聖女じゃないって言ったのに
「ヴァニラ・ティラピルカ! お前との婚約を破棄するッ!!」
王子がそう宣言した事で周囲が一斉に静まり返る。
建国記念パーティーの只中での出来事であった。
「お前は聖女であると自らを偽り、真の聖女であるアマリリス子爵令嬢に執拗な嫌がらせを繰り返していたな。そのような性根の腐った女が聖女であるはずがない! よってここでお前との婚約を破棄し、私は真の聖女であるアマリリス子爵令嬢を新たなる婚約者とする!」
「王子、一つだけ、よろしいでしょうか」
「申せ。アマリリスに謝罪をするというのであれば良し。浅ましくもまだ自らを聖女だなどとのたまうようなら容赦はしない」
「いえ、あの。私、自分で自分の事を聖女だと宣言した事は過去一度もございません。むしろ聖女ではないと否定しておりました。
いつ私が聖女だと偽ったのでしょうか……?」
「言い逃れを!」
「いえ、事実です。王族に対して偽証は罪となります。それも大罪です。ですから、私は一度だって自分を聖女なんて言った事はありません」
淡々と述べるヴァニラに、王子――ルドウィンは憎々しげに睨みつける。
「仮に聖女だと言っていなかったとしてもだ! それでもアマリリスを害した事に変わりはないではないか!
そうやって事を有耶無耶にしようなど、本当に性根の腐った奴だな!」
「害した覚えもないのですが……まぁ、何を言っても聞く耳持たないのでしょうね。
婚約破棄は承りました。それでは私はこれにて失礼いたします」
お手本のような綺麗なカーテシーをして、ヴァニラはさっさと王子とアマリリスの前から立ち去る。
この後ヴァニラにいかに酷い虐めをうけていたかを切々と語り、王子に庇護してもらおうと思っていたアマリリスはあまりにもあっさりとヴァニラが立ち去った事に、思わずぽかんとして見送ってしまっていた。
王子の腕に絡みついたまま。
周囲からすれば、王子と子爵令嬢が不貞行為を行っているとしか思えない光景であった。
たまたまその場から離れていた王が事態を把握し彼らの元にやって来たときには、全てが手遅れだったのである。
聖女、と言われてどういう存在を想像するだろうか。
奇跡のような魔法の力で死の淵にいる者も生還させる?
医者ですらさじを投げた難病を奇跡のように快方させる?
欠損してしまった肉体の怪我も、何事もなかったかのように五体満足に戻す?
確かに過去、そういった凄まじい力を持った聖女は存在した。
しかし今現在、聖女というのはそこまで凄い力を持っているわけではない。
今の聖女は精々光の魔法でそこそこの怪我を治したりある程度の病気の症状を軽くするのが関の山だ。
そういう意味ではヴァニラは正しく聖女ではない。
何せ彼女はそういった魔法は使えないので。
彼女ができる事と言えば、調薬である。
薬草の知識は誰にも負けないと自負しているし、実際その技術で多くの人を救ったのは事実。
けれども、魔法のような力でもって一瞬で怪我を治すだとか、病気を無かったことにするだとか。
そんな事はできないのだ。
だからこそ、ヴァニラはいくら助けた人から聖女のように崇められても自分が聖女だと肯定した事など一度もない。
流行り病などの特効薬を速やかに作り、結果として多くの人を救う事はあった。
事故で大怪我をした者たちに薬を提供し、どうにか症状を軽傷あたりに抑えた事もあった。
けれども、奇跡のような力を使えるわけではないので、悲しい事に犠牲だって出てしまった。
全てを救えるわけではないのだ。
それなのに、聖女を自称などとてもじゃないができるはずがない。
ヴァニラは幼い頃から薬に関する知識がずば抜けていた。
そして幼い頃から多くの人を助けてきた結果、聖女と崇められ、王家はヴァニラを求めた。
王家は過去にいくつかの失態をしでかしていたので、民からの支持がそこまでではないという状態であった。今はまだ致命的な失態をおかしてはいないけれど、しかし王家を讃えるような功績でもない限り、王家の支持率はじわじわと下がっていく一方。
そうなればいずれ、こんな王族たちに国を任せてはおけぬ、といつ反乱がおきるかもわからない。
それもあって、王家はイメージアップのために聖女のような活躍をしていたヴァニラを王子の婚約者としてどうにか王家の印象を良くしようと思っていたのであった。
まぁ王子が婚約破棄宣言したのでそれも無に帰したようなものだが。
そもそもの話。
ヴァニラはアマリリス子爵令嬢とそこまで面識はない。多分どこぞのお茶会で顔を合わせたかもしれないが、正直それだってそんな気がするな、くらいの記憶にほとんど残っていないくらい薄いもの。
いたと言われればそうなのねと頷くし、いないと言われればそうだったのと頷くような。
それくらいの薄っぺらいものだった。
そんな相手に執拗に嫌がらせをだなんて、一体何の冗談だろうか。
もし実際にヴァニラがアマリリスを目障りで邪魔だから始末しようと思ったならば、それこそ彼女のずば抜けた薬の知識でうってつけの毒でも作って盛っている。
自分が疑われないように毒を盛るくらいは、わけもないと思っているくらいだ。
直接自分の手をわざわざ汚しに行く理由がない以上、ヴァニラが敵を排除しようと考えたなら間違いなくそうする。
何故ならヴァニラは聖女ではないが、魔女なので。
ヴァニラは生まれる前からヴァニラだったし、今までもこれからもずっとヴァニラだ。
生まれ変わり、というのとは少し違う気がしている。
身体は朽ちても魂はそのまま次の新しい身体に入っているのだ。
新しい服に着替えたような気分、とでもいえばいいだろうか。
ずっと昔から薬を作るのが得意で、だからこそこの身体が幼い頃から既に一流の薬師顔負けの薬を作る事だってできていた。
魔女といってもすごい魔法が使えるか、と言われるとヴァニラは首を横に振る。
ヴァニラが使える魔法は薬を作る際に役に立ちそうなものだけで、例えば空から巨大な岩の塊を雨のように降らせて国を滅ぼしたりだとか、大雨を降らせ続けて大陸を水の底に沈めたりなんて事はできないのである。
ヴァニラが得意な魔法は植物の成長を促進するもので、それ以外は正直魔法を使えると豪語するには失笑されるくらいしょぼいものでしかなかった。
何度身体が新しくなっても、苦手分野が得意になってくれることはなかったのである。
伯爵令嬢として今回生まれたヴァニラの新しい身体も結局はそうで、だからこそ薬を作るのだけが取り柄だとか陰でひそひそされたりもした。
王子の結婚相手として身分的にはぎりぎりであったけれど、聖女のようなものだからそうなっただけに過ぎない。
けれどもヴァニラの魂はもうどれくらいの時を生きているかも忘れるくらい長く存在している。
だからこそ、王子と結婚と言われてもこれっぽっちもときめいたりはした事がなかった。
孫の孫のそのまた孫、くらいの遠い子孫を見守るような気持ちにはなれるだろうけれど、一人の男として見るのは難しかったのである。
ヴァニラの見た目がいくら若かろうとも、中身はもうすっかりおばあちゃん、くらいの気持ちなのだ。本人的には。
なのでまぁ、この国で最近成人したばかり、という王子なんて生まれたばかりの赤ん坊にも等しい。
まぁ赤子にしてはやる事やってたっぽいし、随分とませたガキだなとも思ったりもしたけれど。
一応ヴァニラもそれなりに魂だけは長く生きているので、いくら己の好みじゃなかろうとも生まれた家によっては政略結婚しなければならない、という部分を受け入れてはいた。
だからこそ、結婚したらあの王子とバブバブ赤ちゃんプレイになりそうな行為もしなければならないのか……そういう性癖が王子にないといいんだけど……とかうっかり本人が知ったら顔を真っ赤にさせて怒らせそうな事まで想像していたくらいだ。
魂がとんでもなく長生きしたせいで、ちょっとやそっとの下ネタとか気にならなくなってしまっているのは困った弊害かもしれない。今更清純ぶってもな……と思うのである。身体は純潔であっても。
ともあれ、婚約破棄だと宣言されたヴァニラはそのまま家に帰るつもりであった。
ところがだ。
いざ家の馬車に乗ろうと思ったところで同じくパーティーに参加していた両親から呼び止められてしまったのである。
ヴァニラが悪いわけではないのに、婚約破棄されるような不出来な娘、というのに我慢がならなかったのだろう。プライドだけは無駄に高い両親であったので。
こちらに非があろうとなかろうと、婚約破棄されたという事実こそが両親にとっては重要だった。
お前のような使えない娘など我が家に必要ではない! だとか言われて、馬車に乗るのを認めてくれずそのままその場で出ていけ! と追い出されてしまった。
普通に考えてなんて酷い親だろうか、と思うようなものだったが、困ったことにパーティーと違い馬車が置かれていた場所はそこまで人がいるわけでもない。
すっかり暗くなった道をドレスを着た令嬢一人で歩いて帰れ、なんて暴挙以外の何物でもないのだが、両親はお前などもう家の娘ではないと言い切ってしまったので、馬の世話をしていた他の者たちや警備にあたっていた兵たちがヴァニラに手を差し伸べる事もなかったのである。
一応たまたまそのやりとりが耳に入った者からは気遣わしげな視線を向けられたけれど、ここで割って入ると両親の怒りがそちらに向くのは言うまでもない。
理不尽を感じながらも、彼らもまたヴァニラを見守るしかできなかったのである。
ヴァニラがただの貴族令嬢であったなら、とても酷い話であっただろう。
けれども中身は長生きした魔女。
なので、別段夜の闇が深くなってきた外に一人放り出されたとしても、別に何とも思っちゃいなかった。
むしろ夜の方が魔女としては馴染みがあるくらいだ。
今までは令嬢として夜遅くの外出などしたこともなかったけれど、こうして夜の闇の中を行くのは久々だわね……なんて思いながら、ヴァニラはすたすたとその場からも立ち去ってしまったのであった。
ところで、父は持病があるのだが、その薬を作っていた娘を追い出して大丈夫なのだろうか。
ふとヴァニラはそんな風に思ったけれど、まさかその後の事なんてなぁんにも考えてないとかあるはずないわね、と思い直したので。
やはり気にせず夜道を突き進んでいったのである。
母の美容効果を高めるためのクリームだって薬の一種として作っていたけれど、あれ作り置きとかなかったから、これからどうするんだろうなぁ、とか。
他にも色々な薬を王家から婚約者なのだから、と言って安値で融通してほしいだとか。
ヴァニラを利用するような事をしていたけれど、ま、もう婚約破棄されたし縁を切られて家を追い出されたようなものだし。
そんな自分がいちいち気にしてやるようなものではないのだろう。きっと。
今まではきちんと周囲の事も考えて、真面目で心優しい伯爵令嬢として行動していたけれど、しかしもう家を追い出されてしまったわけだからして。
貴族令嬢でもなくなってしまったヴァニラは平民になったという自覚もなく、やっぱ自分って魔女だもんね、というくらいのノリでもって。
気楽に鼻歌なんぞを奏でつつ、暗い夜道を足取りも軽やかに。
魔女は夜の闇の中に消えていったのである。
――さて、それぞれやっちまった者たちのその後であるが。
王子ルドウィンはまず己の父にそれはもうこっぴどく叱られた。
叱られた、で済むようなレベルではない。顔の形がわからなくなるくらいの勢いでボッコボコにされた。
麗しの顔は見るも無惨なものへとなり果てた。
意気揚々とアマリリスと結婚します! なんて宣言していた時の顔と比べるとあまりにもビフォーアフターが違いすぎて、まるで悪夢でも見ているかのような差であった。
どれくらい酷いかというと、その後顔を合わせたアマリリスがあまりの姿に顔を青ざめさせてひっ、と悲鳴をあげかけた程だ。そいつお前の最愛の男だぞそんな態度とってやるなよ、と言うような相手はその場にはいなかったけれど、アマリリスですら別人だと思うくらいに酷いものだった。
それでなくとも王家の印象はあまり良いものではない。それは昔から少しずつ降り積もる雪のようにじわじわとなってしまったもので、今の今まで決定打と呼べる程の失態を繰り広げたわけではなかったからこそ、まだ挽回の余地はあった。
だがしかし、ルドウィンのせいで王家の評判は間違いなく下がる。とても悪い方向に一気に傾くのを王は感じ取っていた。
王妃もまた背中に嫌な汗をびっしりとかいているところだった。
今までは我が子可愛さに甘やかしてきた部分もあったけれど、しかしそれでもルドウィンが愚かな行動をとった事がなかったから。
うちの子はきちんと弁えている、という思いがあったのだ。
甘やかしたら甘やかした分だけ増長して、というのがなかったからこそ、王も父親なりに、王妃も母として我が子にたっぷりと愛情を注いでいた。
これで甘やかしたらその分駄目な方にいくタイプであったなら、もうちょっと厳しく接しなければとなったかもしれないが、そこら辺はかろうじて自制できていたタイプだったのがここにきて悪い方向に事態を運んでしまったわけだ。
どうして、と王子が口にした疑問は、実際にはろぅひぇ、というマトモな言葉にもなっていなかったが、それでもこの状況で何が言いたいかくらいはわかる。
王は底冷えするような眼差しを息子へ向けた。
「お前のせいで王家の印象は更に悪い方向へ傾いた。聖女を騙った? 彼女は最初から己を聖女ではないと言い続けてきた。周囲が勝手に聖女のように祭り上げていただけだ。
そんな謙虚な相手だからこそ、お前の嫁に迎えれば民たちからの印象は良い方向へいくだろうと思っていたというのに……折角余がわざわざ結んだ婚約を、貴様よくも勝手に……」
その言葉でようやくルドウィンは己のやらかしたマズさに気が付いた。とても手遅れである。
言い訳させてもらえるならば、ルドウィンは決してヴァニラの事を最初から嫌っていたわけではなかった。
だがしかし、なんというかいつも上から――というのとはまた違う、まるで姉、いや、母とかそれよりも上の祖母のような、そういう目線を向けられていたような気分だったのだ。
確かに彼女と結婚したならば、燃え盛るような愛はなくとも穏やかな夫婦とはなれたかもしれない。けれど、まだ年若いルドウィンにはどうにもそれが物足りなかったのである。
もっと年をとってからそういう関係になるのなら、ルドウィンも受け入れられたかもしれない。
けれども、まだ若い盛り。そういう事に興味だって勿論あったし、結婚前だから自重しなければならないとわかっていても、せめてもう少し、触れ合いはしたかった。
何といえばいいだろうか。
ヴァニラと一緒にいると大抵の事は微笑ましく見守られている気になるのだが、それがすごく自分を子ども扱いされているような気になってしまって。
露骨にルドウィン様はおこちゃまでちゅねぇ、みたいに揶揄されればこっちだってもっと色々言い返したり態度に出せたかもしれない。
けれどもそういうった馬鹿にするような態度ではないからこそ、周囲だってヴァニラの事は心の広い令嬢だと思っていた節もある。
強いて言うのであれば。
もっと対等に自分を見てほしかったのかもしれない。
けれどどれだけ努力を重ねても、そうならなかったのだ。
決してヴァニラは自分を見下していたわけではなかった。
けれどその慈愛に満ちた眼差しがどこまでも、己を幼子のように見ているような気がしてしまって。
そんな時に出会ったアマリリスは、自分をそういう目で見なかった。
ヴァニラと対等になりたい、と思うからこそ努力をし続けてきたルドウィンをアマリリスは眩しい物でも見つめるようにして、そうして王子に飾る事のない称賛の言葉を述べたのだ。
その言葉をヴァニラから言われていたならば、きっとすべてが丸く収まっていたけれど、それを口にしたのはアマリリスだ。アマリリスは子爵家の令嬢で、本来ならば王子と知り合えるような事そうそうあるものでもなかったが、彼女は癒しの魔法が使えたからこそ王子と知り合った。
低位貴族の娘だ。本来ならばこういった場に赴く事など滅多にない。それもあってアマリリスは急遽上位貴族たち相手でも失礼にならないマナーを学ぶ必要があり、癒しの魔法を必要とした城の人間と関わる事があったからこそ王子と知り合う事となった。
自分も努力をしているけれどまだまだです。
そう言って、王子を眩しそうに見つめるから。
ヴァニラに認めてほしかったという気持ちを、アマリリスはよく理解できていた。
アマリリスもまた認めてもらわなければならない立場であったからこそ。
その場にもっと斜に構えた人物がいたならば、お前らのそれは単なる傷の舐めあいだとでも言った事だろう。
けれどもそういった指摘をする者はなく、気付いた時にはルドウィンとアマリリスの距離は随分と近しくなってしまっていた。
いくら手を伸ばしたところで届かないと思っていたヴァニラと、近しい位置にいるアマリリス。
安寧を覚え、いつしかルドウィンはアマリリスに隣にいてほしいと願うようになっていた。
まぁその結果があの婚約破棄に繋がるとなれば、この馬鹿者! と王が激怒するのも仕方のない事であろう。
しどろもどろになりつつも弁明したルドウィンに、王はそれはもう深い、ふか~い溜息をついた。
溜息の大きさ選手権とかやったらダントツで優勝できそうなくらい重く深い溜息であった。
世の中の何もかもを憂いたくらいじゃこんな溜息でないぞっていうくらいに凄い溜息だった。
「どのみち癒しの魔法を使えるからといってもあの女は聖女ではない。しかもあの場でアマリリス子爵令嬢はお前が言った真の聖女という言葉を否定しなかった。
この時点で、聖女と偽ったのはむしろあの子爵令嬢だ。
お前、それがどういう事かわかっているのか?」
「…………っ!?」
ひゅ、と吸い損ねたような空気の音がルドウィンの喉から鳴った。
「そんな、自分はそんなつもりは……」
「どういうつもりだったかはともかく、お前がしでかした事はつまりそういう事だ。
どちらにしてもお前に未来はない。王家だけではなく国全体を混乱に陥れようとしたその愚かさを、これからしっかり償うのだな」
「そっ、ま、お待ちください父上!」
「こやつを地下牢へ連れていけ」
近くにいた側近の一人に王が言えば、速やかに王子は抵抗できないよう捻り上げられそのまま引きずられるように運ばれていく。
「ちっ、父上! 父上ええええええええ!!」
喉から血が出るのではないかというくらい凄まじい声でルドウィンは叫ぶも、最早王はルドウィンに意識を向ける事すらしなかった。
今後ルドウィンに待ち受けているのは、その身に無駄に余っていた魔力を余すところなく提供するだけの道具としての人生である。
――そして次にやらかしたアマリリスだが。
こちらは聖女だと自分で直接名乗ったわけではない。
しかしあの婚約破棄の場で、王子であったルドウィンの告げた真の聖女、という言葉を否定しなかった事で結果的に聖女を騙る事となってしまった。
アマリリスには勿論そんなつもりはなかっただろう。
ただ、常に努力し続けている王子を励みに、自分も努力して、同じ努力仲間として仲間意識が芽生えその流れで更に恋が発展しただけだ。
ルドウィンが王族ではなく男爵か子爵、騎士爵あたりの男であったなら、アマリリスとそうなったとしてもそこまで酷い事にはならなかった。
だが相手は王子で、しかも婚約者がいたのだ。
淡い恋心をアマリリスは捨てきれなかった。
いずれルドウィンがヴァニラと結婚するとしても、それまではせめてその心に自分を留めてほしかった。
実際アマリリスはヴァニラから嫌がらせなど受けてはいない。
だが、別の人物からは嫌がらせをされていた。
癒しの魔法を使える事で、教会から癒しの魔法を派遣してもらう手間を省きたかった一部の者から城に呼ばれていたアマリリスの事を良く思わない存在は少数ではあったが確かにいたのだ。
別に思い上がるような真似をしたことはない。
けれども、城で働く者たちはいずれも厳正な審査だとか、厳しいチェックをクリアしてきた者たちであるのだ。
そこにただ身分が貴族でついでに癒しの魔法が使えるだけの女が、何の苦労もなくポンと城に上がれたという事実を気に食わない、と思う者は確かに少数であっても存在していた。
癒しの魔法を使える者は神殿や教会に多く所属しているが、彼ら彼女らを派遣させるとなると困ったことにそれなりの手続きが必要となる。
そしてその手続きが、びっくりするくらい面倒くさいのだ。
決まり事も細かく多く、申請書一つ出すのに慣れるまでは最低でも五回は書類の書き直しをする事になる、と言われればどれだけ面倒か多少は窺えるというものだろう。
だからこそ、たまたま癒しの魔法が使える事が発覚したアマリリスは、彼女を知る城勤めの者の推薦で城に上がる機会を得たに過ぎなかった。
そしてそこで出会った王子との、淡いラブロマンス。
未だ婚約者もいないアマリリスには、その恋愛は底なし沼にハマるような感覚だっただろう。
幸せな気持ちのまま溺れ死んでいたならば。
むしろそちらの方が幸せだっただろう。
直接的に名乗りはしなかったが王子の口から真の聖女と称された以上、聖女としての勤めを果たせ、というのがアマリリスに与えられた罰であった。
とはいうものの、本当にちょっとした怪我を治せるだけで話に聞く聖女のような活躍などできるはずもない。
欠損を治せるわけでもないし、病気を快方に向かわせる事もできない。
正直な話、ヴァニラが今まで作ってきた薬で救ってきた者たちと同じだけ救ってみせろ、と言われればまず無理だった。
ヴァニラは薬でもって怪我の治りを早めたり、病気を治したりしてきた。更には美容に悩むご婦人たちに、肌のハリを蘇らせるクリームを作ったりだとか、髪の艶を取り戻す美髪液を作ったりだとか。
けれどアマリリスの癒しの魔法は当然怪我を治せはすれど、肌のハリを蘇らせて五歳は若返る、なんて効果はないし、髪の艶が戻ってキューティクルがトゥルントゥルンに、なんて効果もない。
今までヴァニラが手広く助けてきた者たち全てをお前が引き継げと言われても、そんなの到底無理なのだ。
結果として、王子の暴挙を諫めるでもなく止める事なく、挙句虐げられた事実はあれどその犯人はヴァニラではなかったがために、冤罪を吹っ掛けたとされて。
彼女もまた罪人とされて、癒しの魔法を魔石に込め続けるための道具へと落とされたのである。
彼女がもし、王子の妻ではなく愛人あたりを狙っていたならばまだ逃げ道はあった。
けれども。
婚約破棄の場で、どう見てもアマリリスはヴァニラを貶めて自分がその場に成り代わろうと思っていたと周囲に見られるような状況だった。王子の腕に自分の腕を絡めて、その身を寄り添わせていたのだ。
せめて王子の背後あたりにそっと控えて、自分はそんなつもりではないが王子という身分の高い相手に逆らえなかったと態度で主張すべきであった。
ついでに王子が真の聖女と言った時に声に出して否定できずとも、首を必死に横に振っていればまだ助かる道はあったのだ。
とはいえ、既に手遅れであるのは言うまでもない。
――ヴァニラの両親、とりわけ父に関しては、生まれた時から今に至るまで挫折らしい挫折をしたことのない、大抵の事は思い通りになる人生を歩んできたために、娘を追い出した事でどんな事態になるのかをマトモに考えてなどいなかった。
今までの人生、大抵の事はどうにかなってきたしどうにかしてきた。
王子の婚約者にと選ばれた事は光栄で、王家と縁付くと考えれば自慢の娘だと思っていたがしかし王子から婚約破棄を突きつけられたのだ。
しかもその隣にいたのは子爵家の娘。
伯爵家に生まれていながら、それより家格が下の者に劣ると大勢の前で宣言されるようなのが娘だと思うと、恥でしかなかった。
王子一人の心も射止められなかった出来損ない。
いくら薬を作る腕が良いからといっても、別に薬なんて他の者でも作る事ができる。娘にしかできない特技などではないのだ。
王子からも見限られるような不出来な娘など、我が家の娘として相応しくない。
どのみちあんな大勢の前で婚約破棄をされたのだ。新しく他の婚約者を見つけるにしても、身持ちの悪い貴族の後妻か、金だけはある平民の商人のところへ金で売るか。
いや、それもそれで伯爵家の名に泥を塗るような気がしてくる。
だからこそ、最初からうちに娘なんてものはいなかったとばかりに追い出した。
父親からすればごみを捨てたくらいの気持ちだったのだ。
そこに愛情があったかと問われると勿論無い。
彼は生まれた時から今の今まで悪い意味で傲慢な貴族であり、自分にとって価値のないモノに関して心を砕くなんて真似、するはずもなかったのだ。
追い出した娘がどこで野垂れ死んだとしても、最早関係ない。
自分にとって価値のないモノとなったならそれが身内だったからとて何だという話なのだ。
自分にとって価値があると認める事ができるものならば、多少下賤な身分であろうとも認めるべきは認める。そう豪語しているが、実際のところ本当の意味で認めているかは微妙だった。
そしてその妻であるヴァニラの母もまた、幼い頃から蝶よ花よと育てられてきて、悪い意味での貴族となってしまっていた。
平民を人と思っておらず、持てる者の義務として例えば孤児院などに寄付をするとしても、決して自ら視察などには足を運ばない。
幼い頃に一度連れられて行ったけれど、薄汚い子供がうようよいて怖気が走ったのだ。
だが、貴族としての最低限の義務は果たさなければ、同じ貴族から軽んじられてしまう。
寄付金も、一般的な金額だけでそれ以上の心付けなどする事もなかった。
お茶会などでは人の悪い噂をこよなく愉しみ、豪華なドレスや宝石に目がなく、貴族としてそれらで飾り立ててくれる夫の事は愛していないが気に入っていた。
夫も妻の事は己の足を引っ張るような事をしていないからこそ、お互いがお互いに冷め切っているものの夫婦として成り立っていたようなものだった。
薄氷の上にいるような、それくらい薄っぺらい関係。
とはいえ、愛のない貴族であればそれはまだよくある話だ。
妻は母親として一応娘のヴァニラを多少気にかけてはいたけれど、それだって物分かりのいいお人形のようだったから好んでいただけに過ぎない。
ヴァニラは見た目が幼女だろうとも中身はすっかりおばあちゃんもかくやといったところなので、幼い頃からものの道理は弁えていたし、何回か前にも何度か貴族生活をしていたのでマナーもバッチリであった。
使用人も家庭教師の事も母にも一度だって手を煩わせるような事もなく、見た目も我が子という事で愛らしく。
余計な我儘を言う事もなかったからこそ、娘の事は母として愛していた。
相手が自分にとって都合の良いお人形さんだったからこそだ。
夫が娘を追放しようとした時に、一応お気に入りのお人形のような扱いをしていた事と、母なりに娘には情があったので流石にそれは……と止めようとは思ったのだけれど。
しかしそこで娘と夫を天秤にかけた結果、女は夫を選んだ。
別に夫を愛しているわけではない。
ただ、どちらを選んだら自分にとって得かを考えた結果である。
娘の薬を作る腕前は確かに凄いのかもしれない。
けれど、女はその腕前がどれだけ凄いものなのかを真の意味で理解などしていなかった。同じような薬は他の人間でも作れるだろうと思ってしまったのである。
娘を庇って娘諸共夫の怒りを買って、王都から遠く離れた領地にでも押し込められてみろ。
己の今の生活が一変して、何の楽しみもない生活を強いられなくてはならなくなってしまう。
だからこそ、女は今の生活を選んだ。
王都での華々しい暮らしのために娘を見捨てたのだ。
夫と違って多少の罪悪感はあったけれど、それだって数日のうちにコロッと忘れるようなものだった。
だがしかし、後悔とは遅れてからするものなので。
両親は早々に困る状況を迎えていたのだ。
まずヴァニラの父。
彼は持病を患っていて、あまり酒を飲まないようにと昔から医者に言われていた。
だがしかし、この男酒は三度の飯より好む性質で、医者の苦言もなんのそのであったのだ。
そのため、酔いを軽減させる薬をヴァニラが作っていたのだ。飲みすぎてもこの薬を飲めばたちどころに酔いが醒め、二日酔いもしない。
あまりに酷く飲みすぎた時、薬がなかった頃は身体に鉛でも詰められたかのように重くなっていたけれど、それすらない。好きなだけ酒を飲んでも快適なままで、すこぶる調子が良かった。
だがしかしその薬がなくなって、父は初めて焦りを覚えた。
なに、その程度、他の腕のいい薬師に頼めばすぐにでも作ってもらえるだろう。そう思っていたというのに。
なんと薬の作り方がわからないと薬師にこぞって言われたのだ。
別に嫌がらせで言っているわけではない。本気で薬師たちは首を傾げ、一体どうやったらそのような薬が作れるのかとむしろ教えてほしいくらいだと口をそろえて言ったのだ。
似たような効果を持つ薬が作れないわけではないが……と一人の老齢の薬師が言った事で、縋る勢いでではそれを! と頼めば老齢の薬師はそっと首を横に振った。
作れなくもないが、材料がない。
その材料を調達するにしても、自分一人では到底無理だ。
淡々とそう言われて、一体どんな材料が必要なんだ。王都には様々な物が入ってくるのだから、金さえあれば手に入らない事もないだろう。そう必死に言うが、老齢の薬師はそれでも首を横に振った。
彼が知る薬のレシピには、ドラゴンの生き胆が必要であるらしかった。
ドラゴン。
王都付近にそんな物騒な生物はいない。
いるとされているのはもっと遠くの大陸の果て。霊峰と呼ばれる山の、人の身ではそれこそマトモに立ち入る事もできないくらい高い場所。
そんなほぼ入手困難な素材を使ったレシピが何故、と父が問えば、かつての聖女が残した物なのだとか。
それ以外にもいくつか、どう考えても入手困難な材料を口にされて、仮にそれらを金に物を言わせて入手できたとしてもだ。
間違いなくその頃には伯爵家の資産はゼロどころかマイナス。つまりは多額の借金を背負ってしまう。
父は知らない。
ヴァニラは確かにドラゴンの生き胆なんて用意できなかったけれど、その代わり薬効効果の高い植物を自在に育てる事ができたので、品種改良しまくった薬草で代用していた事を。自然界に存在しないレベルで品種改良された薬草を使っているのだから、仮にレシピがあったとしてその通りに作ったとしても、薬効はヴァニラが作ったものの半分にも及ばないという事を。
結果として父は今までのように酒が飲めなくなってしまった。
飲みすぎた結果、地獄のような二日酔いに悩まされるようになったのだ。
朝からガンガン頭は痛むし、吐き気は留まるところを知らないし。
寝ている間にうっかり吐いて、吐瀉物が喉に詰まって窒息死するかもしれない危険性もあったと言われてしまえば、眠る事すら恐れるようになった。
人生においてもっとも楽しみだと言えるものは、男にとって酒だった。
その大好きな酒をやめるつもりはないけれど、今までのように好きなだけ飲む事ができなくなってしまった。
その事実だけでも辛い。
飲みたいのに我慢しないといけない、というのはとんでもなくストレスだった。
この時点で、男はとても後悔していたのだ。娘を追い出すべきではなかった。
いや、追い出す前にせめて薬の作り方を残してもらうべきだった、と。
なお作り方を残してもらっても、前述の通り自然界で入手した物では薬効が薄く、彼の望む薬の効果は得られないのだが……まぁそんな事知るはずもないので、もし作り方を残してもらったところでいずれまた同じように後悔する事になるなんて、男が気付けるはずもない。
それだけではない。
男の執務は基本的にデスクワークが多く、座っている事が多い。
ひたすら書類を片付けるようなものだが、長年のその行為は尻と腰、そして肩にも負担を大きくかけていた。
それもまた娘の作った薬で疲労回復させていたのだが、他の薬師は同じ薬を用意できなかった。
大好きな酒を我慢しなければならないだけではなく、日々頭痛肩こり腰痛神経痛に悩まされるようになり、日常生活に支障が出始めて、長時間座っているのもつらくなってきてそこで、娘はごみなどではなく自分にとって宝物のような存在であったと思い知ったのだ。
追い出した娘が今頃どこにいるかを探そうにも、日数がかなり経過している。
だからこそ、今頃はきっともうどこかで野垂れ死んでいると言われてもおかしくはない。
一縷の望みをかけて生きていると希望を持っても、では、無一文で追い出された令嬢が生計を立てるとするならば、間違いなく得意としていた調薬だろうと凄腕の薬師の情報を集めてみたけれど。
娘らしき人物の情報なんてこれっぽっちも出てこなかった。
合間合間で休憩のように横にならないと、とてもじゃないが辛くて仕事もままならない。
横になって休憩している時に思うのは、今更のように娘の事ばかりであった。
そしてヴァニラの母もまた、父と同じように困り果てていた。
彼女は生来から肌が弱かったのか、ちょっとしたことで肌にできものができる体質だった。
白い肌に、ぽちっと赤みのあるできものがあればそれはもう目立つのだ。
昔はそれがとてもコンプレックスだった。
しかもその赤い部分は下手に触るとじんわりと痛むので、それが顔にできていたなら化粧をする時なんて酷かった。赤い部分が目立たないように粉を叩くにしても、そうすると痛みが続くのだ。そうしてじんじんと痛みだけが自己主張するならともかく、場合によってはその赤みが広がる事もあった。
夫となった男はそういった部分をあまり気にしない人だったから、顔にできたできものを見ていやそうに顔を顰めたりはしなかったけれど、それを人に見られているというのは女からするととても嫌だったのだ。
娘が生まれて、ある程度成長してから作ってくれた顔に塗るクリームは、痛みを抑えて赤みも引く優れものだった。顔にプツプツとできものができてしまったせいで、過去何度か誘われた茶会を急遽キャンセルすることもあったが、このクリームが存在してからは、そんな事もなくなって。
自由に社交ができるなんて、と女は目の前の世界が広がるような感覚に陥っていた。
そして、娘が追放された今、そのクリームは残り僅かであった。
できものそのものができなくなれば、クリームがなくても困る事はない。
けれども、今でもふとした瞬間にできるそれのせいで、クリームの消費量は増える事はあっても減る事はない。
慌てて同じ物を薬師に作ってほしいと頼んでみたけれど、こういった美容系統の薬は頼んだ薬師たちにとっては専門外であった。
美容関係に力を入れている錬金術師だとかも紹介されたけれど、生憎と結果は惨敗であった。
赤みを抑える事はできても痛みは残ったままだとか、その逆であったりだとか。
両方の効果を持った薬はできなかったのである。
ならば、その両方を顔に塗れば解決すると思ったが、いざ塗ってみれば顔にペンキでも塗っているのかというくらい酷い違和感があった。その上から更に化粧を、なんてとてもじゃないができそうにもなかった。
それだけではない。顔にできものができていなかった時は娘の作った美容クリームも顔によく塗っていた。
女はまだ若いと思っていたが、しかし既に子供を産んである程度育つくらいには年月が経っている。
まだ若い、子を産む前の、それこそ結婚する前だった頃のようなハリのある肌からは遠ざかってしまっていた。
けれど、それも娘が作った美容クリームを塗れば、潤いが戻り、肌も明るく見え何より手触りが良くなって。
社交の場ではいつまでも若くて羨ましいわ、一体どんな美容法を? なんて聞かれたりもしたのだ。
本当なら秘密にしておきたかったけれど、それでも極一部のご婦人にはそっと秘密を教えたりもした。
そうして一部の、とりわけ身分が高くてこれからも付き合いを続けていきたい家の夫人あたりにもその美容クリームを横流ししたのだ。
そうする事で、女は本来ならばとるに足らないと思われてあまり付き合いもしてくれなかっただろう家とそれなりに仲良くさせてもらう事にも成功していた。
だがしかし、そのクリームはもうない。
なんだったら、年のせいか少しばかり傷んできてぱさぱさになっていた髪に塗ればあっという間に艶々になっていた美髪液もだ。
顔に赤くぷつぷつとしたできものができたまま、茶会などに行けば間違いなく馬鹿にされる。
まぁ、どうしたのその顔、なんて言われて、お大事にね、なんて表面上は心配されるかもしれないが、内心では間違いなくあんなひどい顔で人前に出るなんてねぇ……? なんて言われるに違いないのだ。
自分が逆の立場なら、間違いなく裏で馬鹿にするように愉しんだ。人の不幸は蜜の味ゆえに。
だがしかし、今現在女の方こそが不幸のどん底に辿り着こうとしている。
美容クリームを融通していた夫人たちには、もう渡せない。渡す物がないのだ。
他の薬師に頼んでも、あれほどの出来の物は用立てられない。
もっといい材料を使えば作れるかもしれない、と言われても、その材料を調達するための人材を確保しても必ずしも入手できるとも限らなかった。
美容に力を入れている錬金術師曰くの材料が、どれもこれも危険な場所でしか入手できない物なので。
そうなれば、今までの待遇が嘘のように手のひらを返される。
それどころか、優秀な娘を追い出した、人を見る目のない凡愚。そんな風に囁かれるのだ。
美容クリーム欲しさに内密にヴァニラの行方を捜したらしい侯爵家や公爵家もいたらしいが、結果は言うまでもない。
もし娘を無事に確保できているのなら、養子に迎えて二度と女とは近寄らせてもらえないだろう。
貴方の棄てた娘は今はうちの娘ですの。
そんな風に自慢とともに。
いよいよクリームもほとんどなくなってからは、もう女はマトモに外にも出られなくなってしまっていた。
周囲が自分を見てひそひそと何かを言うのを見るのが怖い。
自分の部屋で鏡を見るのもイヤになって、窓に映る自分の姿にも恐怖するようになってカーテンを閉め切ってベッドの中に潜り込んで。
使用人とも最低限の接触しかしなくなった。
あぁ、折角王都にいるのに社交の場にも出られないなんて……
こんなことならあの時娘を追い出そうとする夫を、どうにかして止めるべきだった。
そのせいで領地に追いやられたとしても、それでも。
外に出られる状態であるならば、いずれ返り咲く事だってできたはずなのだから。
少なくとも、こうして人前に出られない状態でずっと部屋にこもり続ける事にはならなかった。
そう後悔しても。
すっかり今更な話なのである。
――さて、家を追い出されたヴァニラのその後ではあるが。
彼女は魔女なので、夜の闇もなんのそのとスイスイ移動して、適当なところで一息いれて人気のない場所に泉を発見したのでそれを水鏡に見立てて他の魔女と連絡を取ってみた。
本来魔女は集団で生活しないけれど、それでも関わりを絶っているわけではない。
ただ、あまりにも集まりすぎると力のない弱者が危険視して勝手に襲い掛かってくるから、危機回避のために分散しているに過ぎない。
弱者が襲ってきてもそれを返り討ちにすればいいだけ、と思うかもしれないが、その弱者を仕留めた後、今度はその弱者の親類縁者が魔女を倒しにやってくるのだ。
一匹殺すと続々と刺客がやってくる。まさしくそんな感じで。
他の魔女も以前の姿と異なっていても、中身は同じだ。
あんた前と随分変わったわねぇ、なんてしみじみ言いながら、それはあんたもでしょ、なんて軽口を返されたり。
婚約破棄されて家追い出されちゃった、なんて言えば、連絡を受けた魔女は腹を抱えて笑い転げた。
あっ、あんた、それ何度目よ!? なんて言われたが、失礼な。まだ三度目である。
ぷくっと令嬢にあるまじき頬を膨らませて不満ですという表情を浮かべれば、相手の魔女は目尻に涙を浮かべつつも、あぁそれじゃ、ウチくる? なんて誘ってくれた。
誘ってくれた魔女――キャンディはヴァニラが暮らしていた国と隣国の国境付近で生活しているというし、そこまでならまぁ、辿り着けなくもない。
お言葉に甘えて世話になる事にしたので、ヴァニラは衣食住を確保する事に成功したのだ。
衣に関してはキャンディに用立ててもらえばいいし、食に関しては野菜と果物なら問題ない。
大抵の魔女は自分の周辺の空間に物をしまい込んでいるため、ヴァニラも植物の種や苗をしこたま隠し持っていた。
……困ったことに、ヴァニラはそれ以外の物をしまおうとするとあまりうまくできないのだが。
植物に関連する事ならあっさりできるのに、それ以外は中々どうして上達する見込みもないのであった。
水鏡経由でキャンディがヴァニラのいる場所に干渉し、ヴァニラは一瞬でキャンディの家に招かれた。
なので、彼女を追いだした両親や、彼女に利用価値を見出していた他の家の貴族たちがどれだけ彼女を探そうとしても見つからないのは当然の結果で。
てっきりどこかで野垂れ死んだのだろうと思われていたヴァニラは、しかし雨風しのげるマトモな家でコルセットなんて必要ない楽な服に身を包み、自分の魔法で成長させた品種改良に改良を重ねたとても甘くて美味しい果物を食べたりキャンディの手料理をご馳走になったりして、とてものびのび過ごしていたのである。
不幸になっていった者たちの中には、死んだらヴァニラ様に死者の国で会えるかしら……もしそうなったら謝らないと……なんて後悔していた者もいたけれど、どっこい死んでもヴァニラに会えない。
むしろ今現在こうしてある意味怠惰にだらだらゴロゴロしている姿を見たら謝るとかいう意識も吹っ飛ぶのではなかろうか。
それくらいヴァニラは久々に怠惰な生活をエンジョイしていたのである。
なにせ今までは貴族令嬢として、ついでに王子の婚約者としてあまり気を抜いてはいけない生活をしていたので。
そういうわけなので、別段ヴァニラは誰の事も恨んだりはしていなかった。
たとえば、王子があの場でヴァニラの事を大罪人だ、処刑しろ! なんて言っていたら、多少なりとも敵対の意を見せたとは思う。逃げおおせた後でちょっとした仕返しもしたかもしれない。
でも別に、そこまで言われてはいなかった。
アマリリスに関しても、虐められたとかのたまってたが、自分はやっていない。冤罪吹っ掛けてきた事にはちょっとどうかなと思ったけれど、これもそこまで怒るべき事ではなかった。
もしあの場で、私の方が貴方より上手く薬を作れます! 大した事のない腕で大きな顔しないで! なんて言われたらカッチーン☆ となっただろう。
こちとら何年魂が生きてると思ってるんだ。お前みたいな小娘に偉そうに言われたくないわ! みたいな感じでキレたかもしれない。
いや、確実にキレていた。そこまで言うなら今自分が作った薬以上の物を今すぐ持ってきな! とか啖呵切ったと思う。
でも、張り合う部分が薬ではなく女として王子にどちらが相応しいか、みたいなノリだったので、正直どうでもよかったのだ。
私の方が色っぽいですだとか、美人ですだとか、そういう見た目に関して張り合われているだとかなら、ヴァニラは今の今まで、というか大昔に散々その手のマウントを受けてきたので今更それをやられても、前にもこういう言い分の人いたな。皆同じような事しか言わないんだな。教本でもあるのかしら。
とか思うだけで。
両親に関しては言うまでもない。
あの人たち私の作る薬なくなったらどうするんだろう、とは思ったけれど、それだけだ。
まさか何も考えずに追い出すなんて思っていないので。どこぞの高名な薬師にでも頼むつもりなんだろうな、とは思ったけれど、それでも無理だった場合の事とか一切考えてないんだろうな、そうなったらどうするつもりなんだろう、とか思うけれど。
そこでわざわざ戻って様子を見に行ってあげようだとかは思っていなかった。
だって下手に戻ったら今度は逃がすものかと縋りつかれて、最悪家の中に幽閉されるかもしれないのだ。
今のヴァニラになる以前、もっとずっと昔にそういう事があったから、可能性としてはゼロではない。
懐かしいな、確かあの時は部屋の中壊して脱出したっけ。魔法で壊せる感じじゃなかったから、ちょっと大きく育つ木の苗急成長させて。
まぁともあれ。
ヴァニラは日々をのびのび過ごしていたというのは確かだ。
そんなある日、キャンディに魔法薬の材料が足りないから作ってくれないかと頼まれる。
世話になってるし、それくらいいいよぉお安い御用だよぉと頷けば、キャンディは顔をパッと明るくさせた。
「助かるよ。必要なのは命の果実なんだけど」
「まぁた面倒なものを……前にも植えたじゃないか」
「あんな遠くまで採りになんていけないよ。長距離移動だし、採って帰ってくるだけで一苦労だもの」
そう言われてしまえば、確かにそうねとしか言いようがない。
命の果実は別名万能の実と呼ばれ、これ一つあれば大抵の怪我も病気も治ってしまうというくらい凄い物なのだが、しかしそう簡単に採取できるようなものではない。
実があるのはとんでもなく上の方だし、そこまで登るのだって簡単な話じゃない。
更には実を簡単にとらせまいと木には防衛機能が備わっている。葉の一枚一枚にまるで意思があると言わんばかりに襲ってくるのだ。
葉は薄いものではなく厚みをもったもので、食肉植物にありがちな見た目の棘を持っている。それらが木から離れて周辺を守るようにして自律しているという、自然界の中において一体どんな進化を遂げたのか……というようなトンデモ植物であった。
そんな物騒なもの、当然町中にあるわけではない。
人里付近にあればそこはあっという間に滅んでしまう。
実を守ろうとする葉はそれこそ一枚一枚が鋭くて人体なんて簡単に切り裂けるだけの殺傷力があるし、更には実を採りにこようとするのは人だけではない。普段は人里付近になんて現れる事のない魔物だって吸い寄せられるようにやってくるのだ。
特に怪鳥ギレアは命の果実の匂いに凄まじく反応し、地の果てからでもやってくると言われている。
こいつを倒すのは並大抵な事ではなく、一流と呼ばれる冒険者たちが束になっても勝てるかどうか……と言われる程の凶鳥なのだ。
まぁヴァニラにとっては可愛いでっかい鳥さんなのだが。
ヴァニラは植物の成長促進魔法を使って命の実の収穫を早めたりもできる。だからこそ、それを与えれば怪鳥は案外簡単に懐くのであった。
本来上の方に実をつけるが、ヴァニラが魔法を使えば手の届く範囲での収穫も可能ではある。
ついでに植物を操る魔法で葉っぱに実を採りに行かせる事もできるので、どれだけ凶悪だろうと植物である限りヴァニラにとっては無害なものだ。
苗はある。
なので植えて育てればあっという間に実を収穫できるまでにはなる。
しかし。
「どこに植えろっていうのよ」
「あんたが前いた国のあたりでよくない? うちから近いし」
あっさりと言われ、ヴァニラは数秒考えこんだ。
そして。
「それもそうね」
とんでもない巨木に育つので、下手に人里付近に植えれば葉っぱが危険だし魔物も近寄ってくるしでかなり危険なものなのだが。
正直あの国にもう何の未練もないヴァニラにとっては気にする事もないなと思えるもので。
それ故に決断は早かった。
本来ならば命の果実が育つまで、というか木が成長するまでにはかなりの歳月がかかる。
いくら万能の果実と伝承で謳われるようなものであったとしても、危険を無視してまでその木を放置しておこうと思える国はない。
人のあまりいない場所で育つならいいが、首都に近い場所でその木が発見されたなら間違いなく伐採されてしまう。怪我も病気も治せるし、疲労も一瞬で回復し、若返りの効果まである、とか言われていようともだ。
その実を手にする前に葉か魔物に殺される確率が高すぎるのだ。
大体上の方に登るにしたって、一日じゃ辿り着けないくらい高い場所にしか実をつけないのだ。
実を守ろうとする自在に動く葉から身を守り、実を狙ってやってくる怪鳥の猛攻を受け流しつつ上に登るとなると、難易度は計り知れない。
運よく鳥が啄まなかった実が落下してきたのをゲットできれば良い方である。
成長する前であれば伐採もそこまで難しいものではない。
だがしかし。
そこに、魔女ヴァニラの植物成長促進魔法が合わさってしまったが故に――
かつてヴァニラが暮らしていた国は、あっという間に成長した木に押し潰され、国はほぼ一瞬で崩壊したといってもいい。
王国の者たちは何が起きたか理解できていなかったのではないだろうか。
急速に木が成長して、ぐんぐんとその太くなっていく幹が迫ってくるのだ。
そうして建物を押しつぶし、更に成長しもう斧だとかで切れないくらいの大きさになっていって。
どうにか生き延びた者たちが見たのは、上から降ってくる葉である。
意思を持って襲い掛かるように降ってくる葉に切り刻まれて、逃げ出そうにも木の攻撃範囲内からは中々抜け出せず、そうこうしているうちに、上の方にある実を狙ってどこからともなくやって来た怪鳥ギレアが大地に降り立てば。
並大抵の者たちに成す術などなかったのであった。
ヴァニラが貴族令嬢のままでいたならば、一応貴族令嬢としての振る舞いをしていたのでこうはならなかった。
追い出されて、もう一切関係ないと判断されたからこそ起きてしまった悲劇であるが。
その真相を知る者など、王国には当然いなかったのである。
成長した木は常に実をつけ、数百年経った今でもそこにある。
かつてそこに王国があったなんて痕跡は、とっくのとうに消え失せていた……