おはよう有栖
目覚めは最悪の気分だった。
ベットの上で身じろぎをすると床板が不快な音をたて、身を起こして腰を据えれば、今度はベットの脚がその経年劣化を語る。
朝日が入らず、仄暗い西向きの部屋の中で淡々と身支度をすませる。薄汚れたレギンスを履き、合金製の腕当てと胸プレートを装着する。
燭台と蝋燭は一つずつしか用意されていないため、安易に使うことはできない。だが人間慣れてしまえば、暗い部屋の中の作業などほぼ平常と変わらない。物の位置も量も変わらなければなおさらだ。
この代わり映えのしない宿屋に腰を据えてからもうすぐ一年が経過しようとしていた。つまり、この街、シャルデで日銭稼ぎに奔走するようになってから、一年ということになる。
その月日を感じさせるだけの充実感の欠如、未だに先の見えない生活に、久しく感じていなかった焦燥感が何故か込み上げてくる。
だが泣き言を言おうが喚こうが、結局自分を守れるのは自分の力のみだ。
この世界に都合のいい慈悲は落ちてはいない。
ふと、部屋の隅に目をやる。
有栖はまだ起きてこない。
部屋の隅に置いてある一段上のグレードのベットを占領しながら、ぐっすりと熟睡に浸っている。
「それじゃあ、いってくる。有栖。」
まだ眠りこけている有栖の額に手をやり、呟く。艶のかかった黒髪を掬うように丁寧に持ち上げたあと、しばらくそのままの体勢を保った。
歩く度に悲鳴を上げる廊下を進み、階段を降りると頭を丸く剃髪した宿屋の主人がふいと顔をこちらに寄越すと、すぐに後ろを向き直した。
「おはようございます、おやっさん。」
返答はない。
代わりに受付台の下から一枚の羊皮紙とシガーカッターを取り出し、羊皮紙を裏返しにして受付に叩きつけるようにして置いた。
「先週末までのリストだ。それとは別に一つ聞きてえことがある。」
(ち、てめぇが言えた義理じゃねぇだろうが)
心の中で毒づきつつも、表情は変えずに、知らないふりをつき通す。
「…」
こちらがだんまりを決め込んだと見たのか、主人は首を鳴らし、ため息をつくと、胸ポケットから一つ葉巻を取り出し、ちょきりちょきりと小耳のいい音を立てながら葉巻の先端部を切り取る。その破片が受付台の上に並べられていく、目線はこちらにない。
「別にお前さんを疑ってるわけじゃねぇ。ただ、先月の納品額と回ってきた帳簿の額があわねぇってだけだ。」
こちらには目線を向けないまま、葉巻に火を付け薫らせると、不愉快なにおいが身体に纏わりついてくる。
「…」
「この業界、俺らみてぇな下請けは信用だけが全てだ。焦って眼の前の餌に食いつくと、失うのは信用だけじゃねぇんだぜ?」
ぎょろりと大きな眼球が初めてこちらを向いた。
「なんのことだか。大方、博打に負けたか、まともに計算もできない奴がいたんじゃないですか?」
わざとおどけたような仕草であちらの藪を突付けば、丸くて見やすい顔がより一層わかりやすい表情をした。
「なめた口ききやがって、てめぇ、噂じゃ偏屈爺の娘に気に入られて天狗になってるそうじゃねぇか。はっ、日陰者は大人しく地面の垢舐めてりゃいいんだよ」
これで話は終わりだと言わんばかりに羊皮紙の上に灰が落とされる。それを無言で受け取ると、目を合わさずに宿の玄関へと向かう。
「俺をどう疑おうと自由ですが、俺と妹の安全の担保という契約の下に成り立っていることをお忘れなきよう」
そう吐き捨てて宿を出ると、背後からわざとらしい舌打ちが聞こえてきた。