婚約破棄とパンと
朝の光が、薄いカーテンを透かして差し込んでいた。
いつもなら「今日も一日がんばろう」と思える清々しい朝――なのに、胸の奥は妙に重い。
私の正面に座るのは、婚約者オースティン・バーカナ。
今日は朝っぱらからオースティンの家に呼び出されていた。
紅茶を優雅にすする仕草は、昔なら「かっこいい」と思ったはずなのに、今は「飲むの遅っ」としか感じない。
そして、彼は淡々と告げる。
「メイナ・ブレット、君との婚約を解消させてもらう」
……はい出ました。唐突な爆弾発言。
頭の中で机を叩きたい衝動を抑えながら、口角をぴくぴくさせるだけの私。
「……理由を、伺ってもよろしいかしら」
震える声をごまかすため、わざとゆっくり尋ねる。
オースティンはカップを置き、事務的に告げた。
「君の家より格が高い、アーホナ侯爵家から婚約の打診があった。それだけだ」
――“それだけ”。
八年分の思い出を、紅茶一杯で流さないでほしい。
しかも私は知っている。本当の理由は、彼と侯爵令嬢エリーナ・アーホナが恋に落ちたことだ。
ねえ、オースティン。恋に落ちるのは勝手だけど、せめて私の心をクッションくらいで受け止めてから言ってほしかった。
背後の侍女たちが目を伏せ、小声で「まあ、仕方ないわよね」と囁くのが聞こえる。
うん、ありがとう。追い打ち感謝。
「……今までの私は、なんだったのかしらね」
思わず口から漏れた独り言に、オースティンが眉をひそめる。
ああ、その顔。見苦しいと言いたそうだ。
怒りと悔しさ、情けなさがごちゃ混ぜになり、目の奥がじんじん熱くなる。
でも、涙は絶対に見せたくない。
その瞬間、頭に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
視界が揺れる。椅子も机も、オースティンの顔も、どんどん遠のく。
――ああ、せめて最後に「パンでも食べて帰ります」くらい言ってやればよかった。私たち一家は、パンが大好きなのだ。
そう思いながら、私は意識を手放した。
◇◇◇
気がつくと、私は柔らかい何かの上に寝ていた。 ……いや、柔らかいなんてもんじゃない。ふわっふわで、手を沈めるともちっとしている。まるで――パン生地。
「……ここ、どこ……?」
頭の奥でガンガン響く痛みをこらえながら、ゆっくりと上体を起こす。 見上げた天井は、やけに白くて丸みを帯びていた。壁も床も、どこかほんのり甘い香りがする。まるで巨大なパンの中にいるようだ。
「夢……? それとも、頭を打っておかしくなった?」
そう呟いた瞬間、どこからともなく機械的な声が響いてきた。
――《おめでとうございます。新しいシナリオが解放されました》
――《称号:捨てられ令嬢 を獲得しました》
「……え、なにこれ」
私の頭がおかしくなったのか、この世界がおかしいのか。どちらにせよ、今の私に冷静な判断力は残っていない。 けど、一つだけ確かなことがある。
「……パン生地、寝心地は悪くないわね」
自分で呟いた言葉に、自分で吹き出しそうになる。 その瞬間、また声が響いた。
――《新スキル【発酵耐性】を獲得しました》
「いらないわよそんなの!」
思わず叫び、ふわふわの床から立ち上がる。すると足元がむぎゅっと沈んだ。
「え、床もパン……?」
恐る恐るもう一歩踏み出すと、むぎゅ、むぎゅ、と足音が響く。ふわふわの床がリズムを刻むたび、なぜか体が少し軽くなる気がした。 まるで舞踏会の練習みたい。いや、パン踏みダンスか何か? そして――またしても声が降ってくる。
――《クエストが発生しました:オースティンを見返せ!》
――《達成条件:3日以内に自分の価値を証明する》
「……なんなの、これ」
婚約破棄されただけでも十分ショックなのに、次はゲームみたいな世界? でも、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。
「見てなさいよ、オースティン。捨てられ令嬢が、どれだけ強いか」
パン生地の上で拳を握りしめると、また声が祝福してきた。
――《称号:ちょっとやる気出した令嬢 を獲得しました》
「そんな称号、欲しくないんだけど」
ため息をつきながらも、私は立ち上がった。むぎゅむぎゅと響く足音を鳴らしながら、未知の世界への第一歩を踏み出す。