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despair

作者: 有栖川 悠歌
掲載日:2025/10/06

 煤けた塗装越しの金属は、初冬の夜の冷気を吸って同様の冷気を内包していた。近藤晴馬こんどうはるまは眼下を見渡した。ただでさえ固いアスファルトは、冷気によってさらに凝固し、いくら歩道橋の高さとは云え叩き付けられれば唯では済まないだろう。若しくは、叩き付けられる寸前に時折通る車に、撥ね飛ばされるかもしれない。どうあっても、ここから落ちれば命はない。別段命に対して執着やら未練やらはないが。トマトにもひき肉にもなる気はないし、美しい肉体のまま死ぬことを良しとする晴馬にとって、ここから落ちて死ぬのは少々頂けないのである。

 しかしまあ、歩道橋の欄干に腰かけて足を投げ出して下を眺めているなど、投身自殺の機を窺っていると思われるのが常である。実に何度か警官から声を掛けられ、其の度に面倒な詰問を躱し、無遠慮な同情をあしらっている。いい加減面倒なので、夜中に訳も無く散歩に出て、何を考えるでもなく、唯眠りにつけない時間の消化の為に始めたこの行為にも、そろそろ見切りを付けようと考えていた。

 晴馬の耳には、常に嘲笑が聞こえていた。まるで数メートル先の人間に、明らかな悪意を以て聞かせるために、敢えて声を押し殺そうとしてそうし切れていない声を装っている様な、そんな嘲笑だ。誰の声だかわからない時もあれば、知り合いの声である時、普段は自分に対していい顔して「友達だ」などと言ってくる人間の声である時もある。最悪なのが、常に頭の片隅を我が物顔で占拠して、自分をどう思っているのか一向にわからない微笑を浮かべているあの人(仮称:T)の時もある。時にその声が、励ましの文句や、賞賛の辞であることもあった。しかしとにかくその声は常に嘲笑であった。晴馬に聞こえる声は、すべて嘲笑であった。寝ている時も働いている時も誰かと話している時も、愛好する酒を呑んでいる時でさえも、其のどこかからは必ず嘲笑が聞こえていた。これが何であるのか、なぜ自分に付き纏うのかも、晴馬には分らなかった。

 晴馬は軽い不眠症を持っていた。布団に潜って目を閉じ、一時間、二時間、一向に意識が眠りに落ちず気が付かば空が白んでいることが多い。またどうにか睡眠に落ちることが出来ても、中途半端に浅い眠りのせいで矢鱈夢を見る。それも、常人であれば高熱にうなされている時に見るような気分の悪い夢を繰り返し見る。顔も見たくないのに、母親が矢鱈夢に出て来る。気分は常に悪いのに、ずっと笑っている夢を見る。笑う以外の表情を奪われたような世界で、何よりも嫌悪するものと顔を突き合わさなければならない。睡眠は徐々に苦痛になった。とはいえ寝ないという訳にもいかないので仕方なくこの日も布団に潜り目を閉じるのである。さてこの日は、睡眠という部分には到達できた。例によって夢を見ていた訳だが、この日の夢はそう悪いものでは無かった。Tと二人で並んで座って、表情も話題も、何もかも気を遣わず話しているだけの数十分間の夢である。笑いたいときにだけ笑い、後は無表情でいる事すら許される。理想の会話であるが、晴馬にはもうずいぶん久方ぶりの会話に感じられる。いつものTの、真意の解らない談笑もさほど気に成らなかった。夢の中では、どこからか分からない嘲笑が聞こえた。小さな子供の声だった。知らない女の声だった。高い声の嘲笑が、世界の外側なのか、意識の外側なのか、とにかく「外側」からの嘲笑が聞こえた。心地の良い会話の外側に嘲笑があった。晴馬は、好ましいものとそうでないものが同時に降りかかった時、好ましいものははそれとして処理し、そうでないものはまたそれとして処理し、別個にして、脳の別の機関で捉えるような、そんなものの見方をするようになっていた。これは夢の中でも健在であった。目が覚めた晴馬は、会話の内容は覚えておらずとも、会話したということ自体は珍しく幸福な夢であったと思い、そして嘲笑は、今度はすぐ近くに聞いた。

 晴馬は、本職は学生であったが、学業の無い時は殆どを金稼ぎに費やした。あれこれアルバイトを掛け持ち、その一つに、宅配便の仕分け作業があった。深夜から始まり午前九時に終わるこの単調な肉体労働は、特に頭を使うことなくできる作業として晴馬の気に入った。しかしある程度慣れてくると、その様子に感けて晴馬に作業の不明点を聞いてくるものが増えた。そういうものは大抵言ってもわからず、仕分け先を間違え、荷物を落とし、晴馬の手を煩わせた。次第に晴馬は、この仕事は「頭を使わなくてもよい」のではなく「頭を使わない方がいい」と気づいた。そうすれば、無駄に煩わされたとしても、特に何も感じず、起こったことを処理していけば良いのだ。この時の嘲笑は、荷物倉庫の高い天井でぐるぐる回っている巨大なファンの上から聞こえた。Tの声だった。別のアルバイト先で仲良くなった男と女一人ずつの声だった。仕事に頭を使わなくなった結果、このファンによって拡散された嘲笑はいつもより鮮明に耳に届いた。晴馬はもう二度とこの倉庫で仕事をしなくなった。

 数少ない晴馬の愛好するものの中の最たるものが酒であった。アルコールによって気分を無理矢理高揚させ、倦怠や不快を拭い去ることはできなかった。単に味が好みであった。この日は近所の居酒屋で、学校の同級生と居酒屋で酒を呑んだ。そして次に近くのバーに行き、夜が更けていくのを忘れて朝まで酒を呑んだ。店の中を飽和するほかの客の笑い声の中に嘲笑があった。混ざり合って、各々の声など解らないはずの笑い声の中に、その明確な悪意と共に確実に判別できた。友人と呼んでいる男の声だった。大嫌いな母親の声だった。次第に嘲笑は伝染し、そこに在るすべての笑い声は嘲笑になった。

 朝を迎え、同級生と解散した晴馬は、歩道橋の欄干に腰かけていた。東の曇り空の向こうには日が昇り始めており、青みがかった灰色の空の下のほうだけが、赤くグラデーションに染まっていた。その色は綺麗であった。綺麗に灰色を犯していた。嘲笑は歩道橋の下から聞こえた。歩道橋の下から、段々とせりあがってきた。遠い東の雲は焼かれていた。熱く、しかし徐々に、痛めつけるように焼かれていた。嘲笑は更にせりあがってきた。晴馬は息苦しくなった。空を美しいと感じ少し高揚した気分を、そんな気分を持った自分を、さっきまで酒を呑んでいた自分を、そして今此処に腰かけている自分を、嘲笑が痛めつけるように焼いた。この嘲笑は、晴馬の声をしていた。


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