫人が伯爵を問い詰める事態となった。


「初夜が果たされなければ、婚姻は無きものになるだろう」 結局、それが父伯爵の唯一の答えだった。


「他の女と関係しながら、義務的に初夜を果たそうとする男に応じてやる必要はないわ。良いわね、ロレッタ!」と、母は怒りに震えた。花嫁への侮辱は、伯爵家への侮辱であると。二人の間に挟まれたロレッタは、いよいよ厄介な事態になったと天を仰いだ。


結局、婚約を続行すべきか、結論は出なかった。なぜこんな厄介な令息と縁組させてしまったのか。両親にとって最後の末子の縁談ともあって、慣れが警戒心を薄くしたのだ。今更破談にしても娘の肩書には傷がつく。さりとてこのままにしたのでは、と。ただ、カーヴィン家へ釘を刺したのは当然だった。

()()()ご令息との良縁に感謝します。ありがたくも真摯な振る舞いがあれば、当家の末娘ロレッタは誠心誠意お支えすることでしょう」と。


その婉曲的な注意は、確かに届いた。


カーヴィン伯爵家とて、嫡男が決定的な過ちを犯すまでただ手をこまねいて待つほど愚かではなかった。「婚約者を、花嫁を大切にしないなら破談と離縁もあり得る。そんな息子に爵位はやれない。平民として暮らすつもりか?」と、ディックを厳しく問い詰めた。


しかしディックは「役目は果たす」とだけ答え、具体的なことは示さずにいじけたようにそっぽを向いた。「清算はした(ケリはつけた)のか」と聞くも、要領を得ない言い訳を重ねるのみ。


いっそ娘を亡きものにしてはどうか、とも話題に上るが、ヘレナは他領の平民である。貴族がその采配で平民の命を摘み取って許されるのは、その地の領主の暗黙の了解がある前提だ。領民は資産であるから、無闇に奪われて気前よく許されるとは限らない。生憎、併合後の子爵家跡地を治める家と、カーヴィン家との間にそこまでの親密さはなかった。

「貴族の男が平民の娘に手を出して、邪魔になったから殺した」ともなれば、世間の反感を買うのは必至だ。この場合、ヘレナが元貴族であることは問題とならない。彼女たちは現に平民として働いて暮らしているだけに。


ならばと、人を介してヘレナの父に警告を出すこととなった。しかしその間にも、カーヴィン家のご嫡男の奔放な振る舞いについては、じわじわと社交の話題に上り始めていた。ヴェレミー家側が、もしもの事態に備えて一人また一人と味方を増やし始めたのだ。瑕疵がどちらにあるのか、世間の印象は既に決まりつつあった。


カーヴィン伯爵の脳裏には破談のうえ廃嫡させることもよぎるが、息子は件の娘と、まだ一線は越えていないようだ。頭を冷やさせれば、あるいは‥‥考えを改めるかもしれない。

最後の三箇月は、ディックを執務と式の準備で徹底的に忙しくさせ、ヘレナに会うのを止めさせた。手紙は、すべて握りつぶされた。



その三月という期間は、恋人たちが引き裂かれるにはあまりに長い一方で、夢見がちな一人の若者が頭を冷やすのには十分な期間であった。目の前にいない相手に変わらぬ熱情を持ち続けられるほど、ディックは情熱的な男ではない。本来は。


愛人が目の前にいて、手に触れられそうであるからこそ熱情が湧いてくるというものであって。会わない時間をどう過ごしているかと最初こそ考えもしたが、そこからあれこれと想像が膨らむほど、相手のことをよく知っているわけでもなかった。


交際とは言っても、身体の関係も婚約関係もなく、単なる口約束の間柄に過ぎない。ディックが執務の合間を縫って月に一、二回、市街地に会いに行く。貴族が行くような場所に遊びに行くことはできず、家族と暮らすヘレナの家に忍び込む発想が育ちの良いディックにあるはずもない。結局、平民が利用する賑やかな食堂やカフェで逢瀬を交わしていた。その当時は、家族の目を盗んでする『デート』に胸を躍らせていたディックであったが、貴族としての現実が分かるとその記憶も急に色褪せてきた。


あの時どんな話をしたのだったか?いつもヘレナは何を喋っていただろう?人の話をよく聞かないディックには、ヘレナとしていた会話もほとんど思い出せない。元々ディックは、女性のする雑談など記憶に留められない種類の男であった。


そして、感じていた寂しさも忘れてしまうほどの忙しさ。執務に追われる日々で、働いて食べて眠れば、恋人などいなくとも日は過ぎる。結局いなくても困らぬ存在なのだとディックがはっきり自覚しなかったのは、自分を薄情者だと思いたくないくだらない意地であった。


もはや彼は、何に恋をしていたのかも釈然としないまま、それでも唯一ハッキリ記憶していたヘレナとの約束は果たそうとしたのがあの初夜の一場面だ。



それからロレッタに詰められたディックが肩を落とし、それを塗り替える共同作業を経て、表面上は無事に初夜が済んだ。そしてディックがロレッタの傍にべったりと居座っている間に、ロレッタは彼に一通の手紙を書かせた。


ヘレナへの絶縁状だ。


「実子をその手で育てることもできず、私が離縁しようとしまいと正妻になることはできない、お可哀想なヘレナさん。この後ヘレナさんのもとに行くのですか?もしお二人が関係を持ってしまったら、ヘレナさんは一生囲われ続けるか薄汚い中年男の後添いになるくらいしか道がなくなりますわね。ディック様が抱いてしまったがために。花嫁衣装も一生着ることができないのでは?それに私も愛人を囲い続ける夫なんて―――」


今回ばかりはディックは、皆まで言わせなかった。「別れる!完全に手を引くから!!」とわめき、ロレッタの目の前で手紙を書くことになった。よそよそしい貴族文法の挨拶に、もう会うことはおろか一切関わりを持つつもりはないことを明記した。身体を労わるよう書き添えることを促してやったのは、ロレッタである。


「私が愚かだった。すまなかった、どうか許してくれ‥‥」


初夜を無事終えていささか自信がついたのかなんなのか。その心境を知る由もないが、ディックはロレッタにきちんと向き合うと心から謝り、赦しを乞うた。


こうしてようやく二人は夫婦のスタートラインに立った。



今のディックは妻の顔色を常に窺い、私生活では何を決めるにしても彼女に頭が上がらない。

ディックのディック(分身)も、妻に励まされないと頭が上がらない。貴族として、一人の男としての自信のすべてが、この美しくも聡明な妻に依存することとなった。



一方、結婚後のロレッタは、新婚生活に概ね満足していた。始まりこそあんな物であったが。末娘のロレッタは家族に振り回されたり後回しにされるのも慣れっこであったから‥‥。とは言っても、まさか初夜にまで夫に振り回さるとは夢にさえ思ってはいなかったが。これまで多くの場面でそうであったように、最終的にはロレッタは大切にされ愛された。


「結婚生活は長いもの。‥‥あぁ、あくまで何事もなければの話、だけれど」


淑女の作法書を膝に置き、その表紙を撫でながらロレッタは誰ともなしに呟いた。この呟きはディックの耳に入らなかったのだが、入らなくて正解とも言える。彼が聞けば「ロレッタ‥‥どうか見捨てないでくれ」と、大騒ぎしたであろうから。



+++++++



ロレッタが愛読する『淑女の作法書』は、この国の身分のある女性たちが広く重宝する指南書である。礼儀作法の指針から会話の運び方、テーブルマナーまで解説される良書である。


婚約期間の過ごし方として、夫となる者の家族とよくよく交流を深めるようにと指南してくれたのも、この作法書である。さらには閨の指南も含まれており、夫婦の使命を円滑に果たすための技法や、夫にかけるべき言葉までもが客観的な文章で説明されていた。


結婚早々この指南書のお世話になったロレッタは、その痒いところまで手が届く教えに深く感謝した。


数年後、『淑女の作法書』は改訂の好機を迎えた。時世の変化に伴い施されたさまざまな改訂に加え、新たな情報が添えられた。


婚姻生活の章、閨の解説の最後に加えられたのは『初夜での夫のふるまいについて』。そこには、役目を果たそうとしない夫に対する妻の応答が事細かに説明されていた。協力者として『L夫人』の名が奥付に記されたが、妻の本を無断で開くような無粋をしないディックがそのページを目にすることは永遠になかった。


やがて四人の子を授かったロレッタは、夫のディックをよく支え、彼もまたロレッタを大切にし、幸せな家庭を築いたのだった。




END




結局、初夜の感想で『大丈夫ですわ』と言ってしまったロレッタ。でもあまりにディックが異様なオーラを出してたので、そうとしか言いようがありませんでした。ディックはちゃんと上手にできてたし周りにもそう伝わったと、宥めてやりました。


女性との取り留めのない会話を覚えていられないディックですが、ロレッタの語った子どもの未来像‥‥ブリックとミレナの話はトラウマになりました。ロレッタはディックの心に刺さる言葉を考えるのが上手なようです。その後産まれてきた子どもには全く関係ない別の名前を付けました。(←当然)


明日16時に後日談として、ヘレナとヘレナの夫の話をUPします!

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